26. トゥルーエンドの分岐点
ジェシカを見送ったイザベルは壁際を移動しながら、ホールで踊る人たちを見やる。
(イベントがちゃんと起きていれば、フローリア様とジークが踊っているはずだけど……)
だが、桃色と青色の髪のペアはなかなか見つからない。
もしや場所を変えたのではないかという考えに至ったとき、奥のテーブルで老年の貴族と談笑中のジークフリートが見えた。
彼もイザベルに気がついたらしく、話の区切りがついたのを見計らってこっちへ向かってくる。
「待っていた。もう大丈夫なのか?」
「え、ええ……。それよりも、フローリア様と踊っていたのでは……?」
「彼女なら、クラウドに預けてきた」
ジークフリートの視線の先を追うと、そこにはクラウドとフローリアが踊る姿があった。お互い、気心が知れている仲だからだろう。無駄な力みもなく、純粋にダンスを楽しんでいるように見えた。
(不憫な扱いだったクラウドも、これで浮かばれたわね……)
ひとまず安堵していると、ジークフリートが神妙な顔でつぶやく。
「もとより、今夜は君以外と踊るつもりはない。僕との約束はまだ有効だろうか?」
「もちろ……」
反射的に頷きそうになって、ふと我に返る。
(ちょっと待って。ヒロインとジークが踊らないと、攻略ルートにも支障があるわよね? 確か、このダンススチルをゲットできるかどうかが、トゥルーエンドの分岐点だったはず)
前世では、はじめにノーマルエンド、次に攻略サイトを確認しながらトゥルーエンドをクリアした。各エンディングによって、クリア後のアフターストーリーも異なる。
クリア難易度が高いエンディングはスチルも豪華で、何よりも溺愛度が違う。全年齢対象とはいえ、イヤホン越しに再生される魅惑ボイスは鼓膜だけでなく、乙女心にも振動を与えた。
(まあ……ノーマルでもトゥルーでも、悪役令嬢は断罪イベントのあとに毒薬を盛られて学園を去る流れは変わらないけど)
しかし、正しい選択肢を選ばなければ、極上スチルは獲得できない。
「今宵はまず、フローリア様と踊っていただけませんか? せっかくダンスの手ほどきもしたのですから、その成果を本番で見てほしいと思うのは、自然なことだと思うのです。……わたくしは、その次に踊っていただければ充分です」
努めて冷静に言うと、ジークフリートは眉根を軽く寄せた。数秒ののち、きっぱりと否定の声が返ってくる。
「それはできない」
「……理由をお聞きしても?」
それとなく探りを入れると、ふっと視線をそらされた。ダークブラウンの瞳は、舞踏会のホールの外に向けられている。
「今夜は月が明るいし、場所を変えよう」
視線でバルコニーに出るように促され、イザベルは彼の背中を追う。ジークフリートは近くにいた従者に人払いをさせ、夜空の下に歩み出る。
広々としたバルコニーからは、昼間の広場が見渡せた。遠くの木々は夜の色に染められていて、舞踏会のにぎやかな音も遠のいている。
喧騒から離れた場所はほどよく静かで、密会に適した場所である。ここにヒロインと王子様がいれば、特別イベントが始まってもおかしくない。
けれども、現在はヒロイン不在である。恋愛イベントは起きない。
ジークフリートは手すりを背にして、イザベルに向き直る。そして静かに頭を下げると、後悔の言葉が続いた。
「すまない。君を傷つけてしまった」
「……謝らないでください。わたくしが勝手にすねただけなのですから」
自慢げにフローリアのことを話していたことを思い出し、胸が軋む。
二人がレッスンをしていたことだって初耳だった。
自分はいつも蚊帳の外だ。それは当然だ。愛を育む男女にとって、障害となるべく配置された悪役令嬢なのだから。
「イザベルを追いかけるべきだとはわかっていた。だが、フローリアを一人であの場に残しておくこともできなかった」
「……ジークは優しい方です。あなたなら、きっとそうすると信じていました。ですから、本当に気に病む必要はないのです」
顔をゆっくり上げた婚約者は、自嘲気味につぶやく。
「僕は空回ってばかりだ。君が何を望んでいるのか、いつも考えるのに、わからない。君と心がつながったと思っても、気づけばまた離れてしまう。君の心をもう見失いたくないのに」
イザベルは両手の拳を握りしめた。
今、この言葉を聞くべき相手はフローリアだ。
悪役である自分が幸せになる未来など、望んではいけない。それなのに、心には欲張りな自分がいる。
この葛藤は一体、どこに、誰に、ぶつけたらいいのだろう。
「……どうしたんだ?」
困ったような声が聞こえてきて、小首をかしげる。
「どうして泣いている?」
「え、わたくし……泣いて……?」
瞬くと、目尻に熱がたまるのを感じた。次の瞬間、頬を伝い落ちる雫を指先ですくわれ、ジークフリートの顔が間近に迫る。
息が届きそうな距離感に、イザベルは心臓が止まるかと思った。
刹那、唐突に理解した。この感情の正体に。
(ジークが好き)
本当は認めたくなかった。けれどもう、自分の心を偽ることはできない。気づかないふりをしてきた気持ちと向き合い、イザベルはまつげを震わす。
(きっと、ずっと前から好きだった。隣にいることが自然なくらいに)
クラウドのような、一目惚れではない。前世の好みのタイプでもない。それでも、一緒に過ごすうちに芽生えたのは恋心だ。
(クラウドと話すのは楽しいし、ドキドキする。でもそれは、ゲームの中の恋する相手として。だけど、ジークは違う。たとえ形だけの婚約者であっても、ただそばにいられるだけでよかった……)
困っている人がいたら助ける。そんな当たり前のことをやってのける、優しい人だ。真面目すぎる部分もあるが、照れた様子が何より愛おしくて。
ジークが、愛おしい。
蓋をしていたき気持ちがあふれ出す。
幼なじみや家族のような親愛の情もある一方で、彼の隣を奪われるのは耐えられない。フローリアに対しても、いっそ憎らしいとさえ感じてしまう。
自分がこんな醜い気持ちを抱いてしまうなんて、考えてもみなかった。
(……そっか。だから、これまで「イザベル」は婚約者に興味がないように取り繕っていたのね。嫉妬に駆られてジークに嫌われないように。でも、フローリア様の登場でそうも言ってられなくなった)
そこで、ふと重大な事実に気づく。
これでは、まさしくゲームのシナリオではないか。
恋を自覚したイザベルは、婚約者の立場を奪われまいと、ヒロインに数々の嫌がらせをする。最後はこれまでの悪事が暴かれ、逃げるように学園から姿を消す。ヒロインはハッピーエンド、悪役令嬢は自滅エンドだ。
(冗談ではないわ!)
カッと目を見開くと、ジークフリートが驚いたように身じろぐ。
クラウドが好きだった。その気持ちは変わらない。だが今、それ以上に心が揺さぶられるのは、目の前の婚約者なのだ。
ヒロインのライバルとして立ちふさがるために、彼女と同じ人を好きになる。これがゲーム補正だというのなら上等だ。
(ゲームの配役になんて負けない。シナリオどおりに恋に落ちたって、それで結末が決まるわけじゃない。わたくしはシナリオを変えてみせる)
乙女ゲームと同じ轍は踏まない。恋の形はさまざまだ。奪い返すのではなく、ただ見守るだけの愛だってある。
この感情は唯一、自分だけのものだ。
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