27. 疑惑は確信に変わる

「ジークは、婚約者のわたくしから見ても魅力的な方です。そんな方に手を引かれて踊る夢を見ることは、むしろ自然なことなのです。きっと、フローリア様はダンスの誘いを待っていたはず。……殿方から誘わなくてどうするのですか」


 イザベルが諭すように言うと、ジークフリートはばつが悪そうに下を向いた。だがそれも数秒のことで、すぐに視線が交差する。


「フローリアには、今日はイザベルとだけ踊ると伝えている。そして、彼女も了承してくれた」

「……本心はそうではないかもしれませんよ?」

「そうかもしれない。しかし、僕は不誠実な男になる気はない。それこそ、君に嫌われてしまう。……いや、これもすべて建前だな」


 苦悩するように表情を歪ませたかと思うと、ジークフリートは目にかかっていた前髪を無造作にかきあげる。

 そんな動作でさえ、色気を感じさせるのだから、ズルいと思う。

 子供並みの身長では気取った態度を取っても、子供の延長線としか見てもらえない。大人の色気の身につけ方は、イザベルの近年の課題でもある。

 このモヤモヤとした不満を吐き出すべきかを悩んでいると、不意にジークフリートが片膝をついた。

 騎士の誓いの場面のように、胸に手を当て、もう片方の手をイザベルの前に差し出す。


「今夜、君と見つめ合うのは僕だけ。逆を言えば、僕を独り占めできるのもイザベルだけだ」

「……っ……」

「特別な夜を約束しよう。どうか僕の手を取ってほしい」


 情熱的なセリフに、心臓は早鐘を打つ。注がれる熱いまなざしは、お酒が回っているからなのか、イザベルにはわからない。ただひとつ言えることは、これは誤解しても仕方がないだろう、ということ。


(うぬぼれても、いいのかしら? 今夜だけは特別と……。エンディングのためにも説得するつもりだったけど。どうやら……わたくしの負けのようね)


 悪役令嬢なのに、ほだされてしまった。いや、悪役令嬢だからこそか。

 おそらく、これ以上の説得は意味をなさない。ジークフリートがフローリアと踊らない事態は誤算だが、いずれ挽回のチャンスはある、と思いたい。

 今夜だけ、少しならば、羽目を外してもいいだろうか。


「ジークの思い、確かに受け取りましたわ」


 頼り甲斐のある男らしい手に、自分の小さな手を重ねる。

 緊張して手が震えてしまったが、握られた手に力強く引っ張られて、立ち上がったジークフリートの胸に抱きとめられる。

 鼓動の音が重なり、不思議と心が落ち着いていく。まるでヒロインになったような幸福感に包まれた。


(ううん……これはいっときの夢。わたくしはこの人に選んでもらえない。最終的に選ばれるのは、フローリア様なのだから)


 大きな胸に阻まれて、その向こうにあるはずの月すら見えない。だけど、目の前にある壁は安心感を与えてくれていた。


      *


 舞踏会の会場は休憩している人が半分、踊っている人が半分となっていた。

 ピンクのドレス姿を探そうと会場を見渡す中、彩度の高い色が目に入る。


「あれは……ナタリア様?」


 鎖骨の露出を抑えたボートネックのドレスと手袋は、目立つスカーレット色。豊満な胸もここぞとばかりに強調するデザインだ。自信にあふれた彼女の性格をよく表している。

 ナタリアは赤ワインのグラスを手に取り、優雅な足取りで歩く。

 その先には、クラウドと話していたフローリアがいた。彼女の横を通り過ぎる途中で、ナタリアが体をよろめかせ、グラスに注がれていた赤い液体が大きく揺れた。


「……あっ……」


 揺れたワイングラスは、狙いすましたかのように、横にいたフローリアのドレスにかかる。

 一点の染みは徐々に広がり、フローリアの顔はみるみる青ざめていく。一方のナタリアはわざとらしく大げさに謝った。


「あら、ごめんなさい。大事なドレスがダメになってしまったわね。でも、ここはあなたみたいな人がいるべき場所ではないの。恥を知りなさい」

「……っ……」

「だいたい、庶民風情が生意気なのですわ。一度、殿方と踊れたからって、いい気にならないでちょうだい」


 言い返せずにいるフローリアはドレスを握りしめ、懸命に耐えていた。下手に口答えするべきではない、と知っているのだろう。

 その判断は正しい。気位の高いナタリアに反抗すればするほど、彼女の怒りはヒートアップするに違いない。この場は黙ってやり過ごすのが最善だ。


(それはそれとして……やっぱり、ナタリア様が悪役令嬢になってる)


 先ほどの嫌がらせは、ゲーム内のイザベルがしていたことだ。セリフもほぼ同じ。違う点を挙げるとすれば、ドレスぐらいだ。


(ん? ってことは、今のわたくしはただのモブキャラ? 自滅フラグの回避に奔走しなくてもよくなった?)


 もんもんと考え込んでいると、うつむくフローリアの足元に一粒のしずくが落下する瞬間が見えた。

 周りは遠巻きに見ている者が大半で、クラウドやジークフリートは眉を寄せているが、直接は口出しができないようだった。


(ゲーム内では、攻略キャラがかばってくれたけど……もしかして好感度が足りないとか?)


 本来、彼女はジークフリートと踊るはずだった。しかし、そのイベントは起きていない。となると、薔薇のゲージが下がっていると考えるのが自然だ。

 ジークフリートが踊らなかったのは、イザベルとの約束のせいだ。あのとき不満をこぼさなければ、こんな結果にはならなかっただろう。


(だけど、今は自分を責めているときじゃない……。誰も助けに来てくれないっていうのなら……)


 イザベルは無言のまま、ヒール音を鳴らして前へ進み出る。


「ちょっと、どいてくださる?」


 どこの生意気な女だと振り向いた野次馬の男たちは、声の主がイザベルだと知るや否や、さっと脇に避けた。

 すぐにできあがった一本道を悠然と歩き、立ち尽くすフローリアの前にかがみこむ。

 彼女の腰元にあるリボンをしゅるりとほどいて、ため息交じりに言う。


「こんなところで涙を見せるものではないわ。その綺麗な涙は、もっと効果的な場面に取っておきなさい。……ほら、こうすれば染みの跡は見えなくなるわ」


 リボンの位置を下にずらし、簡単に結び直す。染みの痕跡をうまくカモフラージュし、イザベルは立ち上がる。

 目線を合わせたつもりだったが、身長差があるため、どうしてもフローリアを見上げる格好になってしまう。

 フローリアはたれ目がちな瞳を見開き、なにか言葉を出そうと口をぱくぱくさせていたが、結局、声は喉元から先には出てこなかった。

 驚いた顔をしばらく眺めていたイザベルは、情けない顔でうつむく友人を笑い飛ばしてやりたくなった。しかし、陛下もいる公共の場で、それはまずい。

 ぐっと顔を引き締め、伯爵令嬢らしく強気な態度を保つ。


「以前は庶民だったとしても、今のあなたは男爵令嬢。その身分に恥じないよう、お作法やダンスも特訓したのでしょう? だったら胸を張りなさい。あなたに礼儀を教えたジークフリート様に恥をかかせないで」


 冷たく言い放つと、フローリアは弾かれたように顔を上げ、涙を指で拭った。


「……はい! ありがとうございます」

「このぐらいのことで、いちいち動揺していたらキリがないわよ。次からは一人でも立ち回れるようにしないと、やっていけないわ」

「ど、努力します……!」


 素直な言葉が返ってきて、イザベルは苦笑いする。


(まっすぐな性格は美点だけど。このままだと、貴族社会で生き抜くことは難しいでしょうね)


 けれども、社交界の乗り切り方を教えるのは後回しだ。

 会場の注目を一身に集めたイザベルは、成り行きを見守っていたナタリアに向き直る。


「ナタリア様。この場はわたくしに免じて、見逃していただけませんか?」

「……イザベル様がそうおっしゃるなら」

「ありがとうございます」


 納得しきれていない顔つきだったが、イザベルが腰を折ると、ナタリアはそそくさと回れ右をする。令嬢とは思えない速度で小さくなった背中を見つめていると、肩をぽんと叩かれた。

 横を見上げると、ジークフリートが困ったような笑みを浮かべていた。


「君が味方でよかったと思う」

「まあ、それはどういう意味ですか?」

「悪い意味ではない。……さて、イザベル。ワルツもラストだ。僕と踊ってもらえるだろうか?」


 うやうやしく頭を垂れた姿に、ときめかない乙女はいない。

 乙女ゲーム界の誰もが一度は想像するであろう、憧れのシチュエーションが今、目の前にある。画面越しではなく、現実として。

 イザベルは嬉しいやら恥ずかしやらで、声がうわずってしまう。


「よ……喜んで」


 ジークフリートが両腕を上げて構える。イザベルは右手を伸ばし、彼の左手をつかむ。指先が触れると、ぎゅっと握りしめられて鼓動が速くなった。

 視界の端でフローリアと目が合い、彼女が小さく頷く。励まされているようで、自然と背筋が伸びた。


(ヒロインを差し置いて……っていう状況は気が引けるけど、ジークの気持ちには応えたい)


 左手を彼の肩にそっと載せて、まっすぐに見つめ合う。熱を帯びた瞳に自分の姿が映し出される。

 初等部のときは同じくらいだった身長も、とうの昔に追い越された。今日も高いヒールを履いているものの、やはり身長差は埋められない。


(こうやって一緒に踊るのだって、別に初めてではないのに。何だか緊張するわね。ちゃんと踊れるかしら……)


 静かに降り積もる雪原を連想させるバイオリンの音色に合わせ、ジークフリートが動く。イザベルも促されるようにして後ろ足を引き、バックしながら右回りにステップを踏む。両足を揃えた後は、今度は前に進み、左回りにターンする。

 初歩のステップは、背伸びをしたヒールと身長差を考慮したものだろう。けれど、長年のパートナーだけあって小回りに誘導してくれるので、身長が低いイザベルでも無理なく踊ることができる。

 何より彼のホールドは安定感があり、優美で軽やかなステップは楽しい。雪解けを喜ぶ春の妖精のように、ひらひらとドレスが踊る。


(いずれ、離ればなれになる運命だとしても。……今夜だけは夢を見てもいいわよね?)


 息苦しくなる気持ちに蓋をし、イザベルは優しい婚約者に微笑み返した。

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