第三章 誕生前後 「一大事の刻」
無限の可能性があったにもかかわらず、この私、あなた、彼、一人として過去未来を通して同じ人間はいない(一卵性双生児、あるいは人工的な手段でクローンという例外はあるものの、それらの存在も個なる個性は異なっていく)とは、知ってはいるもののその重大性を考えることはあまりないのが、普通でしょう。
そしてまた、50年前の自分に戻ってみると、現在の50年後のこの自分の有り様が良くも悪くも、想像もしていなかったことの悲しさに打たれることもあります。そんな気持ちでこの一編をお届けします。
「一大事の刻」
一 日常の時間
頼子は、毎日昼過ぎになると抗不安剤リーゼを服む。喉が詰まったようでもあるし、そこに金属または糊が貼り付いているようでもある。その違和感ゆえに絶えず、飲んだり食ったりしてしまう。
なぜ昼過ぎかというと、前夜眠る前に飲んだ精神安定剤ソラナックスの効用が切れるせいである。
そのリーゼを一粒呑み込みながら、頼子はまた思いついて、小首を傾げた。この症状のために初めて診察を受けた医院で、頼子の話を聞いていた医者が、
「ヨーキヒ、ヨーキヒ」と面白気に言ったのだが、何語なのか、頼子にはさっぱりわからい。
彼はすぐに小さな青い手帳を取り出し、さっと開いたページをすらすら読み聞かせた。
おかしなくらい一言一句違わない症状を読み上げ、最後に「唐の楊貴妃がこの症状を訴えていた、それほど古い病であり、女性にのみ現れる」と得意そうである。さしずめ医者の裏メモとでもいうべきか、本当に小さな薄い小冊子である。
さてさて、驚いたことに頼子は楊貴妃との接点を持っていたのだ。
あの、唐の玄宗皇帝の妃、傾城の美女、その美しさは想像もつかないが、あの楊貴妃。ちょっと良い気分になる。自分でもおかしいが。
喉の違和感ゆえに、その前は、ユベラという血流を増すビタミン剤を処方してもらった。その前は胃カメラを飲むはめとなり、胃酸の逆流性炎症でもなく、十二指腸にただの脂肪の腫瘍がみつかった。その前は耳鼻咽喉科で鼻からカメラを入れられ、咽頭が腫れているといって、全身の血流を良くするという漢方薬をずっしりもらった。
いくら手を尽くしても、頼子を取り巻くストレスの多寡との、押したり引いたりが効き目を左右している。ストレスが他の人より多いのか、同じほどなのか、事実はなんともいえないが、誰でも自分のことしかわからないので、各自重症だと思っているのだろう。
さっきのリーゼがまだ効かない。チョコレートは食べた。日に一個は食べろという果物、もうみかんとアボガド(マヨネーズを避けているので醤油味)まで済ませた。が、リンゴでも食べたい。
そういえば、コレステロールと血圧の薬、まだだった。と、頼子は、肉が数センチほどまとわりついている脇腹をよじって、薬の入っているブリキ缶をあけた。無い?
あ、もう横においてあったんだ。更紗模様のハンカチを母が手縫いで小さな矩形の袋に塗ってくれたもの。その中に。
やれやれ、悪玉コレステロールはしぶとい。十年近く飲み続けていたメバロチンという有名な薬では、悪玉は全然変化しない。そのせいで、心臓付近の冠動脈はもう詰まりかけているかも。新薬、なんだっけか、名前が例によって脳のどこかに隠れている。そうそう、クレストールだ、これが効きそうな感じだ。
まだまだ死ぬ訳に行かない。あの診察から十年以上経っていた。その間は、実母のナミがスープの冷めない距離に住むようになり、夫の和彦の心臓病とわがままに付き合わされているという日常だった。母が居て悪い訳では決して無い、二人の関係はかってないほど良好、お互いにいたわり合い、喜んで我慢し合っていた。
二 誕生と敗戦の一大事
母のナミは、デイサーヴィスに参加中。週の三日はでかけて介護してもらう。残り三日をヘルパーさんに来てもらって、入浴、掃除、買い物、調理をたのむ。
日曜日と、毎日の夕食の世話を頼子が受け持つ。支払い、預貯金、特別な買い物、時には車いすを押して散歩、ないしは美容院とか病院。もっとも、主治医は往診をしてくれる。ナミは心臓ペースメーカーを入れていて、背骨に5カ所の圧迫骨折がある。とりあえず寝たきりではないが日常生活を行うのはまあ無理である。
トイレまでは倒れ込むようにして、何とか歩いていく。もちろん、失敗は日常であるが、トイレだけは「もう無理」というまでは頑張ってもらおうと頼子は思っている。
ナミが自宅に居るときは何をしているかというと、これが嬉々として、書道をしたり、鉛筆画に色を付けたりしている。できれば庭仕事もぜひしたいのだが、庭こそ転倒の場であるので流石にきつく禁止してある。
書も絵も花作りも縫い物も、おそらくナミの十八番と言ってよい。それほど心を込め、注意の限りを尽くして、自分に可能な最善最高をめざす。芸術家というより、職人的な緻密さをもってとりおこなう。
すべての所有物には、いつ、いくらで買った、という旨記してある。それが喜びなのだ。幼い頃、叔父や叔母がそんな風に物事を大切に扱っているのを見て幼な心に刻み込まれたのだと言う。
頼子自身はきわめてがさつな性質であり、それは遺伝的に説明がつく。
ナミの姉妹、つまり頼子のおばたちがナミのみならず、頼子自身に向かっても最近よく言う言葉がある。
「ナミちゃんは、頼子ちゃんをつれて帰ってきてよかったよねえ、お陰で今はこんなに面倒見てもらえてさあぁ」
頼子がその悪夢から解放されたのは、三十代の初めだったろうか。
薄暗い家の中に一人居る。上を見ると頭上に四角い窓がある。穴がある。
誰かが頼子へそこへ行ってくぐり抜けるよう命じたらしい。
仕方なく進んでいくのだが、上昇していき、その穴に近づくにつれ、息が苦しくなる。恐怖と不安でいっぱいになる。どうしても行きたくない。嫌で怖くて仕方が無い。尋常の怖さではない。
しかしどうしても押し込まれていく。狭い。息ができない。死にそうだ。苦しい。
突然、外に頭を出した。苦しさは瞬時に消えた。明るい喜ばしさが辺り中にあった。自由で解放された。嬉しかった。ほっとした。我慢して出てきてよかった、と感じた。
そんな夢だ。全く同じパターンであって、またこれか、とうんざりしながら夢見ていた。恐怖と開放感の差が際立っていた。
人間の誕生とはおおむね、母子にとって大岩の下から脱出するような大仕事であるのは知られている。例外もあるだろうが、頼子自身にとっても、出産とくに初産の陣痛というものは尋常ではなかった。腰骨がぎりぎりと開いて動いていくのだ。こんな痛みについてどんな女も他の女に告げなかった。それは余りにひどい痛みだった。気を散らすために自分の髪を抜けるほどに引っ張ったものだ。こんな痛みが初めて母になる女に秘密にされていることは、良いことなのだろう。そうでなければ少子化が決定的になったかもしれない。いかに自然が性欲と快楽を男女に適当に分配したとはしても。
頼子も、他のすべての人間と同じく初めての子として、母親をほとんど殺しかねないほどの難産で生まれたのだと言う。眠り込もうとするナミのほおに平手打ちを食らわし、葡萄酒を飲ませた。それは頼子の父頼光であった。そして頼子は頭上の窓をくぐり抜けたのであった。ナミが満州の地へ、写真花嫁として嫁してきてから一年二ヶ月ほどたったときである。産婆がいて自宅だった。その日は終戦の年、昭和二十年七月も終わろうとするころだ。
「凄い出血でしてねえ、綿花だけはたくさん集めてあったし、おしめもたくさん縫っていたんですよ。主人は軍人でしたからほとんど居りません。八月に入ってからでしたかねえ、馬丁さんが主人の知らせを持ってきました。
多分最後の列車が今夜出るから、すぐに全てをおいて駅に行くように、ってねえ、そんなどうしたらいいか、私もお嬢さん育ちだったので、気が利かなかったし、身体はまだめちゃくちゃでねえ」
今日は、新しいケアマネージャーが講釈を拝聴するはめになった。
彼女らは、よく訓練されていて、決してお年寄りをないがしろにしない、それにナミの話は珍しくもある。彼女が身を乗り出し、相づちを打つごとに、ナミは一層自分を励ます。声がかすれても一通りを喋り続けた。
しばらくは自分はお役御免だと思い、頼子は食器を洗いに立った。最後の列車に乗れたことが恐らく頼子の命運を決めた、その後の引き揚げ者の地獄の旅や、運良くも中国人に育てられたいわゆる戦災孤児たちの望郷のあるいは失望の日々、そんなことを考えるのを常として。
「八月五、六日のはずですけど、はっきり言えないんですけども、とりあえず赤ちゃんとおしめと綿花だけ包んで駅まで行ったらば、もうたくさんの軍関係者の家族が筵に座っていました。お偉いさんだけはたくさん家財を運んできていたので、どうしてだろうと疑問に思ったり、やはり扱いが違う、と思ったり。お産のために親戚のキミさんが来ていて助かったんですよ。寝具を後から運んでくれる手はずになっていましたが。
ともかくもそこに座っていると、やっと主人がやって来ましたよ。ただ短く、後から追いかけるから列車で出発するようにって。そのままソ連に捕虜になったんですけどね。私は呆然とその後ろ姿を見送ったものです。
でもねえ、それは貨車だったんですよ。無蓋のね、そうそう、屋根無しです。はじめの頃は雨が降らなかったのは良かったですけども、夏ですから日差しがねえ。頭からおしめを被って、その陰に赤ちゃんを入れて護って。それからは雨ばかり降ってまた困ってねえ。たいてい夜走るんです。昼間はあちこちに止まるんです。その時に水があればおしめを洗えるけれども、無ければおしっこだけのは勿論、うんちのおしめも拭いて乾かしてまた使うんです。
私は若かったけども、出血が止まらないのでたちまち弱ってしまって、屋根のある貨車にそのうち入れて貰いました。着物に血がついてもそのままで。ええ、母乳はいくらか出ていたのでしょう。ほんとの新生児だったのでかえって強かったんでしょうかねえ。幼児はくさったおにぎりなんか食べさせられて何人も亡くなりました。思い出しますよ。コーリャンのはいったおにぎり、割ると糸を引くんです、納豆みたくに。
辺りには夾竹桃の木が並んでいましたっけ。赤い花が今でも目に浮かびます。
主人はいつ追いつくというのか、全くわからなったけどもそれを当てにしていました。
汽笛がぴーっと鳴ると、赤ん坊がびくっとするんですよ。この子をどうしても自分は守り抜くのだって思いました。」
ケースワーカーの茂田さんは少し涙目になって深く頷いた。ナミはただ語るのに夢中になっているので感情移入していない。母親がこの一念で危うい帰路を耐えてきたことが、頼子には最近実感できる。小さな一言がもつ意味の大きさ、本人にも周囲にもしっかり分かるとは限らないけれども。
「そんな風にねえ、夜昼構わず走ったり止まったりして、朝鮮半島の平壌に着きました。しばらく汽車は動く気配もなくて、何だか様子がおかしい日でした。外に出るな、といって兵舎のようなところに待機してた時、天皇陛下のお言葉があるって言う話でした」
「十五日だったんですね!」
「そうです。いよいよラジオから声が流れてきましたけど、何も聞き取とれませんでしたよ。日本語とも思えなかったです。周りではみなが泣き崩れていました。でも私なんか、感情も無くしていたみたいで、嬉しくも悲しくもなくて、ぼんやり見回していたと思います」
臣民が初めて聞く天皇の声とその言葉、その文章は、まさに人間離れしていたことだろう。頼子にとっても、今は歴史の一部となっているその日以後のすべての時間を自分が生きてきたことを、感慨深く再認識させられる場面だった。
「釜山までがまた遅くてねえ、やっと海を渡ろうという段になったんですけど、そこで私はもう諦めようかと思ったんです」
「どうしてまた?」
「海が荒れていたんです、そして船にかかった一本の板が、細い、桟も何も打って無い板が、揺れているんですよ、濡れているんですよ。この子を抱えてどうしてこの板を登っていけよう、すぐに海に落ちてしまう、もう恐ろしくて恐ろしくて、自分が泣いていたのか叫んでいたのか、わかりもしません、この板を越えなければ帰ることはできないとわかっていてもねえ」
「うわあ」
と茂田さんは言った。
「そしたら、1人の兵隊さんが私の赤ん坊を抱きとって船に登って行くじゃありませんか。1人になって足をかけてみたけど、板も船も海もそれぞれに揺れている、真っすぐにバランスをとって歩いて行くのは不可能に思えました。絶望的でした。そしたらねえ、また兵隊さんが現れて、私をおぶってくれました」
「よかったですねえ」
「はい、本当におかげさまで。それからねえ、今度はでも船の中がまた大変で。トイレのかわりにバケツがおいてありました。それが船の揺れるのに合わせてあちこち動くのですよ、勿論中身も飛び散るし。一緒にいたキミさんがつと寄ってきて、ほらあそこの布団だけど、ナミさんのじゃなかった?と言います。若い女性がちょうどお産をしたところでした。ええ、私の布団でした。主人が後から送ってくれたんですね。あ、そう言えば、出発した次の日くらいに、また主人が人を寄越したんです」
この話は、流石にナミは誰にでも話す訳ではない。頼子は、母がどこかのかばんにしまい込んでいるはずの、父親の赤鉛筆で書かれた遺言書を、二度見せてもらったことがある。
爪と髪の毛が添えてあった。これからソ連軍と戦うことになる、どうなるかは誰にもわからないが、子供をしっかり育ててくれるように、また、万が一の場合は、どんな振る舞いをすべきか軍人の妻として理解していることと思う。そんな内容だったと思う。
しかも、これが書かれた頃、実は軍人の家族をあらかじめ殺害してしまうことになっていたのだという。それは父親の頼光自身がナミに話したそうだ。
満州軍の司令官たちが、そんな決定を下した。しかし、若い将校たちがそれに反対したのだ。家族たちの生き延びるチャンスを天に任せよう、それを勝手に決めることはできない、と反対し、貫いた。そうして今までの頼子の人生もあるのだった。
三 節目ごとの一大事
人生の一大事というものが誰にもある。七十二歳になった頼子が振り返ってみると、まずはやはり誕生と引き揚げである。
次は自身が長男充を出産したあとの大出血であった。
少女の時以来二十年間愛した人との離婚もそこに数えられるが、最も痛手だったのはその充の自死である。彼は二十七歳、頼子は五十四歳であった。自殺者三万人の時代が始まったのである。
十年後、頼子六十五歳の時にまた一大事がやってきた。民族大移動と頼子は名付けた。
頼子の弟敦夫に不治の病が見つかった。膵臓癌である。その頃頼子の夫和彦は持病の心不全の悪化のため、職を辞することになった。社宅から引き払うにつけても、近くに住む母のナミの処遇も考えなければならない。間も無くもう一つの問題が加わった。頼子の末っ子公彦の家庭に手助けが必要になった。一歳の悠斗を育てることが嫁の景子に困難になったのである。
ある日、頼子は敢然と決意した。和彦の意見などには耳を貸さず、関西から関東への転居を決めて実行に移したのであった。
末期癌の敦夫は千葉県に住んでいたので、母親のナミを近くの施設に入れた。有無を言わさずである。
末っ子の公彦は対岸の羽田近くに住んでいたので、両方の中程、千葉市の大学病院にも通うことを考えて、湾岸の市原市に平屋の小さな家を借りた。それもインターネットで、条件を入れて唯一ヒットした物件である。バス通りが近かった。
ナミの八十八年の生活の跡を整理し、持っていくもの、無料で引き取ってもらえるもの、ゴミないしは市の引越し荷物で廃棄するものに分けて連絡を入れ、処理し、あるいはシルバー人材センターに手伝いを頼み、最後はいよいよ家具などを壊すバリバリという音、紙くずの散る様子に心を痛めながら、一生の儚さを思った。
同じことがより大規模に頼子の暮らしにも起こった。頼子が起こしたのだ。夫の和彦はほとんど加勢することはできない。
二冊の手帳が埋まっていき、そのあともさらに埋まり続けた。
冬の終わろうとする三月十日、頼子と和彦は初めて東京湾を越えるためにアクアラインを通り、借家に入った。夜が明けると間も無く引越し荷物がやってきた。
計画してあった通りに全ての家具が配置され、後は段ボールが塔のように部屋じゅうに林立していた。電気屋がきてクーラーを取り付けていた。
その時、かすかに揺れた。
たちまち足元がぐらつくほどの揺れが来た。やがて収まることと思って見回しているが一向に弱まらず、脚立に乗っていた電気工が、ちなみに彼も頼子たちも神戸の地震にどちらも出会ったことで話が弾んでいたのだが、こりゃいかん、と地面に降りた。
外に出ると、大きな電信柱が円を描いてゆらゆらと動いていた。駐車してある車が音を立てて揺れていた。
ガスの匂いがして、北側の空に爆発音とともに火玉が上がった。東京湾沿いのコンビナートである。
二〇一一年の三月十一日になっていた。
余りのことに、怖がりの和彦がこの場を離れようと車を出した。コンビナート群を避けて、南へ十キロほどの駐車場で、振り返ると空いっぱいに火の玉が膨れつつあった。どこまでも大きくなっていき、見上げる人々の頭上を覆った。無音。
頼子は、爆発はやめて、と思った。しかしそれは爆発した。幾重にも爆音が響いた。
その近くのものは全て燃えてしまうのだろう、あの貸家もきっと。全てが、和彦の薬も全てがあそこにあったのに。和彦は虚無的な笑いを響かせ続けた。
それからのことは、頼子にとってその時までの心配が無駄であったり、逆に知らぬが仏を地でいくような、壊滅的な福島での被災にただ愕然とするばかりの日々であった。つまり頼子たちには幸いにもこの厄災を無事に切り抜け、この地で生きる日々がこうしてともかくも始まったのであった。
四 ナミの一大事
そこ、房総半島の小都市は、期待もあきらめもなくただ必要に即した引越しであったにもかかわらず、意外なほどに住みやすい環境であった。
漫然とした不如意の、ぼんやりの頼子らしい日常がありがたいとも思うことなく続いた。
そこへ、これまでの不如意が先鋭化して来た。次の一大事出来してきたのである。
頼子にとって、介護している和彦の生き方と自分の不自由とはどうしても正面衝突するものであった。彼に自分の人生を捧げることが無意味であった。当然、夫婦生活は破綻していたし、それゆえの憎悪をお互いが感じていた。
和彦が頓死寸前の状態と診断されて入院、頼子が原因不明の腰痛を起こし、連動して母のナミが不思議な眠り病にかかった。
しかし、三人ともになんとか生き延びた時、頼子にまずは母親への責任感が目覚めた。
父の頼光が亡くなって二十数年たつが、その頃やっと認定されたアミドイロージスという難病で苦しませたことを常々苦にしていた頼子が、母を無事に穏やかに死なせる、あの世への引導を渡す仕事を引き受けようと急に決意したのである。
そこには、明らかに長年頼子の中に積もって来た父親と長男充への思い、また仕事を成し終えずに逝った弟への思いも働いていた。彼らとの繋がりが消えてしまうということを受容できなかったのだろう。自分でも不明な心の動きがあった。
時は冬であった。ある朝、頼子は長男の充を助け得なかったこと、離婚が遠因であったかもという罪悪感を確認しながらまた歩いていた。
突然、頭の上から何かが、声が、意味が、降って来た。
「あなたに罪はありません」
それを頼子は、呆然とし、そして一瞬のちにすぐに信じた。そうであるには全ての解釈が変化しなければならないが、きっと変化すべきなのだ、という意味において頼子はそのことを信じた。
それは、壮大な超越的存在の慈愛への信頼であった。
この世の全て、星の一つ、虫の一つ、花の一つに至るまでその存在の一部でないものはない、宇宙は超越者の現れたものである。
宇宙のその背後に、それと一体である大いなる善、真、愛、智を信頼するための道が、頼子の前に開かれたのであった。
もちろんそれは一瞬の奇跡ではなく、頼子の追求の結果ではあったのだが、その信頼をさらに深めるために、思索と瞑想と知識とを求め続ける生活が始まった。いわゆる神学的探求、スピリチュアルな世界を前提として頼子の内面から取り出される想いと言葉が導いていく先に、思いもかけず夫和彦の存在意義が現れて来た。
それは今や、廃人への一途を辿る和彦と折り合っていくための知恵であるかもしれないとしても、根本的な変化につながる考えと言えるだろう。頼子はうなづく。
そうなのだ、彼こそは頼子の大切な孫、悠斗をもたらした原因であった。そう思うことはある意味馬鹿げているが、目の前にある悠斗という愛しい現実からすれば、原因であるとみなすのが当然である。
もちろん和彦のような困った人間を大切な存在として捉え直すことは、なかなか難しい。これでもか、というように和彦からは悪徳がさらに生まれてくるのを、負けるか、と頼子は受け入れていった。自分を大きくしていった。
愛する者への心配や不安をやめ、何が起こっても全て良しとみなすことにした。全ては超越者の暖かいプレゼントである。完璧な世界であることを思い出すための必要欠くべからざる計らいであり、頼子がすることはただ、ネガティヴなものがあってもまずは感謝し、それを冷静に観察し、それを捨て去ると決定することであった。
それでもなお、和彦とナミとの間に立たされて、いずれを優先するか二つの命の間で決定すべきこともあり、しかし決定できないで、悩みつつ、しかし誰にも、母親にさえ相談することもできないでいたある五月の午後、ナミの車椅子を押して鎮守の森へ向かっていた。
ドクダミがびっしりと土を覆っていて蕾がたくさん見えていた。他愛ないおしゃべりをしながら母との気兼ねのない花散策を楽しんでいた。
その時ふと、来週ドクダミが咲き誇るこの森にまた二人でくることができるだろうか?と自分でも腑に落ちないながら、危惧が湧いたのであった。
果たして、その五日後、ナミに脳梗塞が起こったのである。
左半身麻痺、嚥下障害と発話障害があり、点滴のみで対処し、高齢なので延命治療は絶対しないということになった。
尊厳を奪われた状態で意識ははっきりあるのに喋ることもできないのはあまりに惨めでかつ苦しい。
暑い盛りであったが二ヶ月半保った。まるで即身成仏そのものだった。しかし最後の一週間は口内炎の悪化で痛がった。まるで吸血鬼のようになってしまい、頼子はそれがもっと酷くなるしかないことを思ってパニックなり、医者に早く母を昏睡状態にしてくれと頼んだのであった。父の最後も昏睡状態にしてもらうように頼んだのは頼子だった。
「もうすぐ楽になるからね、痛く無くなるから大丈夫よ」
ナミのひたいに触れながら囁いた。
点滴が半分になり八日して、やっと昏睡に陥った。ナミの暖かい柔らかいひたいをいつものように撫でて
「もうすぐもっと楽になるよ、もうすぐみんなに会えるよ」と頼子は囁いた。
次の日、冷房がほどほどに効いた静かな部屋で、七十三年を共に戦ってきた母と娘として、看取り看取られつつお互いに恩愛の中にいた。
「おかーさん、おおよそラッキーな人生だったよね、何よりもお父さんに出会ったこと、私はいつも心配ばかりかけてしまったけども。みんなによろしくねー」
言葉にすると、急に涙で声がくぐもるのだった。もっと食べたかっただろうか、もっと地上の美しいものを見たかっただろうか、とどこかで罪を感じ、死ななければならない母親が可哀想になった。
その翌日には、ナミは静かに息を引き取った。二十四時間の昏睡であった。
次に会った時には、ドライアイスで冷やされたそのひたいは恐ろしく冷たかった。暖かいナミはもういなくなったのだ。
五 頼子の大事の刻
頼子にとって次の最後の一大事は、自分の死である。母親で予行練習させてもらったような気もする。死後の世界は楽しみなはずである。何故なら、見えない存在、見える存在はコインの裏表のように一体化していて、存在の目的はこの世を天国と為すこと、どこまでも神性を体現する人間になること、慈愛の限りなさを信頼することであるので。
そう信じることに決めたのだ。
頼子の最後の出来事を頼子自身が記録することはできないだろうけれど。
了
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