67. 兄様は頼られて嬉しい

 兄の部屋は、廊下を挟んだ斜向かいにある。

 今日と明日は非番の日だったはずだ。昔はよく勉強や遊びに付き合ってくれたが、ルドガーが王宮で働き出してから、こうしてイザベルが兄の部屋を訪れる機会もほとんどなくなった。

 久しぶりの訪問に緊張しながらドアを叩くと、ルドガーは喜んで出迎えてくれた。

 ソファで休んでいたらしい。長テーブルには読み物と紅茶とクッキーが置かれている。それを一瞥し、テーブル前で足を止める。


「ルドガーお兄様。実は折り入って相談したいのですが……」

「……まさか……」

「お兄様?」


 ソファから立ち上がり、ルドガーは天を仰ぐ。

 端整な顔立ちであるはずなのに、それを打ち消すように目元に濃い影が落ちている。身内から見ても、ひどいクマだ。

 どれだけ睡眠を取っていないのだろう。王宮で缶詰生活の後は毎度のこととはいえ、さすがに労災で訴えてもいいレベルではないだろうか。


(そもそも、この国に労働基準法があるのか、わからないけれど……。でもこのままだと、確実に過労で死にそうだわ)


 危機感を募らせていると、ルドガーは嬉しそうに言う。


「まさか二度も、天使から僕へ頼みごとをされる日が来ようとは! どんな難題だって、この兄様に任せたまえ。カリス殿下の無茶ぶりに応えてきた秘書官の腕をもってして、立ちどころに解決してみせよう!」


 キラキラのエフェクトを背後に展開させ、自分に酔いしれるルドガーにイザベルは呆れを通り越して心配になった。


(一体、今までどんな無茶ぶりをされてきたのかしら……)


 本当はゆっくりと休ませてあげたいところだが、こちらも急いでいる。

 あとで好物の差し入れをするようにメイドに頼んでおこう、と心のメモに走り書きをする。

 期待で目を輝かせる兄に、イザベルは罪悪感をいったん押し込め、彼にしか叶えられない願い事を口にする。


「お兄様に頼みたいことはひとつ。リシャールを足止めしてほしいのです」


      *


 一階に下りると、待っていたようにリシャールが階段横から登場した。


「お嬢様。どちらへお出かけでしょうか」

「……王宮の書庫よ」

「では、私も同行いたします」


 予想通りの言葉だったが、後ろから階段を下りてきたルドガーが口を挟む。


「困るよ、リシャール。今日は僕の付き人を命じようと思っていたのに」

「……はい?」


 従者からの怪訝な声に構わず、ルドガーは悪魔を呼び出せそうな不穏な気配をにじませながら不敵に笑った。ただし、目元は笑っていない。


「ふっふっふ……カリス殿下が報復とばかりに山のように仕事をくれてね。僕ひとりでは捌ききれなくて困っていたんだ。当然、哀れな僕を助けてくれるね?」

「いえ、私はイザベル様つき執事ですので……。それに、イザベル様をお一人で外出させるわけには……」


 逃げる口上を探しているのだろう。リシャールは一歩ずつ後退しているが、ルドガーは大きく一歩を踏み出し、彼の肩を両手でガシッとつかむ。

 そして、目の前の生け贄を決して逃がさないとばかりに笑みを深める。


「それならメイドを一人つけよう。なに、公爵家の園遊会だって一人で行ったことがあるのだから、心配はいらないよ」

「僭越ながら、私ではお役に立てるとは思えません」


 笑顔の圧力にも負けず、リシャールはきっぱりと否定する。

 しかし、それも予想のうちだったように、ルドガーは口調を改めた。


「謙遜は不要さ。君はよくやってくれている。それはエルライン家の者ならよく知っている。父上と一緒に外国を飛び回っているリシャールの父君だって、君のことは高く評価しているようだよ」

「……っ……」


 胸に詰まるものがあったのか、リシャールが珍しく口ごもる。


「リシャールは、早く見習いから卒業したいんだろう? だったら実績の積み重ねが必要だ。スーパー執事になるためには、時に秘書官の代理も華麗にこなせるようにならなくては!」


 街頭演説のように力強く語る様子に、イザベルは胸の内で拍手を送っておいた。

 一方のリシャールは冷めた目で、主人の兄をジッと見つめている。


「……おっしゃりたいことは理解しました。しかしながら、スーパー執事になるつもりはありません。私が目指す執事は、エルライン伯爵令嬢の完璧なお世話ができる存在です」

「ええー、そういうこと言っちゃう? 本当にイザベルは愛されているね」


 さっきまでの堅苦しい演説の気配は立ち消え、ルドガーはにやにやと眺める。いつもなら涼しい顔で受け流すだろうに、今日のリシャールはむすっとして答えた。


「この仕事が好きなだけです」

「まあ、ともかく。次期当主からの命令だよ。君にはこれから一緒に王宮に来てもらう」


 ルドガーが決定事項だと告げるが、専属執事は簡単に引き下がらなかった。


「お待ちください。私ではなくとも、他に適任者がいるはず……」

「困ったね。どうしても不服だっていうのなら、イザベル専属の任を解こうか」

「……かしこまりました。できる限りの範囲でサポートに努めます」

「物分かりが良くて助かるよ。眩暈を覚えるくらい、仕事は山ほどあるからね」


 ルドガーが片目をつぶり、イザベルに合図する。


(一時はどうなることかと思ったけど、さすがルドガーお兄様ね。強情なリシャールをちゃんと丸め込んでくれたし)


 最後は脅しだったようだが、細かいことは気にしない。


      *


 エルライン家のリムジンは王宮に寄った後、王都から離れた郊外に向かっていた。

 王宮の書庫前でルドガーとリシャールと別れ、調べ物を済ませたイザベルは、本来の目的地へ行くことにしたのだ。

 後部座席には、イザベルと若いメイド。助手席に座ろうとする彼女を、無理言って横に座らせたのだ。


「……エマ。急に同行をお願いすることになって悪かったわ」


 女性使用人の中で一番年齢が近いのがエマだった。イザベルの二歳年上のエマはお姉さん的存在で、彼女が里帰りのときに服を交換した仲でもある。

 エマは首元まで隠したお仕着せ姿のまま、真面目な顔つきで言う。


「いえ。お嬢様が気になさる必要はありません。メイド長のメアリー様はお忙しくしていらっしゃいますし、わたしでよければ、どこまでもお供いたしますとも」

「ふふ、ありがとう」


 お礼を言うと、めっそうもないことでございます、と硬い口調が返ってきた。


「このお礼は幻のクレープで返させてちょうだい」

「そのお気持ちだけで充分なのですが……といっても、お嬢様はそれでは満足してくださらないのですよね」

「よくわかっているじゃない」


 にやりと言葉を返すと、エマは昔のように気さくに笑う。


「あれは運を味方につけないと食べられないものですから、もっと手軽に食べられるものでいいですよ。わたしにとって、お嬢様と内緒で食べたという体験がご褒美のようなものですから」

「そう? じゃあ、帰りにどこかに寄っていきましょう」

「ええ。楽しみにしておりますね」


 こうして気軽に会話をするのも久しぶりだ。なにせ成長するにしたがって、使用人たちは一同、距離を置いて接するようになってしまったのだから。

 ルドガーに嫌々付き従っていく専属執事の姿を思い出しながら、イザベルはゆるゆると流れる小川の向こうで小さくなっていく宮殿を眺めた。

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