第15話 侵入者
田中さんは、いつも通りに九時六分前に職場のあるビルに着きました。十四階建てのビルの、最上階とその下の二つのフロアに田中さんの勤めるファントムコンサルティング社が入居しています。受付は十三階にありましたが、田中さんはエレベータで自分のオフィスのある最上階へと向かいました。
指紋と六桁の番号を入力して、オフィスに入った田中さんは、自分の椅子に見たことのない細面の優男が座っているのを見て息を飲みました。
慌てて部屋を出ようとした田中さんを、ドアの両脇にいた大男二人が押さえつけてソファに座らせました。
「誰だ、ど、どうやって入った?」と田中さん。
「答える必要はありませんね」
優男はちょうどプリンターから出てきた紙と、デスクにあったペンを持って田中さんの前に座りました。
「これはあなたのパソコンを使って、あなた自身が書いた遺書です」
田中さんは自分のPCの前にもう一人ひどく小柄な人物がいて、パスワードで保護しているはずのシステムを操作しているのに気がつきました。髪が長く、男のようにも女のようにも見えます。
「署名をして欲しいですけど、まあ、無理ですかね」
優男はペンを大男の一人に渡しました。
「この男はこう見えて器用なんですよ」
「財布は、ここかな? ああ、ちゃんと署名してありますね。助かります。スマホも預からせていただきますね」
優男は田中さんのスーツの内ポケットから財布とスマートフォンを抜き取り、財布の中からクレジットカードを見つけて、テーブルに置きました。
ペンを渡された大男は、カードの裏にある田中さんの筆跡をそっくり真似て、田中さんの目の前で遺書に署名しました。
「うん、ありがとう」
優男は遺書と田中さんのスマートフォンをデスクにきちんと並べて置き、それから窓を開けました。
「ここはいい部屋ですね。窓も開くし、高さも十分だ」
「ま、まて、私を殺せば、不正に関わった全員の名前と証拠が検察に届くぞ」
「ルンタのことなら、残念でした。私たちもあれは見つけることができなかった。でも、あなただってそうでしょう?」
「ルンタだけじゃない。信頼できる友人に頼んであるんだ。私に何かあったら四十八時間以内に全てが入ったメモリが……」
優男は自分のポケットから、SDカードを出してテーブルに置きました。田中さんは信じられない面持ちでカードを見つめました。
「どうしてそれを……」
「ご友人は選んだほうがいい。あの探偵はネットで探した赤の他人でしょう?」
「家のPCに侵入したのか」
「ええ、彼女は優秀でね」優男はPCの前の人物に向かって頷いてみせました。「検察と違って我々に順法精神などありませんから。……さて、おしゃべりはこのくらいにして、行きますか。あとのことはどうか心配なさらず。遺書にも書いてありますが、あなたはここの社長の命令に仕方なく従ったことになってます」
「待て、待ってくれ。お願いだ。頼む、助けてくれ。まだ子どもだって小さいんだ」
「大丈夫。ご家族のこともお任せください。マナミちゃんでしたっけ? ちゃんとお嫁に行くまで面倒見させていただきます」
「やめろ、助けてくれー! 誰かー!」
「無駄ですよ。このフロアには今日は誰もいません。さあ、嫌なことはさっさと済ませましょう」
「こんなはずじゃなかったんだ。こんなはずじゃ」
田中さんはソファの上で膝を抱えて縮こまりました。
「嫌だなあ、田中さん。こういう場合は諦めが肝心ですよ」
大男二人が田中さんを立たせようとした、その時です。田中さんはくるぶしの内側に仕込んであった催涙スプレーを男たちの顔に吹き付けました。署名を偽造した方の男はまともにスプレーを浴びてしまい、顔を抑えてもがき苦しんでいます。もう一人は顔を歪めながら腰から拳銃を抜きました。
「馬鹿、撃つな。自殺に見えなくなる」
優男が怒鳴りました。
田中さん自身もスプレー液をいくらか浴びて苦しみながらも、ドアへと突進し、振り向きざまにもう一度スプレーを空中に噴射し、廊下に出ました。そして、幸いにもこの階にとどまっていたエレベーターに飛び込んで、「1」と「閉」のボタンを必死で押しました。
「田中ああ!」
優男が鬼のような形相で追いかけてきましたが、間一髪ドアが閉まりエレベーターは下降を始めました。田中さんは荒い息をしながらハンカチで顔を拭い、必死で考えました。
「こうなったらもう自首するしかない」
田中さんは、ここ一週間ほど、通り向かいの花屋の前にいつも白いワゴン車が停まっているのに気づいていました。あれは田中さんの尻尾をつかもうと張っている、マルサか特捜に違いありません。あの車まで行けば、自分も家族も守ってもらえるでしょう。司法取引だって、できるかもしれません。一階に着き、エレベーターのドアが開くなり田中さんは走り出ました。優男と大男の片割れが階段を駆け下りてきた時、田中さんはエントランスホールを半ば以上横切った所でした。
「仕方ない。撃て」
「え、いいんですか?」
「自首されるよりマシだ」
立て続けに銃声が響き、ホールの片隅にいた女の人が悲鳴をあげました。銃弾が田中さんをかすめましたが、田中さんはそのまま逃げ続けました。自動ドアに弾が当たり、ガラスが粉々に崩れ落ちました。田中さんは滝のようなガラス片を浴びながら外に転がり出ました。通りを渡ってあの車までたどり着ければ……。
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