第4話 ルンタ、おじいさんに拾われる
しばらく立ち往生していたルンタを拾い上げたのは、くたびれたツイードの背広を着てカートを押しながら歩いているおじいさんでした。おじいさんは、腰掛けにもなるカートの上に大事そうにルンタを置いて、いつも駅の南口にいる古雑誌売りのところに持って行きました。
「よう先生、今日は何持ってきたんだ?」
古雑誌売りはルンタを見て言いました。
「シ、シロ」
先生と呼ばれたおじいさんが答えます。
「シロ? あ、ああ、今度のは、ずいぶんハイテクなシロだな」
「あ、あと、ザッシ。四、……五冊」
「ん、五冊、確かに。ほい、五十円な」
古雑誌売りは、先生が拾ってきた雑誌と引き換えに銀貨を一枚渡しました。
「シロはどうしたんだ。動かないのか?」
「あ、ああ」
「どれ、見せてみ」
初代のシロは犬でした。先生がこの駅周辺に最初に現れたとき、カートに乗せていた白い小型犬。もう、二年も前のことで、古雑誌売りもこの仕事を始めて間もない頃でした。それ以前にはもっと危ない仕事をしていたのです。
シロは先生によく懐いていましたし、駅地下の住人たちも乏しい自分の食料を孫に菓子でもやるような気持ちで小さな犬に分けてやったものでした。シロはほとんど歩けない程の年寄りで、柔らかいものしか食べませんでした。そして、とても冷え込んだ冬の朝、動かなくなっていました。
先生は、シロの亡骸を何日かカートに乗せていましたが、見かねた炊き出しのおばさんが、自分の家の庭に埋めるからと引き取って行きました。
そんなことがあってしばらく、古雑誌売りは、先生の姿を見ませんでした。施設に入ったのだろうと、ほとんど気にも止めませんでした。やがて春になり、再び拾った雑誌を持ち込んでくるようになった先生は、白い猫のシロを連れていました。猫は移ろいやすい動物なので、シロはしばしば代替わりするようでした。
「ゴミが絡まってんだよ」
古雑誌売りは、ルンタのタイヤ軸に絡まった糸くずを取りながら言いました。
「バッテリーも切れかけてるみたいだ。うーんと電圧は22.5と……、あ、これで合うかな」
商売柄、物持ちの古雑誌売りは、椅子がわりに腰掛けていたスーツケースを開けてACアダプターを取り出し、ルンタに直につないでから、プラグをベンチのかげにある屋外コンセントにさし込みました。
「うん、大丈夫だ。充電しといてやる。夕方取りに来な」
夕方までたっぷりと充電したルンタは、約束通り迎えに来た先生のカートに乗せられて、待合室に連れて行かれました。待合室にいたのは駅地下の常連ばかりだったので、先生は新しいシロをみんなに紹介しました。
「それは、あれだろう。えーとなんだっけ?」
「ああ、えーっと、あれだ。アイボ」
「ちがうだろ。アイボってのは電話だろ。こいつはなんとかスターって映画に出てくるやつだろう」
「ああ、そうか、そうか。映画のスターか」
「いや、ちがうって」
先生はみんなの話を黙ってニコニコ聞きながら、ルンタを撫でていました。それから、ふと真顔になって懐から手帳を取り出し、何か書き始めました。先生が『先生』と呼ばれるのは、黙っていれば大学教授のようにも見える風貌と、この書き物をする癖から来ていました。何を書いているのか誰も知りませんでしたけれど。
待合室にはテレビがあって、ニュース番組が映っていました。なぜだか、音量はいつも低くしてあって、アナウンサーの声は聞き取れないほどでした。画面にはどこかのビルが映っていて、『いまだ証拠が見つからず。長引く調査に不満の声』とテロップが出ています。
「そいつは、動くのかい?」
ニット帽をかぶった男が、ルンタを指差して聞きました。
先生はルンタを床に下ろすと、ボタンを押しました。さっき古雑誌屋が簡単な操作の仕方を教えてくれたのです。ルンタは、待合室の床に固定された椅子の下に潜って行きました。
「お、お?」
常連たちは身を乗り出して椅子の下を覗き込みました。
ルンタは椅子の下をくぐり抜け、向こう側の壁まで進み、そこで方向を変えて戻って来ました。その様子を見て、みんなは笑いました。涙を流している者もいました。
「どうだい、たまには花見にでも行かんかね?」
ニット帽の男が先生を誘いました。
「ちょっと遠いが下町まで歩けば、甘酒の振る舞いくらいにはありつけるよ」
「い、いや、わ、私はいいよ」
「そうかい。まあ、無理には誘わないよ。先生は人混みが苦手か」
「う、うん」
「じゃあ、今夜はどうするんだい?」
「さ、散歩」
先生たちにとって、夜は歩くものです。いや、いろんなスタイルがあるのでひとくくりにはできませんが、少なくともここの駅地下では、終電から始発の間、待合室は封鎖されますし、ベンチや床で寝ていると、警備員が注意しにやって来ます。高速バスの待合所だけは深夜でも開いていますが、よっぽど天気の悪いとき以外は使いません。目をつけられると困るから。
木賃宿に泊まれたらどんなにいいでしょう。お風呂に入って、それから布団で足を伸ばして寝られたら。残念ながら先生の仕事——雑誌集めでは、そう稼げるわけがありません。だから、夜の間はあちらこちらを歩き回ります。ひとところに座っていると寒くなる上に、怖い人に絡まれたりします。
ルンタと先生は閑散とした官公庁街を歩き、黒々とした川べりを歩き、問屋が立ち並ぶ少し古い街並みを歩きました。空は明るく濁っていて、星の一つも見えませんでしたし、そもそも先生は空など見上げたりしませんでした。けれども、大きな街の春の匂いはそう悪いものでもありませんでした。
歩き疲れると、夜中開いているハンバーガー屋で一休みします。コーヒー一杯で二時間ほど、棒になった足を休め、体を温めます。ルンタは先生の傍らで静かにしていました。
明け方が近くなり、先生とルンタは駅に戻りました。先生はゆっくりとした足取りで、カートを押して歩き、懐から隣の駅までの定期券を出して、地下鉄の改札を抜けました。ホームには始発の電車が地底の空気とともに滑り込んで来ました。こんなに朝早くでも、数人の乗客が乗り込み、それぞれ離れた場所に座りました。先生はシルバー席の前にカートを止めて座席に座り、次の駅に着く頃にはもうすっかり寝入っていました。
先生が気持ちよく寝ている間に、乗客は次第に多くなり、八時前後にはかなりぎゅうぎゅう詰めになりましたが、それでも先生は起きませんでした。地下鉄は先生とルンタをのせたまま、大きな都市の周りを三周しました。四周目に差し掛かる頃、ルンタが起動し、動き出そうとしてカートから落ちました。かなり大きな音がしたのですが、先生は目を覚ましませんでしたし、ラッシュが過ぎて少しすき始めた電車の乗客は手元のスマートフォンを見るのに夢中で、足元を掃除していくルンタに気づきませんでした。
ルンタは人々の足を避けながら、車両の端から端までを掃除しました。そして、ある駅で下車する人々と一緒にホームへと降りました。
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