28. 伯爵令嬢の準備に抜かりはない
終業式が終わり、夏季休暇が始まった。例年は避暑地の別荘で過ごすのだが、今年は情報収集のため、しばらく王都に滞在することにしたのだ。
(なんて言ったって、これからの行動で、未来がまるっきり変わるのだもの。のんきにバカンスしている場合じゃないのよ)
現状、悪役令嬢の役はナタリアに変更されているようだが、臨時キャストの変更なのか、確定事項なのかはまだ不明だ。さらなる調査が求められる。
そして、最重要課題は親密度のゲージの確認だ。トゥルーエンド分岐となるイベントを発生できなかったせいで、親密度が下がっている可能性が高い。
罪滅ぼしではないが、できることがあるなら助力したいと思っている。そのためには、まずフローリアの動向を探る必要がある。
(ゲームと同じなら、フローリア様の家の場所はわかる。偶然を装って会いに行ってみるのもいいかも)
クローゼットの扉を開け放ち、イザベルは奥に隠してある服を引っ張り出した。
麻のブラウスに、平凡な紺のスカート。数日前、里下がりするメイドに頼みこんで譲ってもらった洋服だ。
手早く着替えて、天蓋付きベッドの下に腕を伸ばす。
忍ばせていた紙袋を取り出し、新品の真っ赤なヒールから、薄汚れた編み込みの革靴に履き替えた。
最後に、朝一にリシャールに整えてもらった髪の毛を帽子の中に押しやり、姿見の前に立つ。
「ふふふ……」
鏡に映し出されたのは庶民の娘。
一見しただけでは、伯爵令嬢とは思えまい。服装が変わったことで、前世の庶民らしいオーラも出ている気がする。
「……完璧だわ」
自画自賛する声に反応する者はいない。
イザベルは満足げに頷くと、今度はドアを少しだけ開ける。
注意深く耳をすますこと、数十秒。
足音や話し声が聞こえないことを確認し、廊下から使用人通路に抜け出る。書斎から失敬した非常時用の見取り図を見ながら、裏門へ続くルートをひたすら歩く。
やがて、前方から薄く伸びた外の光が見えてきて、顔を上げる。小さな光源が徐々に大きくなるにしたがって、自然と歩く速度が上がった。
「出口だわ……!」
まぶしい視界に目を細め、片手を顔の前に掲げる。薄明かりの裏道から太陽の下に出て、体が浄化されていくような心地に包まれる。
しかし、始まったばかりの冒険譚に水を差す声が届く。
「イザベル様」
幻聴だ。きっと、聞き間違いに違いない。
「お嬢様、お待ちしておりました」
「…………」
「耳を塞いでも無駄です」
なおも続く声に観念し、両耳を覆っていた手をそっと下ろした。
(……優秀すぎる執事っていうのも問題ね)
声がした左へ目を向ければ、そこには真顔のリシャールがいた。
最初から計画を知ったうえで、出口で待ち伏せていたと考えるのが自然だろう。
「連れ戻しに……来たの……?」
「いいえ。違います」
「えっ?」
言われた意味がわからず、まじまじと見つめる。
「……連れ戻されたかったのですか?」
低い声で問いかけられ、イザベルはぶんぶんと首を横に振った。
てっきり、引き止められるのかと思っていただけに、肩透かしを食らった気分だ。
リシャールは微笑み、胸に手を当てて補足する。
「心配には及びません。伯爵令嬢が従者も連れずに外を出歩くなど……本来は厳禁ですが、今回のことは他言いたしません」
おかしい。見た目はマリア像の微笑みなのに、非難が混じった圧力が勝っているせいで、彼の周りに冷気がゆらめいているように見える。
いやいや、これは錯覚だ。きっと、昨日夜更かししてロマンス小説を読んでいたせいで、目が疲れているのだ。そう判断したイザベルは目をこする。
けれど、瞼を開けた先の景色に変化はなかった。目の前の執事からは、笑顔で隠しきれない不穏なオーラがにじみ出ている。
逃げなければならない。
第六感が告げる危険信号に、どこかに逃げ場所はないかと辺りを見渡す。
「ご安心ください。奥方様にも内密にいたします」
その単語にびくりと肩が揺れた。イザベルの母親は温厚な反面、一度逆鱗に触れると、手がつけられない。
火山が噴火したように、これまでためていた不満が放出されるのだ。
教師のように丁寧な言葉遣いで、ひとつひとつ説教される。さらに、自分の悪かった部分を復唱させられるため、肉体的にも精神的にも疲弊する。
幼いながら、一番おそろしいのは、めったに怒らない人を怒らせときだと知った。
昔の恐怖に戦慄しながら、イザベルは震える唇を開く。
「な……何が目的? なんの見返りもなく、リシャールが協力してくれるなんて考えられない」
「…………」
「あ……えっと、今のは悪い意味じゃなくて……素朴な疑問というか」
我ながら言い訳が苦しい。
視線が右往左往していると、薄く息を吐く気配がした。
目が合った翡翠の瞳は一瞬、悲しそうに揺らいだ。
「お忍びに付き従うのは、お嬢様専属執事としての勤めです。つまり、職務の範囲ですので、見返りは求めていません」
「……そ、そう……」
見逃すというのなら、その言葉に素直に甘えよう。おそらく、今は余計なことは考えるべきではない。
そう自分に言い聞かせていると、さっきの台詞に引っかかる言い方があったのを思い出す。
「……ちょっと待って。リシャールもついてくる気?」
「もちろんです。お嬢様に、それ以外の選択肢はありません」
「……なるほど……?」
納得できるような、理不尽なような。
だが、よくよく考えれば、彼が一人で送り出すわけがなかった。彼は過保護な執事だ。
小雨が降り出したと見上げれば、すぐに傘が視界を防ぎ、雨粒を弾く。試験を頑張ったときは、ご褒美として高級お茶菓子が差し出される。
毎度小言はあるが、基本的には甘いのだ。今回だってお忍び旅のお供を買って出てくれたわけだし。
(うーん。ヤンデレかと思っていたけど、こじらせ系?)
ますますお近づきになりたくないタイプだ。しかし、主従関係がそれを許さない。加えて、婚約問題では敵対関係にある。なんて難儀な関係だろう。
「及ばずながら、私も貴族出身の友人という設定で変装してみました。眼鏡もかければ、街へ出てもすぐには気づかれないでしょう」
めずらしく私服だと思っていたら、変装だったらしい。ズボンのポケットから細身のフレームをかけ、リシャールは得意げだ。
かくして町娘風の主人と、貴族風の友人を装った執事見習いのお忍び二人組は、今ここに結成された。
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