彼氏にタピオカしか愛せないと言われたら

増田朋美

彼氏にタピオカしか愛せないと言われたら

今日も絢子は、自宅内で原稿の執筆をつづけていた。隣で智子おばさんが何か

をしているのも気が付かなかった。

「お嬢様。」

ふいにそんなことをいってくる智子おばさん。

「もう、そろそろ休憩したらどうですが。目がちょっと怖い感じになってますよ。」

智子おばさんは、そういって絢子の顔の前に鏡を持ってきた。確かに目が真っ赤になっている。

「お嬢様、鉛筆が握れるようになってうれしいのは分かりますけど、かといっていつまでもやり続けてたら、また持てないころに逆戻りですよ。」

そういう智子おばさんに、絢子は余計なお節介をするなと言いたかったが、其れはやめにしておいた。

「はいドウゾ、タピオカのココナツミルクあえです。」

智子おばさんは、お昼ご飯を出した。大量のタピオカをココナッツミルクであえた、タイ料理である。智子おばさん、時々こういう変なものを作ることがあった。タピオカとは、キャッサバの粉から製造したでんぷんであるが、今、栄養の高い食材として、注目されているのである。そのほか欧米のタピオカプディングも日本で平気で食べられるようになった。

「今日は何を描いているんですか。」

絢子にスプーンを持たせ、智子おばさんが聞いた。

「決まっているじゃないの、鉛筆が持てるようになった喜びを、こうして忘れずに書くのよ。」

絢子はそういって、にこやかに笑った。

今書いているストーリーはこうである。脳梗塞のせいで鉛筆が持てなくなった主人公が、愛人の絵を鉛筆で描くようになるという内容。絢子も、鉛筆が持てるようになるには非常に苦労したので、そこを重点的に描きたいと思っている。そして、もし、このお話が出版されるようになれば、一番はやく見せてやりたい人物がいる。

「お嬢様、そういう物は果たしてどうなんでしょうかね。」

と、智子おばさんは、ちょっと不服そうに言った。

「まあねえ、確かに鉛筆が持てるのはお嬢様にとっては、一番の喜びなのかもしれないですよ。其れは認めます。でも、これまでお嬢様が描いてきたものに比べると、ちょっと個人的すぎちゃっているというか、そんな気がしませんか。」

「そう?」

絢子はそんなことは思いつかなかった。確かに、絢子は今まで小説やら随筆と言ったものを書く場合は、すべて出版社の人か、智子おばさんに代筆してもらっていた。そのせいで彼女の書く主人公たちは、大体バットエンドで終わることが多かった。しかし、そのせいで、人間特有のおごりという物を止めることができると、ほかの作家の人から言われていた。其れが、作家となった佐藤絢子の最大の味だと、彼女を文学賞に推薦した、偉い人たちは言っている。絢子自身も、そこを持ち味だと自覚しており、これまでに書いたものはすべて喜びではなくて、悲しみを打ち出してきた。

そので、今回の作品は、彼女の作品にしては異色と言えるもので、鉛筆を持てた喜びを描いているのだった。

「よく考えてみてください。お嬢さま。確かに喜びを書くというのは、すごいことかもしれませんよ。ですけど、喜びというものは、必ず嫉妬という感情を生じさせますよ。此間出版社の方も言っていましたね。佐藤絢子さんは、数奇なお話を書くから、こうして人気のある作家として認められているんだって。それを忘れちゃだめですよ。もし、鉛筆を持てた話を書いたら、佐藤絢子もまた凡人に過ぎなかったかって、笑われるのではないですか?」

智子おばさんはそう注意する。でも絢子はどうしてもこれを書きたいのだった。

「わかってるわよ。不特定多数の人に書くものではないわ。これは、ある人に、見せたいから描いているのよ。わかるでしょ、おばちゃんだったら。」

「お嬢様、まだ思っているのですか。あの人って、磯野さんでしょ。」

絢子がそういうと、智子おばさんはまた言った。まさしく図星だったので絢子は一瞬驚いてしまう。

「それなら、もう忘れた方がいいんじゃありませんか。磯野さんは、もう、かなり弱って、他人のことなど何も出来ないと聞いてますよ。もう、ご飯だって、食べるのに本当に苦労しているそうですから。もう、お嬢様の作品を読んでくれるような余裕は

ありませんよ。」

「そう。なら私と同じじゃないの、ご飯だって、私も食べるのには苦労するわ。」

おばちゃんの説明を、絢子は彼女なりに解釈した。そういう事なんだろうと絢子は思っていた。

「そういう苦労じゃないんです。彼はきっと、お嬢様の事なんか見てはくれませんよ。そこにあるタピオカしか愛せないんじゃないですか。それくらい、食事するのに苦労しているそうですから。どうですか、お嬢様、これでわかりましたでしょ。」

それでは、そういう事なのか。

「そんなに悪いの?あの人。」

絢子は思わず聞いてみる。

「ええ、そうみたいですよ。お嬢さまがあいに行っても、ほとんど通じないそうですよ。」

智子おばさんははっきりと言った。

「そんな、そんなこと、どうしていってくれなかったのよ。其れだけ悪かったら、私、すぐに会いに行ったのに!」

絢子は、思わずそんなことをいう。

「いいえ、お嬢様が、磯野さんに会いに行ったら、其れこそ大変すぎて困ったことになりますよ。ほら、こないだの時だってそうでしたでしょ。タクシーの運転手さんが、お嬢様を乗せるとき、非常に困ってしまったと、後で苦情を私のところへ寄せられました。それでは困るじゃないですか。お嬢さまはタクシーの運転手さんにすごい迷惑をかけたことになりますよ。誰でも人に迷惑はかけちゃなりませんから。其れよりも、自分のやるべきことをしっかりやることが、お嬢様が磯野さんに出来る事ではありませんか?」

そういえばそうだった。一度だけ絢子は製鉄所にタクシーで行ってしまったことがある。あの時は幸せだった。運賃はもちろん足りていた。でも、彼女のような重い障害

をもっている人物を乗せるという例はまだまだ数がなく、確かに運転手は戸惑うかもしれなかった。それが不快な印象ととられ、智子おばさんのところに苦情が行ったのだろう。

「でも、あたしは何も悪いことはしてないわ。ただ、会いに行っただけじゃない。それだけの事よ。」

と、絢子はもう一回言うが、それではいけないと智子おばさんは言った。

「いいえ、お嬢様、この社会では、お嬢様のような人を認めるようなシステムはまだありません、お嬢様は、まず第一に、自分のやることをしっかり持っていないといけないんです。それができなければ、他人を愛する何て絶対にできやしませんよ。愛するというのは、自分の事を、しっかりコントロールできるようになって、初めてやってもいいものなのです。」

「そうなのね、、、。」

と、絢子は静かに言った。

「でも鉛筆を持てるようになった喜びは描いてはいけないかしら。」

「そうではないんですよ。お嬢さまはちゃんと、周りの人がお嬢様に描いてほしいものがいろいろあるんですから、そっちの方に目を向けなくちゃ。磯野さんに会いに行くには、そのあとにしてください。」

「わかったわ。」

智子おばさんのやり取りに、絢子は納得したのかしないのかわからない顔で答えた。そのあとで、絢子はタピオカに匙を入れた。いつも通り、一苦労する食事がまた始まるのだ。

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