第二章 小学生のころ 「おとぎ小学校」「記憶の花束」


第一話 おとぎ話のおとぎ話 「おとぎ小学校つる組」


**登校


「ママ、行ってきまあす」

赤ずきんちゃん、元気にうちを出た。赤いランドセル かたかた鳴った

「自動車に気をつけるのよ」ママは少し、しんぱいそう。


一寸法師、もう一時間も歩いてた。学校まではまだまだかかる。


やっとそのころ、ものぐさ太郎起きてきた。

母さん仕事でもういない。おなかはペコペコ、髪はぼさぼさ。

まあいいや、出かけよう。


はちかつぎ姫、こまっていた。今朝もまた、しずおとしげるに待ち伏せされた。

「大きなおはち取ってみな」「そらそら」

ふたりで引っ張る。涙でてきた。

取りたくってもくっついているこのおはち。

そこへやって来た、うらしま太郎、せが高い。

「ふたりともやめなよ、かわいそうだよ」「イーだ」

しずおとしげる、走ってにげた。


まさかりかついだ金太郎、

大汗かいてる一寸法師に追いついて、ひょいとかついだ肩の上。

「よかった、ありがと。これで安心。ふまれないですむ」


かずことかずみ、校門で待っている。

「来たわよ、ものぐさ太郎が」

「あんた、また汚いかっこうね」「おふろ、はいらないの」「くさいくさい」

と鼻つまむ。何か言うのもめんどうなので、ものぐさ太郎はだまってた。

「どうして学校にくるのよ」

かずこにドンとつきとばされて、太郎はベタン、としりもちついた。

起きもしないでものぐさ太郎、かけてくふたりをそのまま見てた。


運良く来たのはもも太郎。

「どうしたんだい」「べつにーー」

「おなかがすいているんだろう」「べつにーー」「わかってるよ、ホラこれ食べな」

黄色いきびだんごさしだした。

「ありがと、ーーーおいしいな」


「けいこさん、おはよう」赤ずきんちゃんニコニコ言った。

その青い眼を、じろり、けいこはにらみつけ、

「ガ、イ、ジ、ン」とだけ言ってよこを向く。でも赤ずきんちゃんがんばって、

「おはよう、けんいちくん」もう一人に声かけた。びっくりしたけんいちは、

あわてて聞こえぬふりをする。

もしもその時、おつう先生あらわれて、「おはよう、赤ずきんちゃん」

優しい声をかけなかったなら、さすがに陽気な赤ずきんちゃんも、

すっかりしょげてしまったかも。



***小さな味方


さてその日の昼休み、校庭にいる子どもたちを、おつう先生ながめてた。

なわとび遊びのグループは、うらしま太郎にもも太郎、ゆうこにゆうじら7、8人。

そこへ赤ずきんちゃんかけて来て、「私も入れて」

「だめっ」ときっぱりゆうこが言った。「おねがい入れて」

「いやだね」とゆうじも言った。「いいじゃない、入れてあげよう」

これはもも太郎、つなをまわす手を止めた。ゆうこが口をとがらせて、

「だってこの子、ガイジンだもん」

「へんなこと言うなあ、同じ子どもじゃないか」

「でも眼が青いし、髪も黄色だ」

「ぼくたちだって、よく見たらみんがちがうよ。同じ顔の人間なんていないじゃん」

「だって、この子日本人じゃないもん」

「日本人でなかったら、どうして遊べないんだい」

遊べない理由は余りない。、みんな困って黙り込む。

うらしま太郎はにっこり笑い、

「赤ずきんちゃんも入れて遊んだら、きっともっと楽しくなるよ。だってみんな、ひとつ正しいことをしたんだから」と、さっさとつなを回しだす。

ゆうこにゆうじ、子どもたち、そう言われてはなかまはずれにできなくなった。

みんなでびゅんびゅん跳んだ。

遊んでいるうちそのうちに、青い眼のこと忘れてしまった。

 

たけしにつよし、そのほか4、5人、鬼ごっこにだけは一寸法師をいれてやる。

それもそのはず、鬼はいつでも一寸法師ばかり、

ヒイヒイ言って走っても、つかまえられないだれひとりも。

それが面白いから、入れてやる。


くやしくってたまらない、一寸法師は考えた。ひとつ名案うかんだぞ。

たけしがとつぜん立ち止まる。鬼が見えない。どこにいる。

みんなキョロキョロ、地面を探す。

セコセコと下向いて、ジャングルジムのまわりを回る。

と、どこからあらわれたのか、「たけしくん、つかまえたあ。」

さけぶと同時に、一寸法師、たけしのうでにタッチした。

ポンポン、ポンとつぎつぎに、みんなはかたをたたかれた、何がなんだかわからぬうちに。

「ずるいーっ! かくれてたんだな」

「隠れてなんかいないよ。ジャングルジムの上にいただけさ。みんな下ばっか見てたから、ぼくが見えなかったんだ」

「よおし、今度はぼくが鬼だ。すぐにつかまえてやる」

たけしはパッととびかかる。

ところがどっこい、一寸法師のすばやいこと、クルクル小回りしてにげる。

たけしも回る、クルクルと。そのうちグルグル目が回り、つかまえるのをあきらめた。


とても美しいかぐや姫、はちかつぎ姫の不自由さがかわいそうでたまらない。

折あるごとにできるだけ、手をつないで歩いてあげた。

ひとつには、大きなはちがじゃまになり、前が見えずにあぶないから。

またそれに、そうしていればはちかつぎ姫がいじめられることもない。

自分もいつか、やさしい竹取りじいさんに、わかれて月に帰る日が

やがて来るかぐや姫、よその家にあずけられた、はちかつぎ姫のさびしさは、

だからとてもよくわかる。


その日はふたり、お池のコイをのぞいてた。

水にうつったかげふたつ。ひとつは自分の白い顔。おや、その横の、

美しい女の子、いったいだれの顔かしら?

かぐや姫はおどろいて、となりを見れば、黒い大きなはちばかり。

「うわあ、すてき」 思わず姫は手を打った。


ぐうぜんにとおりかかったまゆみとひろみ、

「ちょっと見てごらん、すごいわよ」

とよびとめられ、好奇心からのぞきこむ、池の水。

思いもかけない美しさ、みにくいはちの中の顔。

ボカンと口をあけたまま、まゆみとひろみ、何も言えずにこまってた。

もうこれからはからかいにくいなあ。



****さあ、遠足だ


教室の窓からほそい首出して、おつう先生さがしてる、ものぐさ太郎はどこにいる。

ああ、お砂場だ。

ひとりぽっちで砂あそび、何度も何度も両手でなぜて、ツルツルお山ができていた。

そのとき、かず子がブラブラ近づいた。

ウロウロとお山の回りをあるくたび、しだいに砂をくずしてく。

じっと見ているものぐさ太郎。

そのうちついに、かず子は山をけとばした。

砂がとびちり、太郎にかかる。

それでもべつにおこりもしない、かず子はますますずにのって、

「きたないふく、きれいにしたげるわ」

砂をつかんで、太郎のせなかにこすりつける。

「ほら、きれいきれい、母さんにおこられるわよ」

「おこらないよ」 「どうして!」

「母さん、ぼくをかまうひまないから」 「どうして!」

「朝からばんまではたらいてるから、クタクタで」 「ごはんはどうするの!」

「おなかがすいてたまらなくなったら、自分で作るさ」

「はらが立たないの!」 「どうして」

「だって、わたしだったらカンカンよ!」 「どうして」

「だって、母さんならせわしてくれなきゃ!」 「そうとはかぎらないさ」

太郎ははじめて顔上げた。

「人も母さんもいろいろさ、それでも母さんは母さんさ」

「あんた、でもさびしいでしょ!」

かず子は思わず言ってから、自分で自分におどろいた。


あしがら山に遠足の、その日はとてもはれていた。

ものぐさ太郎にあげようと、おにぎりたくさんかず子は持った。

二ばいの重さも何のその、いいことしているうれしさに、力も強くなったよう。


たけしの世界もひろがった。

金太郎に頼まれて、一寸法師をかたにのせ、テクテク歩いているうちは、

何してこまらせてやろうかと、やっぱりこっそり思ってた。

そのときふいに、えりもとに、ブーンと一ぴき、とびこんだ。みつばちだ。

「ヒャア、さされるよう、たすけてえ」

「しずかにっ」と、耳もとで、一寸法師の声がした。

すばやくするりと回転し、たけしのせ中にすべりこみ、じょうずにはちを追い出した。

「ありがとう、たすかったよ」「あたりまえだろ」

しばらくたけしはだまっていたが、

「ぼくたち、たすけ合っているんだね!」

きづいたようにこう言った。なんだかりっぱになったよう。

変身したようないいきもち、ともだちひとりふえたのだ。


まゆみとひろみもいそがしい。

はちがつぎ姫をまん中に、注意しながら山道のぼる。

へんな子だと思ってたはちかつぎ姫、

ところがせわをやくほどに、ふしぎなほどに好きになる。

そんな自分も好きになる。


山はいよいよふかくなる。

青いかきのみ,ポコンとおちた。

あぶないっとさけんだのははちかつぎ姫、

まゆみとひろみをひきよせた。

黒い大きなはちの下。

ゴンゴンゴン、ボゴン。

お山のさるのいたずらだ。

しずかになって、目をあけた。

姫がにっこりわらってみせた。

はちからかお出して、まゆみが目をみはった。

「はちにひびが入ってる,もうすぐわれてとれてしまうかも!」



********勇気を出して


おつう先生,気づいてた。

クラスの中にまだ何人か,ものぐさたろうをいじめてる。

こっそりいたずらばかりする。

たろうがおこりもしないので、悲しくないと,

さびしくないと,みんな思っているらしい。

おつう先生立ち上がって、

「みんな、校ていにあつまりなさぁい」


ぼうで地面に大きな丸いわをかいた。

ものぐさたろうをそこに立たせた,まん中に。

「ものぐさたろうくんがいじめられているとき、

助けてあげられる子、わの中に入ってごらんなさい」

うらしまたろうに、ももたろう、金たろうに一寸ぼうし、

かぐや姫にはちかつぎ姫、それにもちろん赤ずきんちゃん、

みんなすぐにわに入る。

かず子にたけし、まゆみとひろみ、ピョンととびこんだ。


「じゃ、助けてあげたいって思ってはいる人,

その子たちもお入りなさい」

五人ぐらいが入ってきた。

「今まで何かこまったとき、

だれかに助けてもらったことのある子はいませんか」

十人ぐらいの子どもたち,思い出しては入ってく。

さいごにのこった七、八人、

わるい子みたいではずかしく,

入りそびれてもじもじしてる。

するとこんどは、のこった子たちがきのどくで、

おつう先生こう言った。

「きみたちも本当はわかっているんでしょう? みんな同じ人間よ。

やさしいこと,正しいことをした方が,自分でもうれしいにきまってる。

よぉくかんがえてごらんなさい」

「ものぐさたろうくんの,悲しい心がわからないような子は,人間じゃない,鬼だ!」

ももたろうの大声に、みんなドッキリ、かおを見合わせた。

金たろうも声たかく、

「さあ、みんなこいよ」

うらしまたろう、やさしく手をのばす。


わはどんどんふくらんだ。


かたく,大きく、あたたかく。


おつう先生,うれしくて,大きな白いつるになり、


みんなのまわりをとびまわる。お わ り!





第二話 「記憶の花束」 


ーー前書き 2017年

 7月に入ったある日、めっきり衰えた短期記憶能力のせいでその契機すら思い出せないのがもどかしいが、幼児に過ごした鹿児島市上荒田町の、当時の敗戦後の様子が何かの拍子にくっきりと、目の前に浮かんだものだ。

 「なんとたくさんのイメージが脳内に詰まっていることか」と、改めてその情報量に驚いた。

 それらは私だけのものであって、誰にも見えず、日の目をみることは不可能だ。この身が燃やされるまで保存されてそして永遠に消える。


 その後、徐々に何かを表現したい、という思いが強くなっていくのがわかった。なかなかそれが何を書きたい思いなのかわからなかった。


 前にも一度、人物像に限って散文詩のかたちで古い懐かしいイメージを書き表したことがある。

 そうだ、と浮かんだ。思いつくままに、記憶の中から立ち上がるままに、誰のためでもない自分のためにだが、回顧録などというくくりではなく、記憶の花束のように一束、また一束を活けていく、そんなアイデアが形作られた。遊び半分だ。


 今日は父の命日である。平成元年に亡くなったから二十七年たつ。七十一というまだまだ惜しい年齢であった。

 すっかり失念していた。毎年のように忘れている。父のことは折に触れ思い出し、居てくれたらなあ、と切に思うのに。

 だからその意味でまず父の記憶をまさぐっていくのもいいか。

 構成的な配慮はまだまったくない。私の海馬に任せていこう。



ーー出合いの場面

 多分昭和二十三年の六月ごろだ。母と私は祖父木原伊之助の小さな家に同居していた。

 満州で終戦間近に生まれた私を連れて、母は命からがら引き揚げてきた。父はソ連に抑留されていることがしばらくしてからわかった。


 幸運にも復員できた父を迎えに、鹿児島駅に母と木炭バスで行った。初めて乗るバスである。

 その揺れるのが楽しくて嬉しくて、私にはトランポリン体験のようなものだった。それほど母は私を大切に、つまり動きを抑えて育てていたと言える。

 有頂天だったこと以外はまったく記憶にない。


 次に浮かぶイメージの中で、やっと父が、お父ちゃんだと教えられた人物が姿を現わす。

 祖父の家の縁側に、中央の柱から右半分に、父は手をつき、外に立ったまま頭を下げた。何を言ったかは消えている。私はともかく、嬉しいような恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちだった。障子のところから、おそらく体をくねくねさせて眺めていたと思う。顔は不明瞭で、多分カーキ色の、服を着た体の形は残っている。


 それだけだ。かなり短い場面だが、印象的で嬉しい場面である。

 時系列で、父の姿をまとめるつもりではないのだが、コメントとして付け加えると、聞いた話ではその後私はすぐになついた。父は、出かけると必ず、なにかおみやげを買ってきてくれたせいらしい。

 もちろんそれだけではなく、そもそも優しいひととなりだった。私にとって、父はなんでも言うことを聞いてくれる親しい存在となった。


 この流れで、りんご箱の件を思い出した。今のように段ボールやプラスチックの箱が手軽に手に入る時代ではない。八百屋が果物などおがくずに詰めて仕入れるのは木の箱、いわゆるりんご箱、である。

 粗末なものなのだ。父の妹、私の叔母なのだが当時はまだ少女だった。彼女のために父が、実は不器用なのに、釘と金槌でりんご箱に棚を一枚とりつけてやった。庭で。

 それを見ていた私は、自分にも作って欲しいと言い始めた。絵本もおもちゃもほとんどないので、そんな棚の使い道を考えたわけではなかっただろう。父は面倒臭がって渋った。私は決して諦めず、いつまでも頼み続けた。とうとう根負けして作ってくれるまで。そして私にはわかっていた、父はきっと私の頼みを聞いてくれると。希望を捨てず諦めないことだ。

 そのりんご箱は、結婚しても私と一緒だった。本箱として役に立った。ちょうどよかった。最初の本はカバヤの児童図書だった。アンデルセンやグリム、戦後の子には宝物のような夢の本であった。



ーーカバヤ文庫と花火大会

 どうしても、ある夏の夜のこと、帰り道には、頭上にはじける大花火を頭が痛くなるほどに堪能した特別な夜が光り輝いていた。幼児の弟もいたのでそれから数年経った夜。

 錦江湾というのは、向こうに桜島がゆうゆうと聳えている内海である。こちらの岸壁から向こう岸の仕掛け花火もくっきりと見えた。おにぎりなどもあり、ただ美しく驚きに満ちていた。おまけに特別にカバヤキャラメルもひとつずつ買ってもらっていた。美味しい上に、なんとどちらの箱にもちょうど都合の良い当たりカードが入っていたではないか。貯めていたカードとそろえると、これで私は2冊の童話本をもらうことができるのだ。

 その仕組みや、本の外見などはまったく記憶にない。もらった本もさだかではない。

 幸運を喜ぶ気持ちのみが記憶に定着している。



ーー家の記憶

 どうしてか(更年期過ぎたあたりから)、今では滅多に夢をみない、ないしはみた夢をすぐに忘却する。

 たまに見ると、家さがし、ないしは家にいていろいろ苦労するという内容がほとんである。そしてこれは私の夢の大テーマであるらしい。他の人もそうなのだろうか。不明だが。


 なので記憶の中の家を検証してみよう。

 満州で両親が新婚生活を送っていた家の二重ガラスの窓から、荒野の果てに大きな落日が見えたり、仔猫をあずかって留守番していた母が、その窓いっぱいに現れた母猫の顔に絶叫したり、そのガラスの間に砂糖水を入れてときどき撹拌して氷菓子を作ったり、そんな他愛ない束の間の生活をお腹の中から感じていただけである。理論的にはそうだ。。。


 満洲から引き揚げてのち、ゼロ歳時に住んでいたのは、武町という小山の中腹の祖父の家であった。それが宮殿であろうと天井のないあばら家であろうと子供の心理では環境という価値に違いはない。

 天井がないのは焼夷弾とかの被害を考えてのことだったが、戦後になっても直すことができるわけではなく、星がみえたり雨漏りがするのであった。古いタンスには真鍮のわっかの引き手があり、畳がきしむとそれが懐かしく鳴った。食事は丸いちゃぶ台、土間にへっついというお馴染みの風景があった。


 庭には御不浄と、布袋葵の紫の花が美しい、大きな水槽があり、他の端には井戸と平石があった(そこで夏は行水するのである)。そしてにわとりたちがいた(にわとりは私の遊び友達である)。

 北向きにはいちごを植えるのに適したなだりがあり、ある時私が行方不明になったのだが、いちごを食べながらどんどん登ってしまい、帰れなくなって泣いていたそうである。南向きは、高台であるので桜島が真正面に大きくその微妙な色合いをさらしていた。街並みと海も見えた。そこに父代わりだった祖父と並んで立って、鯉のぼりがいくつか眼下に泳いでいるのを眺めた。

 道からここに来るまでの小径には小笹と茶の木の生垣があった。幼心にそのどちらも美しいと思った。


 祖父が、井戸の中に降り立ち、掃除をしたこと、その井戸の中に大きな西瓜が浮いていたこと、縁側で並んで話をしている時、物差しが話題だったらしいのだが、私がそれを握って離さずうるさく何か言い募ったのであろう、祖父が少し激しくそれを奪い取ったのであった。私は、そんな目に合ったことがなかったので、ぎょっとしてしまっていた。すると祖父は、メガネをずらした目で気にした風に、また笑いに紛らせようとするかのようにいたずらっぽく私を見返した。それで解消。そんな一瞬も浮かんでくる。

 祖母とは縁側でその膝にまたがって何するともなく過ごした。顔の産毛をさわったり、着物をはだけさせて乳首をしゃぶったりした。


 となりにはもっとひどいあばら家があった。私の曽祖母が住んでいた。私が行くと喜んで、なにかをあげようと躍起になった。一度は恐ろしい思いをした。やっと歩くほどの私におしっこをさせようと、うしろから抱えて縁側の外に突き出したのである。それ自体が怖かったのではない、子供ながらに彼女の体力が危ういことが感じられたからである。ぶるぶるする腕をぎゅっと握った。 

 後年、ここに住んだこともある。


 次の家は、なんともともと2階部分だったのを地面に下ろして貸家にしたものであった。当時は家が無くて苦労したという。父方の祖父母、兄弟との共同生活であった。ここで母ははじめて嫁の立場に立ったのである。

 そこもまだ土間がありへっついがあり、井戸があった。町内には五軒の平屋がありそのまん中が広場になっていたので、子供達の遊び場にちょうどよかった。家の境の垣根などはない。そこで知り合った花は、鳳仙花と百日紅である。

 小さな濡縁があったが、作りが雑であまり用をなしていなかった。この広場で父がりんご箱の本棚をしょうことなしにその二つ目を作ったのである。


 祖父たちが、新築の家に越していくと、母の妹の一人ミエ子叔母がその一間で新婚生活を送った。

 それまでとは打って変わって、新しい家具があるその部屋にときどき忍び込んだり、夕食を食べている夫婦の邪魔をした。ごま塩茶漬けをご相伴にあずかった。あるいは朝一番に、部屋にはいりこんで寝具の中のふたりを慌てさせた。


 車の通る道路の向こうには「コウキブ」と呼ばれる工場があり、その騒音といったらなかった。電車を修理するところだった。終戦後最大の台風がきたとき、私が窓から眺めていると、コウキブの屋根の一部が風にあおられて宙を飛んで行った。その夜はどこかに避難することになった。台風一過の風景には、妙に心踊る荒々しさを感じた。


 その後、私たち一家は父に就いて転居をくりかえす生活となり、私の言葉も方言が入り混じり無国籍のようになってしまった。


 とりあえずしばらくは故郷鹿児島の記憶にとどまろう。


ーーーー五軒の集落、というと田舎めくが、市電の終点のそば、市街地であった。父が帰国してのち、四歳すぎには母方の祖父の家から引っ越したのだと思う。弟が生まれていて、私にとっては生まれて初めての困惑状態となった。


 長子のショックである。それまで家族の中心であることを疑いもせず、兄弟の生まれることを楽しみにするように言い聞かされて待っていたのである。いざその瞬間から、私がどんなに驚き落胆し不可解におもったことか、想像にあまりある。幸いにも、そんな種類の記憶はあるが、そこに深い哀しみや孤独感はごくかすかな痕跡しかない。父がとても喜んで弟のことを語っているとき、複雑な想いが湧いた。その場面は記憶している。

 「怒ろうと思って名前を呼ぶと、ハイって良い返事をするものだから怒るに怒れなくてさ」と褒めた。今考えてみると、私がその年齢の時にソ連にいた父には初めての育児だったのだ。


 今でも近所の子供たちの名前を覚えていたとは意外だ。

上床くにこ、まりこ姉妹。桶谷けいこ。岡野かずこ。秋山れいこ。その兄弟たち。ともかくワイワイといた。困ったことに、私には子供との付き合いがそれまでなかったせいもあって、一緒に遊ぶのが少し苦痛だった。

 

 最初のつまづき。目隠し鬼ごっこをした。私が鬼のとき。いくら手探りで探ってもだれも見つからなかった。いつまでたっても見つからず、とうとう泣き出してしまった私を母が救い出した。いい加減に目隠しをとって、文句を言えば良かったのだろうがそんな知恵がなかった。

 

 しかし利点も生じた。私は絵本をいくつか持っていて、字は読めないがテキストを丸暗記していたので、近所からのリクエストがあったのである。自分では記憶していないがそんな読み聞かせ会があったそうだ。


「あそんが~(あそぼう)」とくにこちゃんがよく誘いにきた。少し年上の優しい少女だった。

 父親は大工だった。薄暗い家にもよく上がって遊んだが、雷雨の日があってみんなで固まって震えていたこともあった。あるいは病気遊び、という特別な趣向もあった。誰が言い出したのか、奇妙にみな真剣で静かにふるまう。病気の誰かを看病するというのが趣旨である。それには妙などきどき感が伴っていた。少し性的な意味合いも感じられた。できるだけすみっこに巣のようなところをみつけてそれは行われた。見たところはただのお世話の模倣だったが。


 職業まで覚えているのもおかしいが。

 秋野さんは教師で奥さんはお寿司を作る内職をしていた。早朝からいい匂いが漂うのに引き寄せられて、子供たちが欲しそうに立っていたが、奥さんはもちろん一粒もくれなかった。秋野さんは足を骨折して長く臥せっていたのだが、奥さんを叱咤する声がよく聞こえた。

 あっちゃんというひとつ年上の男の子もいて、のちにこの子が校庭で足の爪をはぐ怪我をした。それは夏休みの朝のラジオ体操のときの事故だったので、近所の仲間が保健室までついていった。オキシフルで消毒されて、あっちゃんが涙をこぼし足を震わせながらも、一声も発しなかったのを私は観察していた。男の子を意識した最初だっただろう。


 岡野さんはマル通の運転手だった。日本通運だ。猿が可愛く進化した、というような顔で、よく似た息子のひろしちゃんのことをミエ子おばが、かわいか~とよく言った。奥さんは出産した翌日には庭で洗い物をしていたので、母が驚いていた。


 最後の桶谷さん宅とは、実は前にも触れたように一軒の二階建ての上下だった。そのせいで私の中に仲間内という感覚は生じたと思う。職業はよくわからなかったが、当時トヨタのロゴで、トと大きく書いた中に小さくヨタと入っている図案があった。これは私がたいそう気に入っていた図案だった。とても気が利いていると感じたのだ。それが桶谷さんと関係しているというおぼろな記憶がある。

 けいこちゃんは、れいこ、まりこちゃん同様私より年下だったが、その中でも少しとろい感じがあった。子供がそんな違いをすぐに認識するのには驚くが、誰が賢くて誰がいいなりになるか、すぐに見分けるらしかった。くにこちゃんと私はある時期けいこちゃんを困らせた。何かを川に捨てたことを咎めて、百回川に向かってごめんと言わせたのである。モラハラである。しかし、私はその時の自分を恥じてまもなく擁護側になった。同様に、アリを意味もなく潰して遊んだことがあった。この時も後に私は自分を咎めて、二度としなくなった。子供の中にもはっきりした正義感はあるらしい。

 私の記憶の中には、ドブ川に向かってごめんなさいを繰り返しているけいこちゃんの横顔、私の指と黒いアリの行列、その映像が残っている。そこへ解説の記憶が埋め込まれているようなものだ。



ーーーー五軒の集う広場で起こったこと、なお2、3。

 岡野さんのかずこちゃんが幼稚園に行くことになった。小さな丸っぽいカバンを肩からかける。中には小さな出席手帳が入っている。私は羨ましくてたまらなかった。今は手元にないが、そんな私たちが並んで写っている写真があった。

 翌年4月、父がまだ無職だったせいで通園は叶わなかったが、とうとう両親は根負けして途中から通わせることにした。私の夢みていたのは、出席手帳に毎日貼ってもらえるシートであった。6月はかたつむり、7月はひまわり、という風な。

 ところが、思わぬ伏兵がいた。名前は忘れたがBくんとしておこう、一人の男児が、難癖をつけて私を泣かすようになった。私は殊の外それが恐ろしくて、帰り道にその姿があると縮み上がった。このことと関係があったのかはわからないが、ある大雨の日に、うちには傘がなかったので帰りは父が傘を買って迎えに来るという約束になっていた。私はそれを待つことができずに、かなりの距離を濡れて帰り、母の胸にわっと泣きついた。父はまもなく帰ってきてこれまた少し立腹していた。

 本当の理由を私は言わずに(子供としてもなんらかの矜持、あるいは心配をかけたくない、大げさにしたくない、という配慮があるのだろうか)、幼稚園では何も勉強を教えてくれないとか理由をつけて(その記憶はない、両親がいうところによるとそうだ)数ヶ月で通園を辞めたのである。なんとも気恥ずかしい出来事となった。

 これには後日談がある。翌年、新入生となってクラスにはじめて入っていくと、何と、あのBくんがニヤニヤしているのと目があった。愕然とした。顔色が変わったかもしれない。それでも誰にも何も言わず、通学した。おかしなことに、Bくんはもう私に構わなかった。一度も喋ったこともなかったし私も気にかけなくなった。数ヶ月のうちに、彼も成長したらしかった。


 やはり入学前のことだが、当時は虫下しなる薬をときどき飲まされた結果、回虫が虫垂にはいりこんでしまった。

 これに関して、また別の場面が思い出されたので、ついでに記しておこう。もっと幼い頃、山の中腹の祖父の家で、私はどこかへ行こうとしてひとりで石垣のある道を歩いていた。ところどころにスイバと呼んでいたピンクの花が隙間から咲いていて、その茎を吸うと酸っぱくて美味しかった。と、なにか異様な感じがした。お尻だ。なにか突き出てくる。私は肌着の上からそれをつまむという事態になった。

 急いで家にバックした。未婚の叔母たちがいて、パンツを下ろし、そいつを引っ張り出した。彼女らは私を乳飲み子の頃から世話して、のちの子育ての練習を十分積んでいた。


 またこの記憶を辿ろう、年上のミエ子叔母は気持ちの良い笑い顔とさっぱりした気性、頼り甲斐があった。ある秋の日、私は痛いと騒ぎながら顔を見せた。ハゼ負けである。真っ赤に腫れ上がっていた。ミエ子叔母はまずは消毒と思って、アルコールで拭いてくれた。するとアルコールに皮膚が反応してもっと赤くなった。彼女は潔く自分の失態を認め、真顔で謝った。

 末っ子のエミ子叔母は、ともかく情が厚かった。愛情にしろ怒りにしろ、爆発的なところがあった。私はしかし平気で彼女を信頼していた。中学生だったのだろうか、修学旅行から帰った彼女は、どうしてか、庭で、私に何かをくれるとニコニコしていた。後手にいちごでも持っているかと、私が言うと、ますます可愛く笑った。そしてもらったのは、7センチ高さほどの小さなセルロイドのキューピーさんであった。背中には緑の羽根がついていた。私がどんなに喜んだか、ともかく嬉しかった。



ーーーー人形で思い出した。

 クマの縫いぐるみをしっかり抱いている、私がいた、一歳すぎだろうか。おでこが突き出ていて、不機嫌そうな目つきで。おそらくお古だったのだろうか、この唯一の縫いぐるみは、片方の目玉を抜き出すことができたのだ。壊れている、という概念があったのだろうか、なにか満足できなかった。残念に思っていた。


 その後も、人形とは縁遠かったらしく、なにひとつ記憶に残っていない。

 そしてついに、二年生ごろだったろうか、私は人形を獲得した。しかも手製で。

 どこからそんなアイデアが湧いたのかはわからない、ともかく、材料は揃っていたから多分母がお膳立てしたのだろうか。綿を白い布でくるみ、顔を作った。胴体と手足四本、いずれも針で縫い合わせたのを、くるっと表に返し、そこへ綿を詰めた。かなり難しい仕事だった。その全てを多分後ろ側で縫い合わせた。

 人形など持たない近所の女児がみんなして、この製作過程をながめに集まっていた。私はとても集中して作っていたが、それでも彼らの気配と熱気を感じた。

 顔を描いた。ぱっちりした瞳の可愛い顔に仕上がった。その後の服作りのことは記憶にないが、熱心に遊んだはずだ。2年ほどした頃だったろうか、母が自分で手作りして大きめの人形をくれた。

 しかし、何と私にはその顔が気に入らなかったのだ。そして、翌年には、その子を友人にあげてしまった。「あげてよか?」と私は何度か母に尋ねた。母は辛そうに「よか」と言った。


 まだある。

 その後の人形は、有名なミルク飲み人形であった(父が定職についてしばらくしてから)。瞳が閉じたり開いたりする。眠るとまつ毛まであり、ミルクを飲みおしめもさせて、排尿もした。買ってもらった時は丸裸だった。この時ばかりは母が必死になって立派な衣装をたくさん作ってくれた。丸っこい胴体に合う裁断はむずかしかったことだろう。学校から帰宅途中の私に、弟がおうちにいいものが待ってるよ、と告げた。それが母の製作物だったのだ。私はおおいに喜び感謝し、よく遊んだ。人形用の小さなタンスを翌年のクリスマスに買ってもらうと、それが一杯になるほどの衣装持ちの赤ちゃんだった。


 つい人形の話に夢中になってしまった。

ーーーーテーマは虫下しだった。虫下しのせいで入学前の六歳の冬に虫垂炎になったのである。

 トイレから出た途端、腹痛でしゃがみこんだ私に、両親が気づいた。ただならぬ様子だったので医者が呼ばれた。その頃には痛みは消えて、布団の中で私は歌など歌っていた。それでも夜には大八車に寝かされて、星空の下を医院までごろごろと運ばれていった。手術。

 父が見ていたそうだ。麻酔の副作用で私はなんどももどしそうになった。医者は腸をずらずらと出して見せ、腸が太いから体が弱いかもしれない、と予言した。その腸をまたやみくもに押し込むので、不審に思った父が咎めると、ちゃんと元に戻るから、という返事だった。その頃母は、近くに行こうとしても足がガクガクして歩けなかったそうだ。

 父方の祖父まで見舞いに来て、私の頬にヒゲズラをこすり付けた。

 喉が渇いたこと、便秘になったこと、それは今でもはっきりした苦悩として覚えている。


 そうそう、みんなの広場でその後起こったこと、これがもっと大きなテーマだった。

 体が回復して、また広場でゴザを敷いて女の子たちの人形遊びに参加していた。ふと気づくと、私の大事ななにかが(人形の服か、布切れか)見当たらない、すぐにまりこちゃんを疑った。以前から人のものの区別がなかった。案の定、彼女の手にそれがあった。私はかっとなった。あっと言う間に怒りが爆発してしまった。近くにあった竹箒を手にすると、なんと小さなまりこちゃんに殴りかかったのである。泣きながら罵りながら。その時が私の七十年間唯一の怒りの爆発事件であった。自分でもわけがわからなかったと思う。

 母がすぐに、裸足で家から飛び出してきた。私の体を心配したのか、この振る舞いに驚愕したのか。どちらもだったろう。


 こんな「大事件」は珍しいわけで、その広場で魚を焼くやら、野菜を水洗いするやら、朝のうがいをするやら、みんな生活が筒抜けである。誰かの知り合いの青年が、両手両足で横ざまに回転して見せ、最後はぶつかって何かを破壊したり、ミエ子叔母がキュウリを刻んでいるところへ、おっちょこちょいの私が、手を伸ばしたために、指を刻まれたり、あるいはうちで飼っていた黒猫が秋野さん宅のひよこを失敬してしまったこともあった。

 おが屑のくるくるした中に仔猫を入れて吊るして遊んだりしていた弟が、この事件のために捨てると言う話になった時、転がって泣き喚いた。私も同じ気持ちだったが、弟の様子を見てまるで自分が捨てられるかのようだ、と思ったものだ。

 父がその役目を果たすことになり、適当なところへおいてけぼりにしたらしい。すると祖父が、猫は三日したら戻ってくる、と予言した。果たして三日目の夜、にゃあ、と言って戻ってきたのである。そしてしばらくは大人しくしていた、理由がわかっていたわけではないだろうに。しかし、味噌汁かけのご飯に飽き足らなかったのか、また秋野さんのひよこを狩った。もう断罪しかなかった。

 父がまた、その役目を果たすことになった。私はその気持ちがよくわかった。したくてするのではないと。今度は戻って来なかった。



ーーーー父方の「新上橋の家」

 この父方の祖父は、名を辰右衛門といい、日置群(当時)の農家の次男だとかで、鹿児島市内に働きに出てきた、色黒で目の大きな男だった。真面目だったので米屋の大将に信用され、自分でも店を出せるようになった。私もあとでは気付いたのだが、なかなか男前だった。それかあらぬか、母親の異なる娘、たしか二人も、他の兄弟とともに暮らさせていた。

 当時のことなので家長主義、男尊女卑の考えも強く、私はこの祖父にはあまり執着できなかった。その典型的な思い出の場面、私と弟はひばちのそばで正座し、両手をついて祖父におはようございます、と挨拶させられている。ひばちでことこと煮られている牛乳をひとくち貰うためであった。祖父はおいしいものを家族には与えず自分だけで食べるところがあったらしい。それは母がのちにこぼしていたから知ったのだが。そして、母方の祖父伊之助には、そんなところがなかったらしい。なにしろ男の子ひとりきりで、あとは娘ばかりを持っていたので。そもそも祖父の姉妹たちからして、当時は珍しい師範学校を出ていて、そのせいで婚期がおくれ後妻になるしかなかったという。


 どんな影響を幼い私が受けたのか具体的に知るすべはないが、ともかくこの朝の挨拶の屈辱感は忘れられないものだった。私の父は、次男で、気が利いていたので店の計算の手伝いもし、家を出てからは仕送りも欠かさず親孝行は身に染み付いていた。しかし、父自身はわたしたち家族に対して、古い考えは微塵も受け継いでいなかった。どこでそんな分離が可能となったのだろう。これを書きながら不思議に思う。


 父の母、という人、私の値踏みでは(子供のくせに、とも思うが何かを基準にして偉い、偉くないの順番をつけていた)立派な女性だった。のちに彼女がみじめな環境で亡くなった時、彼女のために悔しかった。穏やかで無口で安心できる人柄だった。

 息子の一人が(五人の息子と一人の娘という取り合わせ)、もちつきのとき、誤って彼女の指を打ち砕いたために親指の先がなかった。そのつるつるしたところを私は何度も撫でた。その感覚が異様だったせいだけではなく、同情も感じていた。

 この暴挙を犯してしまったのは、勝叔父である。彼は父の弟の一人で、幼児の頃2階から落ちて額を割った、しかも2回も落ちたという。前頭葉に深い傷ができた彼は、知的には5、6歳でとどまっていた。私たち(彼の甥姪にあたる)の遊び仲間のひとりだった。少しどもって喋る。腰には工具をぶら下げている。それが彼の仕事なのだ。みんなから呼び捨てにされていたが、基本的に家族の一員としての取り扱いに変わりはなかった。現在、末の妹以外もう家族は残っていないので、施設で暮らしているそうだ。丸々と太ってへこたれることのなかったその姿は、思い出の中でのみ生き生きしているのだろう。

 甲突川、という川があり、新上橋をわたると馬場があり、その角が祖父の米屋である。川に沿って国鉄が走っていた。ときどきだが、汽車の汽笛が鳴りわたることがあった。大人たちはそれっと走って行った。飛び込みだ。いつの時代も人は世をはかなむものらしい。もちろん子供は見に行かない。


 店の前の端っこに、いつも座っている老婆、彼女を私はよく眺めていた。何も言わない。誰も話しかけない。米を一粒ひとつぶ選び出している。ざるに、おそらくとぎ汁が捨てられたところから拾い集めたものが入れてあるようだった。いつもその作業をしていた。日当たりの良いその場所に、彼女は追い払われずに毎日座っていた。


 当時私の両親も貧しかった。父は公職追放の身分だったし、商才などはあまりなかった。仲間を語らって信用金庫を設立したところ、集めたお金を持ち逃げされてしまった。それで母が電話局に勤めに出るようになった。

 しかし、そうなる前の冬には、新上橋の米屋の店先で焼き芋屋をやることになった。芋は母方からおいしいものが届けられる。釜は、大きな俵型のものだ。父は楽しそうに芋を焼いていた。私は小学1、2年生だった。学校が終わるとそのまま電車で移動し、夜までうろうろして楽しかったし、焼き芋は美味かった。帰り、自転車の後ろにくくりつけられた大きな箱に、弟と二人入れられた。父と母はかなりの距離を上荒田の家まで歩いて帰った。

 昼間、暇なときに父は近くのパチンコ屋に行くことがあった。私がある日、呼びに入っていくと(例の勇猛な戦歌の中)、玉がいっこ落ちていた。それを近くの台に放り込み、パチンと弾いた。なんとじゃらじゃらと出てきたのである。驚いた。人生の快挙である。それで味を占めるようなことにはならなかったが。


 義晴、淳というあと二人の叔父がいて、店を手伝っていた。義晴叔父は私のお気に入りで、静かな、もわっとした喋り方をした。何よりも顔が美しかったのだ。逆にそうでなかったのは淳叔父だった。彼を見ると気の毒だった。彼が私の弟の三輪車に乗ろうと戯れているのを見て、私はちょっと軽蔑した。夜になって、自分の寝る場所が決まらないとき私は義晴叔父の寝床に潜り込んだものだ。彼は寝ぼけ眼で「ふげ」とか言った。

 ある夜は、私が祖母と寝ていると、サカエ叔母がごそごそとやってきて寝入ってしまった。なにかおかしい、と耳をすますと、彼女が寝ていたあたりで雨漏りしていたのだ。それを黙ったまま眠るなんてひどい、と私は思った。祖母を起こして注進したものだ。

 この叔母とは11歳年が離れていたが、末っ子らしく甘やかされていたようだった。私の価値判断では同等の者とみなされていた。少女雑誌の付録なのだが、一種のついたてで、開いて立てると部屋の壁が描かれていて、まるでお姫様のような部屋の調度が描きこまれていた。窓にはカーテンがあった。

 私はこれに一目惚れして、ちょうだい作戦に出たのであった。毎日毎日会うとねだった。

 もちろん根負けしてサカエ叔母はくれた。これは私の宝物になった。

 彼女とは多分、美空ひばりの映画を観にいくような仲でもあったと思う。具体的な記憶はないが、この時代、この稀代の存在が庶民の慰めであった痕跡が私の中にも植えつけられている。


ーーーーこの一族なので、私もかなりのドジであった。

 家を建てるとき、棟上げ式があり、屋根からもちなどが投げられることになった。辰右衛門祖父は、私のドジ加減がわかっていたのか、投げる方向を教えてくれた、そこに立っているようにと。しかし、私はうろうろしてしまい、ひとつも拾うことができなかった。彼も私もがっかりして、情けなかった。

 最大の恥さらしだったのは、五右衛門風呂のなかで私がおもらししてしまったことであった。

 父と気分良く入っていたので、私はにこにこして「あ、おしっこしてしもたと」と言った。父は黙っていた。理解を超えていたのだろう。それから私の顔にお湯をかけて、ばか、と言った。

 そういえば、その以前にもどこかのお風呂で、初めて父に本気で怒られてショックだったことがあった。お湯が熱いと騒いだのだろう、頭を洗っていた父はいらいらして怒鳴った。

 話を戻して、それから父はみんなに告げた。私はさぞしょんぼりしていたことだろう。決してしてはならないことだったのだ。他の誰も叱らなかったけれども。


 2、3、この類の思い出を集めてみよう。恥ずかしいことばかりだが。

 土間の台所から、炊きたての大鍋を母が居間に運んできて、ちゃぶ台の横にすえた。

 私はちょうど、父とお喋り中で、楽しくて仕方なかった。嬉しさのあまりちゃぶ台に手をついて、足を踊るようにしてその周りを跳ね回った。

 そして起こるべきことが起きた。私は鍋のなかにはまってしまったのだ。阿鼻叫喚。しかし記憶に強く残っているのは、その前の楽しい気持ちである。足をやけどしても余りある楽しさであった。


 ある夜は、魚を煮たお惣菜で、ご飯にその煮汁をかけて食べたかった。母は乗り気ではなかったがしぶしぶ許した。そして起こるべきことが起こった。のどに骨がささったのである。パニックになって、わんわん泣き出した。泣く余り、食べたものはすべてもどした。ついに医者に連れて行ってくれて、あっという間に一件落着である。

 ある夕方、どうしたことか私はいきなりもどし始めた。もう口のなかに溢れてくる。母がちょうど外から帰ってきて戸を開けたのを幸い、外にもどそうと顔を出した。母はすぐに理解し、私の吐瀉物を両手に受け止めた。その両手が妙に記憶にくっきり残っている。

 ある夏の宵に、居間で寝入ってしまった。父がきづいて私を抱いて、外で(濡れ縁から外へ)排尿させた。その時にはもう目が覚めていたが、寝たふりをしていた。そのままふとんに運ばれていく時、つい笑ってしまったのだろう、「こいつ起きてる」と父は言って私をふとんに落っことした。おかしくてゲラゲラ笑った。

 ある日、家族で動物園に行った。

 楽しみにしていたおにぎりなどを食べる前だったのかどうか、ともかく、私は遊動円木なるもの(漢字が間違っているかもしれない)にのろうと思った。丸太ん棒を長いまま両端でつるして、ぶらんこのように揺するのである。またがって座ると、つかまるための棒がしっかり打ち込んであり、その棒にはつかまるための耳のような小さな棒が左右についている。

 私は耳の片方が壊れているのに気がついていたが、ちょうど自分の耳がかゆくなった。そこへ、大きな子たちが大きく揺すりだした。そして起こるべきことが起こった。しっかりつかまえていなかったので、呆気なく振り落とされたのである。

 ふと気づくと、自分が泣いている。どうして?と思った。どこも痛くないし理由がわからない。みんなで帰り道を歩いている様子だ。記憶が完全に消えていた、いまだに何もない。突然、歩きながら泣いている自分がいた。父はこの時から、「あれでお前の頭の釘が何本か抜けたんごたる」とよく言った。自分でもそんな気がする。


 ある昼、私は友達を連れて伊之助祖父の家まで遠出した。遊びの続きだったのでだいぶ時間が経った。祖父は畑に出ていて留守だったが、障子だけしめてある家に上がり、机の引き出しから5銭玉をみつけて「**ちゃんが来ました」とメモを書いて、それをもらった。駄菓子屋で小さなあめだまを買うことができた。さて、家に帰り着くと、母がかんかんになっていて、どうしても家に入れてくれない。今なら電話という手段があったろうが、いつまでも帰らないので心配の余り怒っていたのだ。引き戸のところで私はおそらくしばらく泣くはめになったと思う。


 そうだ、はじめて電車に一人で乗り新上橋の祖父の家まで行った時、そもそもとてもドギドギしていた。何度乗っていても乗り換える方法がもうひとつわからなかった。ともかく、大きくカープする先で降りて次の電車を待つのだった。しかし信号のせいか、親に聞いていたはずの場所を電車は通り過ぎて進んで行く。私はあせって「降ります降ります」と叫んだ。一大事だと思った。今でも納得できないが、電車は私がさわがなくても直ぐに停車したのだ。それでも恐怖の体験だった。


 こうして振り返ってみると、この類のネガティブな思い出がずいぶんある。といってもトラウマになるようなひどさではない、懐かしい話のひとつ。

 その中でも、しかしおそらく問題が深かったかもしれないのは、変態男にいたずらされたことである。卑劣なやつだった。近くの野原で女の子たちで遊んでいると、まだ若い男だったが近くの石に腰掛けて、私たちをひとりひとり膝にのせた。多分恐ろしげな外見ではなかったのだろう。彼は軽すぎる、重すぎるとか言って次々に取り替え、私が座るとちょうどいい、と言った。すぐに下穿きに手を入れて、股間をさわった。そして気持ちがいいだろうと言った。私は良くも悪くもなかったのに愚かにもうなづいた。そこまでの記憶だ。帰ってから母にそのことを言った。それだけだったのだが。

 この影響はどうだったのか、悪い思い出となっているのは確かだ。大きくなるにつれ、この記憶には怒りのような感情がまとわりつくようになった。


 また、ついでに書くのも変なのだが、股間を傷つけたことがある。かなり小さい頃、はじめて下駄を履いた頃だ。道がでこぼこなので、その下駄の歯がこりっと斜めになり、尻もちをついた。ただその歯が股間に強く当たったのである。傷の手当てを母にしてもらい、昼寝させられていたとき、母が

「大事なところやのに」と呟くのを聞いた。変なことをいうなあという感じがした。


ーーーー私の母、クミは大正11年生まれ、次女だったが、6歳の差があるしっかりものの長姉ユキとの間には二人の女の子が亡くなっていた。また母自身も、祖母が脚気になり母乳を与えられなかったため、牛乳を与えられ、それが合わなくてずいぶんひ弱な赤ん坊だった。両親は今度こそと大事にした。その取り扱いのせいで、母は他の自由闊達な姉妹の中でとくに繊細で病弱、無口という立場になった。美的感覚に優れ、絵や工作、裁縫などが得意だったとか。


 肝っ玉母さん、という感じではなかったが、愛情を持って十分に世話してくれた。

 さて、その一環であるが、風邪気味になると、恐怖の生卵飲みが待っていた。どういう信念だったのか知らないが、せめてかき混ぜて醤油でも垂らしてあればいいものを、そのまま飲むように強要された。私は泣き泣き喉に流し込んで、母を恨んだ。

 ひばちの火でイワシの骨をカラカラに焼いて、食べさせられた。まあ面白い。

 しかし、ごぼうを強いられると、私はひばちの火にぼとりと落として、偶然を装った。もちろん嘘は丸見えなので、「わざっでしょうが(わざとでしょう)」と言われた。母が笑っているので私もへへへと笑った。

 年に一個くらいだろうか、りんごを買うことがあった。四半分くらいに切ったものをもらう。いつの間にか私はそれを長持ちさせる食べ方をみつけた。端の方から、ネズミのように少しずつ齧ってたべるのだ。りんごを長く味わえた。


 母に強いられて迷惑だったのは、習字を習うことだった。習字のなんたるかはまるでわかっていなかったので、日曜日にひとりで遠いところまで行くことと、その先生に初心者の私が怒られることが嫌だったのだ。

絵を描いても何か作っても、結局母が手伝いすぎたり、指導が多くて、私は萎縮して楽しいよりこまっていた。いわば教育的な失敗であった。のちに、弟に対しては母はあまり口出ししなくなっていて、弟にはそれなりの効果は見られたようだ。


ーーーー弟の昭夫は、ころころしていて遊ぶのが大好きないいやつだった。ただ歩けるようになるとどこへでもくっついてきて、世話をするのが面倒だった。ある時、野原を探検に行くと、鉄条網をくぐらなければならなかった。私の不安が的中、弟のまだ短い脚にその針がぐさっと刺さった。その場所が目の前にある。

 あるいは、弟がまだ乳児のころお尻におできができて化膿したので、外科につれていかれた時、医者は赤ん坊だと思ってか、いきなりメスでその化膿した場所をえぐったのである。それを見ていた私も泣き叫んだ。赤ん坊はかわいそうに火のついたように泣いた。その箇所も今でも目の前に見える。


 ある時、私は高熱を出して昼間、座敷に寝かされていた。ガラス戸を透かして庭で洗濯物をとりこんでいる母の姿が見えていた。すると、突然その視界に恐ろしいものが現れた。案山子のような姿をしている、頭には顔がある。目もある。それが回転しだした。恐ろしい速さで回転するにつれて、その目がこちらをにらんでいて凄まじい形相だった。たえられないほど恐ろしい顔だ。

 私はぎゃっと叫んで飛び起き、ガラス戸まで走って、泣き叫んだ。母はどうした、とも尋ねずにすっ飛んできた。それに私は驚いた。それほど私の形相も尋常でなかったのだろう。あの案山子は何だったのか。


 このガラス戸のある縁側で、お月見をした。独特な風情として心にくっきりと浮かぶことがある。

 お団子と花瓶にススキ、見上げると大きな満月、青い夜空。

 

 あるいは古い大きな提灯が出ることもあった。お盆だ。野の花の描かれた薄青い地色のものだ。この絵柄への憧れはいつまでも残っている。


 あるいはそこで七夕の飾りを作った。子供にもできるのは色紙を細長く切ってそれを輪にし、もう一つを通してさらに輪にする、という飾り。色紙を数枚重ねてなんどもたたんでいく、それを両側からザクザク切り込む。とがった端を持つとスカートのようにぱっと広がった。母が自慢のこよりを縒ってくれた。


 そこは遊び部屋という扱いだったようだ。本を見ていると、高いところから母が「ガンガン」を下ろして、丸い蓋をあけ、何かおやつをくれた。

 私にはひとつ理解できない本があった。いわゆるパラパラマンガだった。それを右手でパラパラすると、どうしてか馬が後ろ向きに柵を越えていった。向きを変えたくて何度も試した。今から思うと左手でパラパラすべきだったのかとも思う。しかし、そうだろうか。裏側には絵が描かれていなかったように思う。裏に絵があったら、いくら私がドジでも左手でやってみたのではないか? しかし、思い出すたびに笑ってしまう。私はそれを何度もパラパラしては首をかしげていただろうから。

 

 小学2年のころか、絵を描くための画板というものが必要だった。そしてそれがクリスマスプレゼントに予定されていた。サンタクロースなどは信じていなくて、何かをもらえる日というだけのクリスマスだ。私は押入れの上をさぐった。新しい画板がもう隠しておいてあった。我が家にクリスマスケーキが登場するのはまだ先のことである。


 お正月が来ると、貧しい家々にも門松が飾られる。職人がやってきて、竹をきれいに丸く地面に立てる、その中に土を入れ、松竹梅を見栄え良く植え込み周りを白沙で覆う。美しかった。子供達も元旦にはきれいな晴れ着を着せられ、広場を練り歩く、互いに出会っても遊ぶことはせず、おすましして(困惑して)通り過ぎた。

 桜島大根と鶏を甘く炊いた世にもおいしいお料理が、親戚のどこに行っても出された。形ばかりの追羽根をついた。黒いヒオウギの種が羽子板に当たると、乾いたいい音を立てた。


 家をめぐる記憶から移動するにあたり、当時しばらく同じ家に住んでいたミエ子叔母のために、その思い出を付け加えておこう。彼女は九州電力で長年働いていて、車の免許もありキャリアウーマンの走りだったろう。定年という年に、膵臓癌がみつかり、苦しみながら半年で亡くなった。本当に残念だった。

 のちには夫婦仲が悪かったというが、まだほやほやの頃だった。ある夏の日、海に連れて行ってくれるという。夫婦プラス私である。私は、その夫がいい男で好きだったので喜んでついていった。が、もうお盆をすぎていた海で、さっそくくらげに刺されてしまったのだ。私のせいではないが、ドジなことには違いない。

 あるいは、その彼に将棋を教えてもらった時だ。もちろん負けてしまったのだが、なんと私は泣き出してしまい、彼には思いもかけなかったらしく、ごめんごめんと謝って、もう一度勝負してくれた。今度はもちろん私の勝ちだ。恥も外聞も知らない私はにっこりしたのであった。今泣いたカラスがもうわろうた、とそんな時母が節をつけて言ったものだ。



ーーーー少し外の世界 銭湯と父の袖

 銭湯のこと、いろいろある。

 武町の祖父のところでは、夏の行水は庭の平たい石で行われたが、普段はだいぶ下にくだった銭湯に通った。温泉が引かれていたので、浴室の中の岩から黄色く垂れてくる、硫黄臭のするお湯をみんな美味しく飲んでいた。

 上荒田町では一応お風呂が併設されてはいたと思うが、その近辺の銭湯の記憶もあるので、あるいは幻かもしれない。明るいうちから出かけた。時に新生児のウンチが浮いていたりした。ガーゼで包まれた生まれたてや、いわゆる膝をついてのハイハイではなく、犬猫のような格好で動き回る幼児などを見て、面白かったものだ。今とは違い、髪を洗うのも普通の石鹸だ。もちろん大きな富士山の絵がついている。

 さて、外で父を待っていた。私は何か話そうと思って待ち構えていたので、出て来た父の浴衣のたもとを握り、夢中でおしゃべりを始めた。何か声がする。私を呼ぶ声だ。後ろを振り返ると見慣れた笑顔が50メートルほど後方に見えた。はあ?? と私は反射的に上をみた。知らないおじさんだった。むこうも笑って見下ろしている。私は弾かれたようにバックして走った。恥ずかしくかつ驚き慌てて。

 

 その後、昭和30年には青森で銭湯体験をした。そこの記憶はほとんどない。ただ、銭湯の前にほったて小屋のような駄菓子屋があり、ブロマイドなるものが売っていた。誰の写真だったかは記憶がないが、ブロマイドを手に入れることができるということに対して鮮烈な印象をもった。

 よく言う銭湯での牛乳飲み、かすかに覚えている。たしかにおいしかった。


 チンパンジーの赤ん坊が必死で母親にしがみついているのと同様、人間の子も親無しでは生きることができないので親を見失うとパニックになる。好奇心にかられてつい出歩く、というのもまた本性であるので、ある時、デパートで(超満員状態だった)つい何かに気を奪われていた。はっと気づくと両親が側にいない。見回すより先に私は「おとうちゃん、おかあちゃん!!」と泣き叫んでいた。自分でも驚くほどの絶望感だった。あまりの声にすぐに見つけられた。なんとそんなことを同じデパートで、次の機会にもやってしまったのである。

 こんな私から生まれた息子たちは、私をデパートで見失うとさっさと店員に呼び出しをかけてもらうという利口さを示して、私は舌を巻いた。とはいえ、そのうちの一人は、やっと歩ける頃に、私と二人で散歩していたのに、突然気狂いのようにママ~と泣き叫んで、ちがう女性の後をすごい速さで追いかけて行った。ちょうど横断歩道だったので、私も必死で名前を呼びつつ追いかけたが、その女性も競歩のような速足で、しかも追いかけられているとは夢にもおもわず、振り向かない。その二人の速いこと。追いかけても追いかけても追いつけなかった。 やっと捕まえた時、双方訳がわからなかった。

 また別の一人は、耳鼻科に連れて行こうとすると、玄関から逃げて行った。私は必死で追いかけたが、ましらのように走り去った方向には見つからなかった。どうしよう、と思って帰ってみると彼が家にいる。途中のよその家の門に身を潜めていたらしい。その前を走り去った私を放って、家に帰ったらしい。今では私も、あんなヤブ医者に無理やり連れて行こうとしたのが悪かったと反省している。



ーーーー伊之助祖父と武丘(たけおか)

 私にも少しは賢いところがあるという話をしよう。この母方の祖父は本当は性格のきつい男らしかった。

 物心つくようになった私がとても悲しかったのは、祖父が祖母を叱ったり非難したりがエスカレートして、娘たちを呼んで家族会議のようなことになった時だ。その時初めて見たのだ。大好きな祖父母のいがみ合いを。その場に座っていた。隣にいたのは弟だったのか、該当する子供がわからない。私は涙をこぼしながら、無理に笑おうとしつつ「おかしかねえ、大人がこげなけんかして、おかしかねえ」とその子に言った。書きながら今でも涙がこぼれてくる。


 この話ではなかった。

 武町なので武丘というところがある。その丘の上に祖父たちの畑があった。大八車に乗っけられて私もよくついていった。その途中にはガラス工場があった。薄暗い広い工場には火が赤々と燃え、ガラスを吹く男たちがいた。魔法のように膨れていき、最後はキンと叩かれて瓶が切り離された。

 その側に、大きな切り株があった。祖父が教えてくれた。年輪があるだろう、これは一年ごとにできていくのだと。その時理の当然として、私は悟った。

 「そいをかぞえたら木の歳がわかっどねえ(わかるでしょう)」

 今思うと普通の知識であるが、祖父はそんな利口な反応を予想していなかったらしく、「あいにはマイッタ」と人に会うごとに言って、丸刈りの頭をさすりながら自慢げに笑ったものだ。私としては、そうかなあ、という程度の気持ちだったが。


 そうそう、これも傑作な話だ。

 小学3年生のクラスで、私には初めての男の先生だったが、みんなで甘藷畑を見学に行ったのらしい。ついてみると、祖父の畑だとわかった。子供達はそこら辺を駆け回った。私はちょっと心配して静かにしていた。

 向こうで怒声が聞こえた。まずい、おじいちゃんが居たのだ。しぶしぶ行ってみると、祖父は先生に向かって怒鳴っていた。子供達も集まって縮こまっていた。私はその後ろに困って突っ立っていた。祖父が私の顔に気づいた。途端に、何も言わなくなった。その時の瞳をはっきり覚えている。私の途方にくれた顔を見て、引っ込んだのだ。

 帰り道、私は友達に真実を話した。その子は、**ちゃんのせいじゃなかよ、と労ってくれた。

 祖父はというと、またもや「あいにはマイッタ」を連発して、頭をさすって笑っていた。最後にはしかし、「あん先生はバカじゃっど」と付け加えたのを、私も心のなかで頷いた。誰の畑だろうと、子供に自由に駆け回らせるべきではなかった。


 伊之助祖父は、その後脳卒中を起こし、回復途中に足を骨折して寝たきりとなった。祖母はそれを20年間介護したのであった。



ーーーー変な好み


 幼児時代を漠然と思い返していると、何か美しいものがいくつかゆらゆら揺れているのに気付いた。


 一番は、積み木である。30センチ四方もない、積み木を組み合わせて詰めた箱である。そこに現れる姿はちょうど西洋のお城か、お屋敷のようだった。

 2本の華麗な塔と、その間のいくつかの窓、左右にも色付きの屋根があった。絵本の挿絵ででもそんな建物を見たのだろうか。私は遊ぶよりも、そのまま眺めるのが好きだった。


 ミエ子叔母が黒いバッグを買ってきた(その場面は覚えていないが)。その中には真っ白い硬めの紙が、バッグの形を保つために入れられてあった。15センチほどの三角錐の形で、底辺より高さの方が大きく、すっきりと無駄なく立っている。

 私はそれをしみじみと眺めて飽きなかった。


 

ーーーーいよいよ学校生活


 幼稚園を退学した私は、多分性懲りも無く入学を楽しみにしていただろうと思う。ランドセルを買うことになり、親が暗に言い聞かせていたシンプルな皮ランドセルを見に行った。すると思いもかけず、チューリップの花柄のついた赤いランドセルがあった。それを見た途端、急に欲しくなった。ごねたような記憶はないが、見るからに質は良くなさそうだったのに、両親はそれを買ってくれた。安かったのかもしれない。私は自分の軽薄さが少しわかっていて、内心少し面映ゆかった。「すぐこわるっかもしれんよ」と母が帰りがけに言ったのが心にのこった。

 そして案の定、2年生ごろだっただろうか、クラスの男の子がランドセルを後ろから引っ張って意地悪をした。理由は全くわからない、遊び半分という顔つきでもなかった。帰宅の途中、かなり長く引っ張られたため、おおいが壊れてしまった。さすがに彼も顔色を変えた。自分のしたことがわかったのだが、それでもお前が抵抗するからだ、というようなことをつぶやいた。最低なやつだと確かに思った。

 幼稚園で私が泣かされていた男の子の丸顔と、この男の子の長顏は覚えている。これ以外のことは消えている。


 家の前には小さなドブ川があった。そこで淳叔父がネズミを溺れさせた。金網に捕らえられたのをそのままズブズブと沈めて、じっとしていた。私はそばにいてじっと見ていた。意味はわかっていた。その時は大して何も感じなかったのだが、ずっと忘れることはできなかった。


 そのドブ川のそばで、黄色いウンチのとぐろを残したのが光子ちゃんという旧友だった。

 私を誘って通学する日々だったのだが、夏の頃、急に催した彼女はなんとそこにしゃがんでやってしまったのである。さすがに私も驚いた。ちり紙でそれを覆って、私たちはさらに歩んでいった。帰り道でそれがどうなっていたかは、都合良く記憶されなかった。

 色白で細くて、ベレー帽をかぶされていた。


 私は、弟もそうだが頭一つみんなより背が高かった。写真を見ると少しパーマをかけているようだが、そんなことは覚えていない。集合写真では白いエプロンをつけている。そんな子は私だけのようだった。これは母の妙なこだわりで、子供は短いおかっぱで、胸当にフリルのついた白いエプロンをして過ごしてほしかったらしい。母は「エポロン」と発音した。

 当然服はすべて手作りである。残念ながらこの年齢のころの衣服については記憶が残っていない。写真を見て、かろうじて見たような気がするのは、ピンクの布地にアプリケしてあったヨットである。これ以降に作ってもらった服のことはどれも覚えている。

 

 小学1、2年は同じクラスのままであった。そのうち、いつも一緒に遊びたいと思うような友達ができた。内村美津子という名前だった。一重まぶたながら目がぱっちりとしていた。他にも彼女と遊びたがる子がいたのでどこか魅力があったのだろう。母親と二人暮らし、いわゆる遺族の家庭だ。家に遊びに行くとよく似た顔の母親が、いつも裁縫をしていた。私を見るとにっこりしてくれた。

 私はずっと内村さんを気にかけていた。その後すぐに引越しで別れたけれども。しかし、10年ほどして帰郷した時、喫茶店に入ったところ、どこか顔見知りの母娘が座っていた。それが彼女だったのだ。向こうも私だとわかったのだった。内村さんは地元の短大に通っていると聞いた。その邂逅ののち、私は安心したのだろうか、思い出すことはあっても気にかけないようになった。

 もうひとり思い出した。鮫島さんだ。彼女は私と遊びたがって、家によく誘った。お屋敷のような家で、鮫島さんのさらさらした長めのおかっぱの印象と合致した。立派なおもちゃのお皿で遊んだ。私の方はそれほど彼女に執心していなかったので、いつまでも申し訳ないような気持ちが残った。


 一年生の夏休み以来だったと思うが、私は文房具や机が好きだったので、毎日100字練習帳に字を書くようになった。誰に言われたわけでもなく、毎日である。机といえば、どこからか父が大きな卓を運んできた。座卓である。そこで楽しく「勉強」した。

 1、2年の担任には「リーダーシップを発揮してほしい」と通知表に書かれたらしい。3年の担任には「無口、無関心」と書かれたらしい。当時はなにも理解していなかった。後になって、どんな子どもだったのだろう、自分、と首をかしげた。


 忘れもしない、2年生の理科の授業で水の循環というテーマになった。水が姿を変えつつ地球上を循環しているという話である。私はすっかり夢中になって、「うんうん、そうそう、わかった」といつにもなく大声で先生の話に反応していた。自然のシステムに感激していたのだ。

 3年生では銀河系の話をならった。この時もびっくり仰天、そのとてつもない大きさを両親に語って止まなかった。きっと両親にとっても未知のことだったのでないだろうか。


 一枚のバスの絵が思い出される。画用紙の真ん中にひとつ描かれて、横に「はま(タイヤ)」と薄く書いてある。周りは白紙だ。それを私が描いた絵だと先生が言う。返却してもらっても私は頑なに、ちがう、こんな絵はかいていない、と首をふった。名前が書いてあったのかどうかは知らない。ともかくそんな稚拙な絵を描いた覚えがなかった。はま、なんて。。。決して受け入れなかった、と思う。先生が間違えるはずはないので、おそらく私に発作でも起こって、朦朧とした状態で描いたのだろう。


 体操の時間は苦になった。幼児の頃から運動が少なかったと思う。すぐに運動会はいやになった、特に徒競走。ダンスは好きだった。無駄に走った後は、4番以降なのですごすごと戻って来る。父が茶化して言った。標準語にすると、「お前はビストルがなると、びょんと跳び上がる、それから左右をキョロキョロ見て、やっと走り出す」 父が言うと批判や意地悪に聞こえなかった。私もげらげら笑ってそれを聞いた。

 自分でも覚えているが、集団で走っている時、ちょっと頑張ると一人を追い越すことができた、しかし、すぐに力を弱めてしまう、それは気力の問題なのか、筋力の問題なのか、それが問題だった。


 ここで、運動神経、という点から思い出したのが、当時高校生で色黒のいわゆる「よかにせ(好男子)」な従兄弟のことである。春日の輝彦ちゃんと呼ばれていて、米屋の祖父の家によく出入りしていた。ともかく孫のだれかれが集まってきた。

 品性卑しからず、というこの従兄弟に自転車に乗る練習をしてもらうことになった。もちろん大人用の男物の自転車である。まず私がまたがってから、走り出すのを荷台をつかまえて支えてくれるというのである。

 すぐに乗れるようになると、彼は簡単に考えて引き受けてくれたのだろう。ところが、実際に乗れるようになったのは高学年になってからだったし、いつまでも恐々乗っていた私であったから、そうは問屋がおろさなかった。輝彦ちゃんは気の毒に、汗だくになって付いて回った。無駄に。

 それのみではなく、最後には広場に立って世間話をしていた近所のおばさん二人に突っ込んでしまったのである。ひとりはその後も腰痛に悩んだとか聞いた。それで私たちは諦めたのだと思う。


 彼とはその後会うこともなく、親戚の中では若くして、60歳くらいか、亡くなってしまった。

(ここまで書いたとき、訃報がはいった。最後に残っていた父方の叔父、勝が施設で肺炎で亡くなったという。87歳。4歳ごろ事故でおでこが割れて、知能の発達がとまったまま、大人になっても心は子供だった。私にとっては常にそこにいる遊び仲間であった。すこしどもってしゃべる、うるさいと言えばうるさかったが、屈託がなく悲惨な気の毒さはなかった。ある時、母親である祖母に「近所の大人が股間を見せろと言う」と話したそうだ。祖母は「そげなことはいかんとじゃっど」と強く言い聞かせていた。その場面をみたのか、祖母が話しているのを聞いたのか、それはさだかではない。ともかく両親が生きている間は庇護のもとにあった)


 母方にはひとりの叔父、木原俊徳がいた。造船技師だったが、時々実家に戻ってきていた。すると私のほっぺを少し強くつまんだ。私は嬉しくて笑って見上げたものだ。アレルギーだったのか、おできのできたお尻をだして、薬を塗っているところをみかけた。私はほんの子供だったので、そこに居ても彼も構わなかった。

 この叔父も数年前に亡くなり、初江さんという妻ももう亡くなった。この叔父は仕事場では荒っぽい男たちを相手にする専門だったらしい。父親に気質が似ていた。下宿の娘が気に入って、どうしても結婚したがったのだが、何かが許さず、結局見合いで決めた初江さんは細面の非常な美人だった。

 結婚式の時、あるいは結納だったのか、ともかく着物を着た彼女のそばを離れず私はくっついて歩いていた。すると頭を撫でてくれた。上を見ると私に優しく笑みかけてくれていた。その顔をまだ覚えている。


 私より1年下の従兄弟で、石丸美好という子がいて、母親は父の妹ノブである。彼女は実は私の母に兄である父を紹介し、絶対人物は保証するから、と言ったという。紹介といっても実際に会ったわけではない、父はどこかで戦争をしていた。

 石丸家は当時、鹿児島駅の前で食堂をしていた。そこにももちろんよく遊びに行った。彼の下には次々に3人の男の子が生まれ、最後にやっと女児が生まれた。彼女とはほとんど面識がなかったのだが、後年メール交換をするようになった。

  

 この美好ちゃんが、学校で私の後を付いて回ってかなりうるさく思った時期があった。今思えばもっと親切にしてあげたらよかったのだが、私にしても学校生活を送るのに必死だったのだ。長じて、商売も思うようにいかなくなり不遇のうちに、これまた60歳くらいで亡くなってしまった。

 現時点で(2015年)亡くなった従兄弟は新ちゃん(戦争未亡人を通した母の姉の息子)、鹿児島で高校の校長を歴任したあと、思いがけず膵臓癌が見つかり亡くなった。私自身の弟も同じ病気だった。ふたりとも60代前半だった。叔母にも私の母にとってもいわゆる逆縁ということになった。


 もうひとり、会ったこともないけれど20代にして不運な交通事故で亡くなった従姉妹がいた。名前も知らない。母親は、例の父の末の妹サカエ叔母である。

 サカエ叔母は、いつまでも実家にいたのだが、やっと結婚して神奈川県に移り住んだ。相手は多分同郷の人で、写真で見た限りでは見栄えの良かったのを、私も彼女のためにひそかに喜んだ記憶がある。そして20年後して、突然の知らせがやってきた。彼女の娘が家の門の前で車にぶつかられたのだ。その時の私の年齢すらおぼろなのだが、想像するのが恐ろしくて自分の感情から遠ざかっていたような気がする。

 数年前にサカエ叔母に会った時、尋ねられたわけでもないのにこう言った。

「お父さんがねえ、いつまでもくよくよしてさあ。あたしは結構、過去は過去と割り切って趣味のフラダンスやらで乗り切ったんだけどさあ」

 その背後にはおそらく、息子が結婚しないので孫もいない、という事情があったと思う。

 そういえば、母方の苗字は絶えてしまったようだ。唯一の息子の息子がこれまた結婚しないのだ。妙に家の名前にこだわるところのある日本人のひとりとして、私も少し残念に思い、筆名とかが必要な時には母方の姓にすることがある。


ーーーーまた学校生活

 学校生活の楽しみの一つ、遠足。あの頃どこへ連れて行かれたのかは記憶にない。並んで歩いている場面、いよいよお弁当、そのあとのおやつのキャラメルとチョコレート、写真で写したように残っている。ひとつ、自分でも変なことにきづいていた。遠足を無事に楽しんだあとに、それを夢見て、そこでは不安や怖さが反映されていたことだ。楽しかったはずなのに怖いものとなる。といっても次の遠足はまだ楽しみだったのだが。ともかく、子供の頃というのは、毎日明日が楽しみだった。そんな子供時代を過ごせることは非常に幸いであると言うべきだろう。


 給食の脱脂粉乳、多くの人がネガティヴな思い出をもっているようだ。確かに、生ぬるくて、ココアなのか少し最後に色が残るなど、私も喜んではいなかったようだ。肝油は好きだった。

 当時だけの危険な学校行事、それはシラミ退治であった。頭髪に白い粉をまぶされて戻ってくる。新聞紙を敷いて、そこへ首を伸ばす。そのための梳き櫛で母が髪をすく。新聞紙にシラミが落ちた。何回かそれを経験した。


母は絵を描くのが好きで、前述のごとく、夏休みの宿題の絵には肩入れした。3年生の時だったのか、白鳥の王子というアンデルセンの話を紙芝居にすることにした。数枚描くことになった。母があれこれ指図するのを私は素直に従って線を引き色を塗った。それを提出して、また返された時、花丸がついているだけだった。母は明らかに不満そうに、一言でも感想を書き添えてありそうなもの、と言った。私は教師の反応が理解できるような気がしたと思うのだが、それは後で考えたことかもしれない。


 こんなわけで、かどうか、3年の担任(例の祖父の芋畑の件の責任者)は、画用紙にまず、くるくると何も考えず、めちゃくちゃに線を引かせ、そこに色を塗り分けて、さてどんな動物を想像するかという授業を行った。

 私はもちろん、そんなことをする勇気をもちあわせていなかった。担任は図工の先生を連れてきて、3人で面談となった。私がどうしても線を引きまわせないので、最後には担任が代わりに引いたと思う。

 そうしてできたものが、どんな動物を思い起こさせるべきなのか途方にくれた。


 この3年の時の担任、彼は、と名前を思い出そうとして出てこない。

 「塩見先生」と、名前が出てきたのでそうかと思っていたが、数日後間違いがわかった。おまけに顔もはっきりしない。浅黒い顔で髪の毛が多かったと覚えている。


 ある時、姿勢良く座るようにと指示があった。姿勢の良い子に音楽会に参加させるというのだ。どの子もピンと座った。氏名不詳の先生は3人ほどを指名した。その中に私も入っていた。どうして、という感じはあった。そんな変な選び方はないだろうと感じた。

 それは木琴などの演奏をして、ラジオで放送されるというものだった。放課後練習が続いた。私は図体が大きかったので、大きなマリンバを叩くことになった。おまけにトレモロのように両手で美しい音を出さねばならなかった。かなり緊張した。であるのに、いざ放送される時には、私が難しい技を披露した最後の曲はカットされていた。そのことについて誰も何も言わなかった。


 似たような理由で(体が大きかったので)、2年生の時の学芸会で一休さんを演じることになった。演じるほどの演技力もなかったが、和尚さんの白い着物姿は気に入った。敬老の日のころ(当時はそんな休日はなかっただろうが)、またその劇をすることになったが、私は全く無視されてしまった。自分がするものと思い込んでいた私はひどくがっかりして、帰宅してもうじうじしていたらしい。あとでわかったのだが、祖父母と同居している児童達が敬老の日に集まって披露するという趣旨だったのだ。そのころうちでは同居していなかった。

 大なり小なり、がっかりすることは経験するものだが、事情がわからなかったためにがっかりして損をした事例である。



ーー鹿児島から青森へ、引越し 1954年


 こんな時期に、父は勉強に必死だった。よくこんな小さな本があるものだというくらい小さな本を使って。そして自衛隊の採用試験に受かった。いきなり青森に転勤、となった。鹿児島からである。


 昭和29年11月だった。3年生の秋である。

 クラスでお別れ会があった。担任がクラスでお別れ会を開いてくれて、驚いた。少しは嬉しかったかもしれない。

 彼に要請されて、私は最後に仕方なく「野菊」を歌うことにした。好きな歌だったが、歌うことには一度も自信はなかった。

「 秋の夕日をあびて飛ぶとんぼをかろく休ませて やさしい野菊、薄紫よ」というような素朴な歌だった。

 すると先生は、お別れの言葉として「野菊のように生きてください」とか言った。私は驚いた。どう理解していいかわからなかったのだ。いつ思い出しても、まるで夢のようだ。


 親戚中がこの引越しに興奮していたようだ。遊び友達であったサカエ叔母は、「お嬢様、お嬢様っち呼ばるっと(呼ばれるだろう)」と変なことを私に吹き込んだ。訳も分からず私は笑っていた。

 青森で着るための衣服がなかった。写真によるとオーバーコートを誂えられている。駅での親戚総出の写真がたしかどこかにあった。


 蒸気機関車で発った。

 東京駅までまる24時間かかった。乗り換えるために降りたが、なにしろ人でごった返している。

 父が何かがわからない、探さなくては、と言った。

 すると就学前の弟がすっとどこかへ走って行った。自分が探せると思ったらしい。仰天して父が追いかけた、というところまでは覚えている。


 身体中についたススのにおいは印象的だった。

 さて、それからまた24時間乗った。私たち姉弟はまだ十分に小さかったので、座席に寝転んで眠った。一度は転がり落ちたりもした。


 青森県浅虫までくると、小雪がちらついていた。子供心に遠くまで来たという実感があった。朝着いたので朝飯だーと二人で喜んだ。

 列車から降りると、さすがに頭の中がグラグラした。



ーーーー学校のこと

 そうだ、睦田先生ではなかったろうか!どこから湧いてきたのか、3年の担任の名前らしい。

 そしてまだ記憶の底に残っているものもあった。


 今も行われているのかどうか、知らない。いわゆる知能テストなるものがあった。3年生のときが初めてだったかもしれない。

 しかし、その日私は学校を休んでいたので、後日放課後にひとりやらされた。


 教卓に睦田先生と並んですわり、面白いクイズのように回答していった。もっとも面白かったのは迷宮ゲームだった。

 最後のひとつになって、時計を凝視していたと思われる先生がヤメ!とストップをかけた。私はピタッと鉛筆を止めて、手をのけた。


 睦田先生は、結果を覗き込んで妙な表情をした。迷路の出口の手前、1センチほどで鉛筆が消えていた。

 すると、なんと彼は私の鉛筆をとり、線を出口まで継ぎ足した。私は驚いて彼を見た。その顔にはどこか薄笑いが浮かんでいたように記憶している。


 のちに、その結果を先生はクラスで一番だった、と告げた。

 その場にいた母が、そののちに、伯母達に対し、私が学年で一番だった、と言うのを聞いて、純真な私は、クラスで一番、と先生は言ったよ、と文句を言った。

 母は、なんてばかな子だろうというような顔をして、学年でと言う意味だよと、ホントにもう!という感じで言った。事実がわからなくなって、まごついた。


 けっこう睦田先生の記憶があった。

 昔の子はよく青鼻を垂らしていた。ティッシュなどという便利なものはおろか、ちり紙も貴重だったし。なので、冬になると服の袖口がテラテラに光っていたものだ。あれを洗うのに、さぞ洗濯板で洗濯石鹸でゴシゴシせねばならなかったことだろう。


 夏になると、汗が問題だ。一応ハンケチはもたされたが、緊急の汗には間に合わないことがある。そこで私がどうしたかと言うと、スカートの前をたくしあげて、タオルのように顔を拭いたのである。便利だったので、いつもそうした。どう見えるかなどと思ったこともなく。


 ある日、睦田先生がそれを注意した。言葉は覚えていないが、あっ、そうなのか!と一気に理解した私はもう二度とやらなかった。

 そのせいではないだろうが、夏には鼻の頭にあせもの「す」なるものができた。ようするにばい菌が入って、腫れたのである。


 思えば、当時の鹿児島の夏はうちわだけが冷房なので、暑かった。西日の当たる頃、汗は垂れるし、蚊に刺されたりして子供心にも非常に、耐え難かった。


 まったく関係のないことだが、鮮烈な体験として覚えているのを思い出した。

 私はからっきし運動神経がなく、鉄棒とかもお手上げであった。自分ができる、という気がまったくしないのだった。

 放課後に、あるとき一人の友達といて、鉄棒を両手で逆手にもってお尻をぴょんと持ち上げた。もっとも簡単な動きである。尻上がり。

 体が浮いて、できた! と思った瞬間目の前が見えなくなった。痛みと衝撃。


 どうしてか、私は地面に顔から着地していた。顔は汚れていて少しは怪我をしていただろう。

 それでも、私は気丈にふるまい、何事もなかったかのように友達に「いこ、水道のとこ」と誘った。すると彼女は、誰だったか、光子ちゃんだったか、怖いものでも見るような顔でじっとして、首をふった。私は見捨てられたのだ。


 鉄棒をしっかり握っていれば何事もなかったのに、なんと私は、視界が回転したショックのあまり手を離したのだ。なんと愚かなことだったか。顔から墜落したのだ。そんな基本的なことが理解できていなかった。

 こんな例からも自分でも納得していたのだが、父が後年、自動車の免許をとってはいけないと何度も言ったのは正しかったかもしれない。もし運転いていれば、私はとっくに事故を起こして死んでいたかもしれない。


 楽しいことを思い出した。

「少女ブック」だったろうか、初めて母が買って帰ってきた。

 というのも、父の収入が安定しないので母が昔勤めていた電話局で働き始めて、おそらく初めての給料をもらった時なのだ。


 弟が生まれた後、私は知らなかったのだが、母は5回も流産していた。生活が厳しく、やせ細っていた。病気がちだったのをかすかに記憶している。


 初めてのそんな少女雑誌を見て、天にも昇る気持ちだった。そこには現実とは遠い、少女の夢がいっぱいだった。

 夢、というものが当時の私にそんなに必要だったとは思えないのだが、そこに美しくも示されると、やはり夢見てしまったのかもしれない。


 美しい挿絵のついた詩のページがあった。黄色いフリージアと大きな目をした少女の絵のついた詩にはことのほか魅せられた。「冬の夜にフリージアにおう、、」

 別に、手塚治虫の「リボンの騎士」の連載もあり、それは知らぬ間に世界史や海外文明についての教養の書でもあった。


  ***********


ーーーー青森で

 いきなり青森の冬の生活に突入。

 まずは住む家がなかったらしい。うすぐらい、曲がり屋というところだったろう、土間のある家の2階におちついた。記憶なし。

 まもなく、移ったのは馬車の通る大通りから入っていく土の道の、数百メートルくらい続いたところの、数軒の比較的新しい2階屋集落のひとつであった。小川が道に沿ってあり、木の橋がかかっているところに水道が一本立っている。そこで近隣の主婦が洗濯をするのだ。

 この集落のむこうは大平原、という趣。かなたに八甲田山がどっしりと全容を見せていた。

 家の主は、父母と同世代くらいの夫婦で子供が3人いた。川田さんだ。

 二階に我々が暮らす。といっても煮炊きの場所はない。二部屋のひとつに畳を切って囲炉裏があった、ように記憶している。こたつがあっただろうか。その他、七輪をつかう。母がどう料理したかは知らない。

 どんどん、冬に追い込まれていった。平原は真っ白になり、八甲田山も輝いていた。そこの窓からは、銀色しか見えなかった。どこまでも真っ白な平原が真っ白な八甲田山までつづいた。

 反対側の部屋にも窓があり障子がついていた。空を見上げると、雪がはらはらと降ってくる。いつまでも降ってくるのをいつまでも飽きずに見上げていた。


 朝目覚めると、窓の障子の両端から雪が舞い込み、二筋の白い線が布団の脇にできていた。これはすぐに目張りをして防がれた。

 反対側の、平原側の窓をあけると二階の高さのそこまで雪が吹き積もっていた。直に外に出られそうだった。

 ただ真っ白なところを弟が歩くと、たちまちどぶにはまった。母が弟を着替えさせて、外の水道で衣服を洗い、絞ってそこに置くとたちまちカチンと凍りついた。まもなく弟はまたどぶにはまった。母の苦労がわかったわけではなかったが、それでもこれは大変、という感じをもった。

 大通りをいく馬車には角巻という毛布のような大きさのものにくるまった女性が乗っていた。馬には鈴がつけてあるようだった。

 道に積もった雪が次々に固まっているので、ポストには階段を3、4段降りていかなければならなかった。これには驚いた。


 吹きっさらしのその道を、大通りを突っ切ってさらに進むと小学校があった。周りは広くて何もない雪原である。川沿いにあった。

 南国から転校してきた子は、ただ黙って笑っていた。母が私に言ったのだ。にこにこしているんだよ。

 何か打ち解けないまま2、3日経ったころ、道がカチンカチンに凍っていた。変な雨靴しかなかった私はすべってすべって歩けなかった。つい周りの子達にしがみついた。彼らは楽しそうに身をまかせていた。その時から、クラスの中で親しさが増していった。その変化は、因果関係も時期もはっきりと覚えている。

 雪国の学校は、廊下がひろい。校庭のかわりである。おはじき、おてだま、馬乗りなど、初めての遊びだった。小ハゼのついた足袋をみんなはいていた。

 にこにこ顏のせいか、比較的スムーズに仲間にいれてもらえた。なかでも優子さんという友達ができた。

 母が言うには典型的な東北の美少女である。細面ですべてが可愛らしかった。りんごをかじっていて、彼女がかじり捨てたりすると、勿体無いと私は思った。異文化体験だ。

 しかし、私たちはどちらも完全に方言でしゃべっていたはずだが。身振り手振りで理解しあっていたのだろう。弟は来春から入学という年齢だった。そのころ「おいどんが」と自分のことを言った。

 家主の川田さんの、長男は中一、次男が小2くらい、長女が幼児、三男がまだ言葉をしゃべりだすころだった。その子が階段の下から、おいど~んと弟を呼ぶので笑いを誘った。

 母がある時、鼻尾をつけてない下駄を買って帰ってきた。すると奥さんが買い物カゴを見て「そのダイコ、いくらした?」とか尋ねた。母は大根を買っただろうかと思って、え?え?と自分のカゴを見回したという。名詞に「コ」をつけるという方言に実際にぶつかったときであった。


 ともかく、鹿児島弁と青森弁なので、第三者から見たらどんなにこっけいなやりとりを毎日していたか、今になるとわかるが子供なので全然深刻には感じていなかった。

 担任の、まだ若くて色白で眼鏡の男性の先生が、ちょうどいい教材だとばかり、私になにか鹿児島弁で話せと言った。私は立ったまま途方にくれた。そう言われると何を言っていいやら。

 「おかあちゃん、ここはひとっもわからんない」と辛うじて言った。まったくもって不器用な私であった。ただ鹿児島弁独特の抑揚は、つたわったかと思う。

 おかあちゃん、という言い方そのものが子供達にはとても独特に響いていたらしい。地元の子はたしか、あーちゃん、と呼んでいた。


 春になったとき、イナゴ取りをするということになり、校庭の端の川のそばの草むらを探していたときのことだ。とつぜん、わたしの足の下に土がなくなった。

 体が大きく旋回して空が見えた。そして体は水にはまった。水しぶき。まったく!

 それで友達が数人つきそって、家まで来てくれた。 

 ずぶ濡れの私は土間から「おかあちゃ~ん」と母を呼んだ。それを聞いたかれらはそれが珍しいと言って(好意的だったと思う)、外国語のように興味を示した。

 冬の辛さをこどもはあまり感じなかった。父はスキーをせねばならずかなり苦戦したらしい。

 母は膀胱炎になった。あの水道のそばでの洗濯のせいであるとか。

 弟が入学するというので、集まりが学校でありその帰り道、ただ白い荒野を前にして母は近道を選んだ。弟を背負って、畑(であった雪原)をつっきろうとしたのだ。

 するとたちまち立ち往生となった。足がはまって動きが取れなくなったのだ。すぐに退散しなければならなかったらしい。

 吹雪のときに出勤するときのことを、父は「息もできなくなって、泣きたかった」と笑いながら語った。


 この年のクリスマスにミルク飲み人形のためのピンクのタンス(高さ20数センチの)をプレゼントされたのだが、同時に私は見よう見まねで編み物を始めた。かぎ針で。

 白い毛糸で20センチ四方くらいに「毛布」を編み、その周囲にピンクで波型の飾りもつけた。人形の丸いおなかに載せた。そういえば人形には名前をつけなかったなあ、と今思い出した。


 冬の間、運動不足のせいか、弟との小競り合いがひどくなった。それまでは喧嘩をしなかったと思うのだが、彼もいっぱしの6歳児で、夜眠気がさすと、機嫌が悪くなり私にちょっかいを出すようになった。ともかく、私にとってはそんな関係に思えた。

 ある時それがエスカレートして、鉛筆の先が弟の脇腹にあたり、黒く傷がついた。叱られたかどうか、記憶にないが、自分ながらショックを受けた。

 その後も時にけんかはし続けたが、弟が私の背を越すときっぱり止んだ。もう力関係が完全に逆転した。

 まだ小学生の頃、話の続きは忘れたが、他人と家族はどう違うのかと父に尋ねたことがある。

 「他人とはけんかしたらそれで終わりだが、家族はまたそれを忘れて仲良くするだろう、そこがちがうんだ」と聞いた。その意味はもっと後になって理解したのだが。

 少し関連してはいるのだが、はっきり記憶の中に残っていて、その理由が今でも判明しないことがある。

 私たち一家が借りていた2階には、大家さんの子供のための勉強部屋とロフトのようなベッドもついていた。そこで何人かが遊んでいたのだが、壁ひとつへだてた部屋に私がいると、そこでどさっと音がして一瞬のまがあった。

 あ、誰かがベッドから落ちた、と私は思い、その中でもっとも小さい弟ではないかとすぐに考えた。次にわっときこえた泣き声はやはり弟だった。

 その時の、泡を食ったような、推測が当たったというような変な気持ちが鮮明なのだ。


 その後も喧嘩相手ではあったが、確かに弟を気遣っている私がいたと思う。弟は本来なら4月に生まれて、十分育ってから、ゆっくり入学するはずだったが、3月末に生まれたためにもっとも幼い1年生として入学した。

 体は一番大きかったけれどやはり幼かった。

 5年前に62歳で亡くなった彼のことを、つらつら思い出すといつか涙が滲んでくる。とてもいい奴だったので天国にいるに違いないのだが。


ーーーー青森の春 


 春は素晴らしかった。

 ある日、家の前の草っぱらがやたらと眩しかった。

 真っ黄色である。あたり一面のたんぽぽであった。春が生まれたのだ。私は歓声をあげて突進した。春の到来を待ち焦がれていたのではない、ただその色の充満が度を越していたのだ。


 同時に、反対側の八甲田山へ至る原野も光り輝いていた。

 そこを歩くのはなんとも言えず嬉しいものだった。とくに小川がそこここにチョロチョロと光っていて、春になったばかりの土手には新芽や小花が咲いていた。早緑の土手のある小川、それは生まれて初めて見る忘れ得ぬ光景だった。

 この方向にまた一軒の家があり、先生をしていたという奥さんがいて私にお茶を教えてくれるというのだった。

 袱紗のたたみ方からはじまって、しかし、そこからまったく進まなかった。実は私はまったく興味を持てなかったのだ。袱紗を美しいとでも感じられたら別だったかもしれない。意味がわからなかったし。

 でも奥さんは、母に向かって、「こどもは物覚えが本当に早いですから」とかいつも言う。私は恥ずかしかった。本当に覚えられなかったのだ。


 習い事をもうひとつ始めた。そろばんである。優子ちゃんが習っていたのでついていった。最初、まったくわからなかったので涙が出そうになった。(私は決して外で泣いたことはなかったが、泣きそうになったことはもちろんある)

 しかし、次の次にはもうやり方がわかって、どんどん上達したし、また大好きだったので家でもよく練習した。

 先生は友達の父親で、たしか丸坊主だった。ほかに習字なども教え、また大工でもあったと思う。器用貧乏で、と彼が母に言うのを聞いたことがある。



 4年生になった。9歳半だ。担任は同じ先生、名前はとうとう思い出せないが。

 またすぐに知能テストがあった。当時はよくそれがあったような気がする。

 立体の図形を回転させたときに見える図を選ぶ、というが苦手だった。3次元のまま頭の中で回転させるのがどうしてか怖いというような感じだ。それはつまり出来ないからだったろう。

 それ以外は楽しくこなせたせいか、14歳半とかの知能だという結果になった。みんなの前で担任が言ったので(今ならそんなことはないのだろうが)、数人から、教室を出て行けと言われて弱った。まあ、みんな純朴な子供たちだったのですぐに止んだのだが。

 あと1点で天才の領域だと、先生は母に言ったそうだ。母が嬉しそうだったので私も喜んだと思うが、要するに少し理解力があったというだけのことであったのは、後年の自分を見るとわかる。


 春には運動会が行われた。その頃、私は足をくじいていた。足が痛いから走れないと担任に訴えると、「走りたくないから言うのでしょう」と疑われた。体育が苦手なのはもうお見通しである。私は必死に本当だと述べた。本当に痛かったのだ。まあそれを受け入れてもらえてほっとしたのも確かだが。

 運動会にはおにぎりのお弁当、川田家ではお父さんが作っていた。

 横でじっとみていたが、普通の数箇分くらいのを、手のひらいっぱいにひとつに握る、焼いたシャケを詰める、外には海苔をぐるぐる巻きにする。葉蘭で包む。いつまでも見つめていた。欲しかったわけではない。


 一度家族で弘前(ひろさき)にいった。桜の名所だ。はじめて美しいと認識した。

 その下で、アメリカ人の若い夫婦が観光にきたらしく楽しそうに笑っていた。私にははじめての白人体験だ。二人をとても美しいと思って、何度も振り返った。

 家族で出かけた記憶はもうひとつ、野原にでかけ、ぐみの実をたくさん持って帰った時のこと。もちろんたくさん食べたのだが、翌朝には、もちろん、白い蛆虫がたくさん湧いてでていた。これには全員悲鳴をあげたものだ。


 夏休みの工作だったのか、化粧用のブーケ(肩にかけて衣服がよごれないようにする?)を作ろうということになった。多分図工の教科書にあったのだ。

 驚いたことに、私が頼んだわけでもないのにその円型の裾をミシンで母が縫った。私がしたかのようにわざと下手に縫うと笑いつつ。

 母の態度はあれで良かったのだろうか、あまり勧められないことは確かだ。

 その頃、母に対して不信感をもつようになった。そのきっかけは、ある時、ふたりで部屋にいると母が私に尋ねた。

 「世の中で一番感謝しなければならない人は誰?」

 私はちょうど社会科で習っていたお百姓さん、だろうかと安易に答えた。お風呂屋さんでも、家主さんでもない。私には謎だった。

 すると、「それはねお父ちゃんとお母ちゃんよ」 

 私にとって青天の霹靂だった。どこでもそんな言葉を聞いたことがなかったし、実際感謝なんて思いつきもしなかった、大好きな両親に対して。

 私は泣きたかった。母に裏切られたような気がした。感謝を期待して育てているのだろうか。

 たしかに、自分があまりにも愚かな気がした。わざわざ指摘されなければわからない自分が情けなかった。

 感謝という気持ちをもったことのないこともショックだった。父母と自分の関係が遠くなってしまった。よそよそしいものに思われた。

 戦後の教育では、多分儒教的な言葉を避けたのだと思う。それまでの生活の中で、世話をされ、可愛がられて幸せであることを感謝という別の枠組みでとらえる雰囲気をまったく感じなかったのだ。いったいどういうことだったのだろう。父に話してみればまた対応が違ったかもしれないが。

 その質問が父の知るところであったとはなぜか思えなかったし、父に話してみることもしなかった。



ーーーー青森に一年、福知山へ


 その頃、父はギターを買ったらしい。

 らしい、というのは子供には借り物だから触るなと言ってあったからだ。結局返さなかったので、のちに理解した。

 付け足しておくと、その後父は自学自習でギターを練習した。器用な方ではなかったので長くかかったが、いつの頃か「酒は涙か溜息か~」を弾けるようになった。夜、かすかなその音を聴いていた。


 その頃までには、私も本をあれこれ読んでいたのだろう、自分でも好みの小説を書こうとしたことがあった。

 普通のノートに何ページかぎっしり書いた。主人公はなんと美空ひばりなのだ。私のアイドルだったのだろう。母もののような筋だったと思う。


 美少女は優子さんのほかにもうひとり居た。

 仮に明子さんとしておこう。色白で瞳が爽やか、おまけに髪がとても長かった。

 髪の長い子は私にははじめてだったらしい。「夜寝る時はどうしてるの」と彼女に尋ねたものだ。三つ編みにしていないと起きた時大変なことになる、という返事だった。

 どんな男の子がいたかは全く記憶にない。


 髪といえば、母がパーマをかけていくのに、ついて行った。すると私もかけられた。鹿児島にいた頃の写真でも毛先をくるりとさせていたので、2回目だ。その頃は金属のカーラーだったので、私がうっかり手を伸ばした時、熱く感じた。


 青森に春が過ぎ、夏、秋と季節が進んだ。すべて初めての経験だったはずだが残念ながら特別な記憶がない。


 青森にきてからちょうど1年、11月のある日、父が笑顔で言った。「転勤だ」 咄嗟に母も子供達もわ~い、ばんざ~い、と叫んだ。


 変な家族だ。誰一人としてこれまで青森が嫌だとか、引っ越したいとか言わなかったのに何故か大喜びしていた。

 実際はしばらく住むことを念頭においていたはずで、そのために、冬を前にもっと暖かい家に変わるという話が出ていたのだ。


 さらに、次の引越し先が山陰だということには思いが至らなかった。どこだろうと変化が嬉しかったらしい。

 急ぎの引越し作業、母の担当である。自分に見えないことには私はとんと考慮がなかったようだ。記憶ゼロ。


 最後の時間を旅館で過ごすことになった。

 夜になり、外で夕食を、ということになり始めて食堂で食べるのであった。

 食後にソフトクリームなるものを食べた。おいしさに蕩けそうだった。もう一つ食べたいと子供達が言った。なんと母が許してくれた。ぺろりと食べてしまった。

 そののち、母にもソフトクリームは好物となり、デザートに所望するようになったのを子供ながらに微笑ましく思った。こうしてたった一年で北国青森を去った。

 

 行き先は京都府福知山市である。山陰線で汽車で下った。

 窓からみると、海に白い波しぶきが激しく、目の下は崖、というところが多かった。それが恐ろしくも珍しくいつまでも窓に顔をくっつけていた。


 関西はまた、両親にとっても初めての地方であった。近くの舞鶴港には昔、満州への往路と帰路に寄ったのではあろうけれど。


 青森へと同様、急な移動であったらしくまたもや住むところがなかった。

 当座の貸し間として暮らし始めたのは、薄暗い土間の長くつづく家の2階である。やたらと暗かった。


 部屋のほりこたつへ、朝、火種をもらって運ぶ。数日後、私がその役を申し出た。4年生、10歳であった。幼すぎたのか、ぶきっちょだったのか、小さなシャベルから畳の上に炭火が転がり落ちたのだ。

 記憶は飛ぶ。母が家主に謝っていた。自分がするべきだった、と言って。もちろん叱られなかった。情けない気分はあった。


 しばらくして、小谷ヶ丘というところへ官舎があって、そこへ移った。

 二軒続きの平屋だ。周りに小さな庭があり、6畳と4畳半のふた間だったと思う。焚き口のあるお風呂つきだ。コークスを燃料とした。

 まず必要なのはよく枯れた小枝か、小さく割った薪と新聞紙である。楽しい仕事だった。あとでは薪を作る手伝いもできた。ノコギリで長さに切り分け、斧でコンコンと叩いて小さく割分けた。


 そこには官舎が4軒建っていた。

 練隊長、副連隊長、その下のなんとかいう役職のための家が3軒、大きい順番にあり、その部下の佐官たちが2軒長屋に住む。


 どの家族にも小学生の子供が数人ずついて、交流が長年あり、体験も共にしたのだが、親友という関係には誰ともならなかった。

 中学2年の夏まで4年間過ごしたのである。たくさんの思い出の山を見上げて、さてさてと考えあぐねている。



ーーーー福知山 病気

 考えあぐねても名案が出てくるはずもない。足慣らしにこの地の気候風土に触れてみよう。

 明智光秀と関係のある城がある。丹波篠山という地方であり、福知山音頭という風雅なメロディーの盆踊り歌は忘れられない。

 小谷ヶ丘は街のはずれの高台である。よく霧が出て、周りを流れていた。その中を下って通学路に入っていくのだ。その左角の家には高いくちなしの生垣があった。その芳香に初めて出会った。枯れかけた花をもらってポケットに入れて持ち歩いた。朝方霧が出る日は必ずその後晴れだった。

 大正小学校に転校した日は、仮の貸し間から官舎へ移る日でもあった。母が学校まで迎えに来て、さて初めての家へ帰ろうとした時、くねくねした小道のあと、目の前は遠くまでずっと畑であった。はるか向こうに人家がみえた。左側の小山は公園になっているようだった。

 八甲田山までの原野には比べられないが、私は思わず尋ねた。「おかあちゃん、まさか向こうまで歩いて帰るのじゃないよね」(この頃まだ鹿児島弁のはずだ)「そうよ、向こうまで」「ええーっ」というやりとりがあった。

 歩いてみるとそれほどでもなく、人家のあたりまで行って少し進み、左に曲がって坂道を登る。曲がり角には小さな食料品店があった。そこでおやつを買うために、坂道をざくざく走って降りてくるのだった。

 冬はかなり厳しいところだ。霜がおりた。熊笹が霜で白くふちどられている様は実に美しかった。学校には薪をもっていく。古めかしい薪ストーブが教室にある。青森よりも寒さを感じた。

 春になると、一面の菜の花畠が出現した。子供達はそこに埋まるようにして通学した。小山の公園には桜が満開となり、まさに陶然とするような眺めである。与謝野蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」を体験する思いだった。(この句はかなり早い時期に知るようになったと思う)


 真夏にはさぞ暑かったことだろう。というのも夏休みだというのにピアノ練習のために、毎日学校まで通ったことがあったのだ。転校して間もなく、学校の近くでピアノを教える人があり、好奇心だけは旺盛な私もすぐにそれに参加した。音楽の先生の同窓だという女性だった。当時はピアノのあるうちはごく稀であったし、オルガンさえうちにはなかったので、音楽の教科書に添付されていた紙の鍵盤を使うのだ。

 これを書きながら思い当たった。私はこの歳でオカリナを習い始めた。小さくて持ち運びに便利だし、と思ったのだが、そのためには楽譜を暗譜できないと楽器を吹くことができない。それで簡単な唱歌がほとんどであるので、暗譜しながら吹くことにした。ところが驚くほど、音感がない。知っているメロディーであるのに、次の音が現在でている音より高いのか低いのかすら見当がつかないのだ。絶望的なほど進歩がない。これは昔、10歳の頃、音の出ないままピアノ練習をしたせいではあるまいか。私の中に音符と音とが結びついていないのだ。きっとそうだ。

 というわけで、音楽の才能は発揮することはなかったのだが、生真面目に練習はしてバイエル、カノンなどと進んだ。小学校の楽隊でいちおうピアニストという役をしていた。呆れたものだ。よく演奏したのはハイドンの「びっくり行進曲」なるものだ。アコーデオンとハーモニカ、縦笛が主力の楽隊である。卒業式に行進してくる卒業生のために演奏するというので、練習に熱が入っていた。

 「ではもう一度」と音楽の川田先生がタクトをあげる。私が独走で出だしの和音を4回くらい鳴らす。フンジャ、フンジャ、と。

 川田先生がとつぜん、膝をがくと折った。

 「もっと歯切れよく、元気に~」と苦笑して言う。私はすっかり疲れていたらしい。トホホ、もいいところだった。


 実はその頃、私は毎日のように授業中に病院通いしていた。くねくねと細い路地を通り、神社から線路沿いを行き、どんどん下って街中にでる。かなり歩いたところに国立病院があった。そこでビタミン注射か何かをされた。そのほかに当時高価だったアリナミンをのまされた。まずは脚気になり、脚がだるくてたまらかなかったのだ。それから顔面神経痛とかで左半分が麻痺した。医師は診察の際いつも、「目をぎゅっとつぶって」言った。左の目を閉じることができなかったのだろうか。ともかく半分しか笑えなかった。

 喘息もでて、胸にも影があるようで、ともかくひょろひょろだった。食欲はあったが、体がビタミンBを受け付けないと言われた。この調子では結婚も無理だろうと、父は思っていたそうだ。


 おまけに、病気が原因だったのかもしれないと思われるいじめに会った。

 白鳥さんという、わりと親しくしていた女子が、私の病名を聞いた翌日に、「ちょっと目を閉じてみて」と言った。私は素直に目を閉じた。彼女は薄笑いをして黙っていた。その翌日から、私は仲間はずれにされた。白鳥さんとはまあ、競争関係にあったのは確かだが、あまりに明らかだったので呑気な私にもわかった。悲しいことだった。

 弟にもチックの症状がでていた。学校の廊下ですれ違った時、ボールを抱えて歩いてきた弟の目に涙がたまっていた。私は何があったのかと、尋ねもせず、いじめられているのなら助けようと思いつつ何もしなかった。

 相変わらず意気地なしだったのだ。目をパチパチさせている弟を母が叱った。すると父が、その母を注意した。母はもう叱ったりしなくなった。

 それでも弟は朗らかだった。

 初めてクリスマスを祝ったころだ。商店街でケーキなるものがもらえて(多分買い物のポイントかなにかで?)、小さなツリーもかざり、夢のように楽しかった。

 ケーキには真珠のような砂糖が振り撒いてあったのがこの世のものとも思えなかった。昭和30年というころだ。そんな団欒の時に、弟はニコニコして言った。

 「うちはみんなかわいいね、おとうちゃんもかわいい、おかあちゃんもかわいい、おねえちゃんもかわいい、ぼくもかわいい」

 実に愛情に満ちたやつだった。私も彼の言葉に全面的に同意していた。


 ラジオで「君の名は」が流れた。夜9時すぎからだった。病気がちの私はとりわけ9時には眠るようにときつく言われていた。それがとても不満だったのだ。友達に「君の名は」を聞いているのがいたのだろうか、どうしても聞きたかった。

 そのせいとは言えないが、茶の間のすみにある私のべんきょう机(鹿児島で手に入った例の古い卓)でランドセルに翌日の教科書を詰めるのが、なかなか進まなかった。あれこれ工夫していたらしい。私はとても几帳面で綺麗好きな子になっていた。


 勉強は、一種の楽しい遊びだった。2年生から始めた習慣で、百字練習帳のページは1日も休まずせっせと充していった。苦でもなく楽しい日々の行為だった。

 思い出せないのが不思議なほどだが、机の上に置くなにかをとても美しいと思って、それを見るたびにうっとりした。何だったのか。

 いろいろなことがない交ぜになっていたが、基本的にはいい家族関係だった。父が言った。「うちみたいに親が仲の良い家族なのは本当にいいことなんだよ」

 近所の家で、うちの親はお風呂に一緒に入ると私が言ってまわったので、母が苦笑しながら釘を刺した。私はすぐに理解した。


 夏には集会所で地域の映画会があった。鞍馬天狗ならよかったが、困ったのはそれに化け猫などが出てくることだった。眠っていると、猫の声が聞こえたりする。私は横の弟の手をさわって確かめた。

 ある時、学校からゴジラの映画鑑賞にでかけた弟は、真っ青になって帰ってきた。それから数日何も食べず青菜のようだった。

 日曜映画会もあり、近所の子が集まって、てくてくと坂を下り、街へ繰り出した。線路脇にの生垣の木には光った丸っぽい葉っぱがあった。それをひとつ丸めてうまく吹くと、音が出た。


 苦になったのは、子供会の「火の用心活動」だった。10人ほど、小さい子も大きい子も拍子木をもって、カチカチカチ、と鳴らして大声で「ひのよ~じん~」と近所を叫んで回るのだ。家族団欒の時間に。

 特に、とっちゃんと呼ばれる一級上の男の子の、機嫌が悪いとみなびびった。ある時、弟が彼の言葉に対し、無邪気になにか受け答えをした。とっちゃんはかっとなって、弟の首をしめ、「こんなことをされたら嫌だろ」とわけのわからないことを叫んだ。

 すぐにやめたのでよかった。火の用心はますます嫌になった。


 家の向かいには、何らかの社宅があった。そのひとつには、若い夫婦と赤ちゃんが住んでいて、女の子の例にもれず私もそこへ惹かれていった。その乳児の女の子というのがまたお人形のように可愛いのだった。しまいにはそこでお風呂に入れてもらったりするようになった。

 その隣には、入学前の男の子がいた。その子はまた世にあるまじきほどに、大人の喋り方をするのだった。ほお~ そうですか、と反応する。私も目を丸くしてその子を見つめた。あの子の行く末は?



ーーーー福知山 小学校その2


 学校生活の具体的な思い出のシーンは、さすがに数多い。これを書き連ねる意味がどれほどあるかは自分でも疑問なのだが、初志貫徹ということでやってみよう。

 もっとも印象深い場面は、給食当番の仕事、食器洗いである。中庭にポンプ式の井戸があり、雨の降る日にみんなで手分けして片付けたこと。傘から滴り落ちる雫の白さを覚えている。仕事をしているという意識が得られた。


 転校してすぐ、校庭で突っ立っていると、いきなり激しく背中を殴られた。誰かが振り回したバットが当たったのだ。

 あるいは突き飛ばされそうになる程激しく背中を押された、それは少し親しくなった女子からの乱暴な挨拶であった。

 ドッジボールは初めて体験した。ただ逃げ回るだけで別に楽しくもなかった。ただ一度だけ、どうしてか気持ちがはずんで開放感があって、投げられたボールに自分から食らいついて受け止めたことがあった。

 ソフトボールのルールを使い、ドッジボールを蹴って塁を回るものもあった。体育の時間、これも初めてだったので、塁に出たら走るのだということがわからず、突っ立ていたため次の走者がアウトになった。彼女には叱られてしまったがルールはわかった。

 跳び箱、も初めてだった。青森では廊下で馬乗り、という遊びをしていたが、跳び箱の高さにはビビってしまった。いつも恐々と対処としていたので、通知表に「跳び箱が飛べない」と書かれた。

 鉄棒の逆上がりも全くできなかった。いつまでも決心できず、ゆらゆら体を前後に揺らしているので笑われた。

 一度だけ、走り幅跳びで記録を出した。3メートル40センチだった、先生もこれには驚いていた。ちなみに塩見先生といった。私はまさか、と思って信じられなかった。その次に飛んだ時はなんでもなかった。


 朝は集団登校である。坂の下の公団住宅のようなところに住む年下の男児がいた。唇がいつも紫色で息を切らせていた。それでも普通に通学する姿は、痛々しいものに見えた。

 12月の転校生にとって、4年生クラスの様子に気づくには時は早く過ぎ、5年生になるともうクラス替えがあった。次第にクラスのだれかれについて認識し始めた。

 一人、たどたどしく本を読むような男子がいて、彼が机の間を歩くと、さっと足を出して転ばす輩がいた。倒れて痛がる彼をかわいそうに思い、足を出す当事者を軽蔑した。

 あるいはクラスにはいわゆる朝鮮人の子、そしていわゆるよつの子もいた。それはこの地方の特性でもあったのだろう。私には差別感は全くなかった。母はともかく、父に似たのだろう、と思う。似た、というか父の言葉の端々から学んだのだろう。

 私より背が高く、美しい顔をした春子さんがいた。性格も素直で、席が隣ですぐに仲良くなった。春子さんは、わざわざ私に言った、「本当は張春子っていうの」私はわかった、とこっくりした。

 ある時、私が彼女の長いするするの髪を束ねようとしていると、通りがかりに、クラスでも目立つ男子が、汚い、というようなことを言った。

 はじかれたように私は手を止めた。思いもかけない悪意に出会ってショックを受けたのだ。そして、言われた内容についても、私は言い返したりすることなく、すごすごと手を離したのであった。


 それは治、というような名前の、どこか人を食ったような態度を見せる子であった。絵の具で絵を描くとき、パレットを忘れたのか、手のひらに絵の具を出して平気で描いていた。可愛い顔だったが嫌われてもいた。

 庄司、というような名前の男子がいた。彼は図画や習字に秀でていて、実際心底丁寧に向き合って作成していた。そんな違いはすぐに子供にもわかるものだ。

 彼の絵画の幾つかをまだ覚えている。また、習字をうちの近くの同じ老先生に習っていた時期があった。私はどうも習字が苦手で嫌々いつも書いていた。

 ある日、彼も練習に来ていて、私が墨をすっている前で筆を動かしていた。

 私はずっと墨をすり続けた。彼の練習から目を離せなかったのだ。彼が終わるまで墨をすっていた。そしてできた私の墨はいつもより黒々としていた。

 その日、私は彼の心が乗り移ったかのように丁寧に心を込めて書いた。習字の藤田先生は、初めて初伝の印をつけてくれた。

 その後、私にはまた例によりいい加減に書く日々となったのだが、庄司くんはプロになったどうか知らないが、ともかく彼の人生を支える背骨をすでに持っていたと思う。


 この習字の老師一家との付き合いは家族ぐるみのようになった。その書も人格も鷹揚で美しかったし、妻は気安い性質で子供から家庭の情報を聞き出すのが得意だった。

 息子が鹿児島大学に通っていたこともどこか因縁めいていると私には感じられた。ただ習字ということがどうもピンとこなかった(その後60年近く経った今では、かなりピンときているのだが)。

 ひとつショックな出来事があった。そこではドーベルマンを飼っていた。その息子が散歩させていると、突然通りすがりの人を攻撃したという。そこで彼は鎖で犬を殴った。犬は死んでしまったのである。忘れられない。


 クラスの男子達。ここへきて何故か男子が記憶に登場するようだ。

 変わり種がもう一人、目立たない子だったがいつの間にか、クラスの正義派に変身した。

 何かあるべきでないことが起こっていると、すっくと立ち、教師に告発した。悪漢を名指しにしてその罪過を問うたのである。正しい振る舞いであった。

 どんな家庭の子だったのだろう。しかし、彼の正義感の発動はうるさがれたし、彼という人格がどこかうさんくさかったので密かに顰蹙を買っていた。


 ある日、彼は食あたりだったらしく、席に座ったまま苦しみ始めた。七転八倒していたのに、誰も塩見先生に注進しない、私もそうする気にならず、苦しませていた。ついに彼がそこらじゅうに吐き戻したので、保健室に連れて行かれた。

 廊下を二人の大人に抱えられていく彼の足がまるで操り人形のようにガクガクしているのを、私は空恐ろしいものと見送った。 

 この出来事をよく思い出す。社会の中で人の心が複雑に反応することを知った。


 さて、やっと初恋の話ができる。

 例の生意気な治くん(彼も頭がいいということになっていた)がくっついていたクラスの秀才、蒲耕造(名前の漢字は違うだろう)である。

 目が大きく眉が濃く、口元を結んであまり喋らなかった。

 卒業式前にサイン帳なるものが流行り、私ももちろん、ほとんどすべての女子が彼の列に並んでサインをもらおうとした。蒲くんは驚いて苦笑いを見せた。

 一度も話したこともなかったのだが、私の夏休みの工作で、紙粘土を瓶に貼り付けた筆立を蒲くんが感心したように手にとって触っていたことがあった。あれこれの貝殻も貼り付けておいたのだ。

 その後、中学3年の修学旅行で、その頃私が住んでいた熊本に来た彼をちらと通りで見たことがある。恋して、苦悩したというほどでもなくそれで消えた好意であった。


 永田一族、という子達がいた。後になってどうもそうらしいと理解したのだが、ある特別な地域に住まいがあるという話だった。

 その一人の男子が、結構可愛い顔立ちで、なかなか賢く何の問題もなかったのだが、どことなく不快な気がする上に、時に見られているようで、それがまた嫌だった。 6年生の頃、彼が友人に私のことを眼がくるりとして可愛い、と言っているのを聞いてしまった。それ以来もっと逃げ出したくなった。

 それだけの、何となく嫌な思い出である。


 クラスには同じ名字の女子も二人いて、普通の友達だった。

 だいぶ私も学校に慣れた頃、音楽室で彼女らが私の前の席に並んで座っていた。二人とも長い髪を一つにくくって垂らしていた。

 私にはそれが羨ましかったのだろうか、あるいはただ慣れ親しむ気持ちが強くなったのか、つまり遠慮がなくなったのか、隣の誰かに、

 「髪の毛が馬のしっぽみたいやねえ」

と覚え始めた関西弁でつぶやいた。

 するとそれが聞こえてしまって、彼女らは

 「あの子もごんたになったなあ」

と言った。それだけの話だが、結構くっきり覚えている。


 もう一人思い出すのは平田なんとかいう女子だ。リーダー格の子で私の苦手なタイプだった。体育では相手にならなかった上に、ある時歯の健康表彰、という行事があった時、私は自分の引っ込み思案を本当に悔しく思った。

 平田さんは塩見先生を追いかけて、階段で自分の歯を見せた。先生は一つ虫歯があるようだけど、と言った。私には虫歯は一つもなかったのに、そのせいで平田さんが表彰されたのだ。


 その頃、大切な同性の友人と巡り合った。

 例の習字の仲間で、時々見かける少女の様子にいたく心惹かれたのだ。よその小学校の生徒だった。髪がやわらかくうねって、目鼻立ちはいかにも優しく、声が涼しく響いた。何かの花に例えたいような少女である。

 中学では同じクラスになり、友達になった。芦田淳子という名前も美しい。最近その名前を忘れてしまっているのに自分でも驚いたが、何かの拍子に思い出したのでホッとした。


 対象小学校の校長は丸坊主の「おじいさん」だった。

 朝礼で彼が話し始めるとうんざり、という気がした。しかし不思議なことに最後には、いい話だったと思わせられた。

 教頭は、鬼のような顔と声の持ち主で生徒に怖がれていたのだが、私には優しかったと思う。担任の塩見先生は中年で、優しい人となりだった。色白で、時に頬がピンクになった。

  隣の担任は音楽の川田先生、独身だった。

 ある放課後、廊下で近所の佐伯姉妹と一緒にいると、川田先生も仲間に入り、そのうち私が座って何か読んでいる横で、3年生の妹の方の膝に顔を埋めたりした。私はそれを怪しからん行為だと思った。


 合唱クラブなるものにも入っていたので、川田先生の指導は毎日のように受けた。

 有名な「もみじ」を練習したが、優しい歌を上手に歌う、という方針だった。ただ私の音感が働かず、下のパートをいつも不安定に歌った。それでも先生は気付かずいい加減な指導のままだった。

 市の小学校合唱大会に出た時、全く面白くなかった。下手なのがわかっていた。自分が歌が下手なのに、先生を責める矛盾した気持ちがあった。

 その後も合唱クラブに属したのは何故だったのかわからない。 

 一方弟は美しいボーイソプラノで、高校の頃には音楽の道を進められたこともあったという。絵にも独特な色使いの才があり、私とは大違いだった。


 絵の時間はずっと楽しくなかった。下手だと思えたからだ。

 時の記念日のポスターを描け、という時、うんざりしながら、画面中にいろいろな時計を描きまくった。それが廊下に張り出されて意外だった。

 そんな中でもナンバーワンの思い出は、廊下から遠い山並みと、林や田んぼ、最も近くの窓枠と樹を一望した絵である。いかにも秋の景色、という雰囲気が出ていたので廊下に張り出された。

 ところが、どこかに出すのでもっと大きなものに描きなおすように、と言われた。今度は気をつけてもっと上手に描こうとした。ところが「遠近感が失われたねえ」と塩見先生に残念そうに言われてしまった。


 2階の教室の外には、大きな銀木犀の枝があった。それが香る頃には勉強どころではない気分だった。近所のクチナシの生垣の香りとともに、世界の美しいものを知った出来事であった。

 ところでクチナシの家には一級上の女子がいて、和子ちゃんとかいう名前だった。馴染みやすい子で、うちにもよく遊びに来たがそのうち母が言った。

「盗み癖があるって聞いたから、よく気をつけてね」 

 すると母に対して嫌な気持ちが湧いたものである。


 学校の仕事では、購買部に勤めたことがあった。あまりお釣りの計算ができず辞めた。

 学芸会では、クラス全員が平等に出演できる脚本になっていて、セリフは一言である。「うまくできるかわからないけど、弾いてみるわ」と言ってオルガンを弾く役だった。

 これが結構難しかった。みんなが歌うのと正しく速度を合わせるのが大変だったので、必死で自分も歌いながら弾いた。劇の後、下級生の女子がやってきて、「弾くとき自分も歌ってたよね」と言うので、何と返事したらいいかわからなかった、なぜわざわざ言いに来たのだろうか?


 最後に大変な仕事は、もちろんトイレ掃除だった。大便で汚れていたりしたが、それでも子供に始末できたのだったか。思い出すことすらできない。学校という仕組みの中で子供が学ぶこと、やらされることを考えると、教育システムの力に驚かされる。

 学校そのものについては、一応終わることにしよう。


ーーーーその他、印象的なものから。

 御用聞きという制度があった。昼前に下の方の八百屋のお兄ちゃんが御用聞きに各家庭を回ってくる。そんな仕事が務まるのがやっと、というくらいの知能のように思えた。

 メモ帳に鉛筆で書き付けながら、その日の目玉商品も伝える。夕方それらを配達してくれるのである。夏休みには私もいつもそばで見ていた。

 ある時母がまたもや言った。正当な助言である。「あのね、あの人が来ている時に、そばで脚をがっと広げていたりしたらダメよ」 理由はわからないが、そうなのだと納得したものである。

 台所のドアの向こうには、のちに私たちが住むことになるより大きな官舎の部屋が見える。板塀ごしに。

 当時、そこはおじさんとおばさんだけだった。娘を小さい時に亡くしてそれ以来おばさんはおかしくなったと噂されていた。ある日、見るでもなく目をやると、二人が座敷で並んで畳の上に寝転がっていた。おじさんがおばさんを引き寄せた。それから障子が閉められた。

 土曜日の午後には、父が半日で帰ってきて、母がおにぎりを作り、山の方へ散歩に出かけることが多かった。池がありウシガエルの怒鳴るような声がした。よく写真も撮った。カエルに驚いてちょうど私が宙に飛び上がった瞬間のものもある。

 その頃、母は白黒写真に色を塗ることを思いつき、どの写真でもやたらとピンクの頬にされていた。

 

 電化製品を買ったのは、母が親指の壊疽(えそ)になり、可哀想だと父が「買ってくれた」そうである。母の言葉によると。その他にも父は新しいもの好きという理由もあった。

 それで思い出したが、ある日、外から叫ぶ声がした。よく聞くと弟の名前を鹿児島弁の抑揚で叫んでいるではないか。声には聞き覚えもあった。それは父方の祖父で、辰右衛門である。

 南方系の、色黒、丸顔、鼻筋太く、目が丸く唇も厚い。祖母も一緒だった。近くまではたどり着いたが見つけられなかったので、大声で叫んだのだろう。

 祖母は色白のモチモチの肌、切れ長の目、穏やかな性格をしていた。私はふっくらした彼女のそばにいると安心できた。時々総入れ歯を外して洗うのもじっと観察して、別に汚いとも思わなかった。お茶を飲むとき、目の下に飲み口を持ってきて蒸気を目に当てる。

 二人は息子の一人が障害者になってから、天理教を信じるようになっていて、天理市まで行くのに私達を連れて行こうとしたのである。

 鹿児島でもよく集会に連れて行かれた。歌いながら踊りが行われた。そのメロディーは覚えている。天理教のおばさんという中心人物がいて、私たちが病気でもすると、母を非難して信心が足らないせいだといったそうだ。周囲には迷惑な話だった。

  とりあえず、一緒に本部なるところへ泊まり、そこの共同便所で私は閉じ込められてしまった。母がそこまで連れて来たのだが、私がトイレに入った後、母は去った。

 さて、出ようと思った私はドアが外から閉められているのに気づいた。あるいは内からも開くのに気付かなかった。そこで泣くしかなく、騒動していたら、よそのおばさんが開けてくれた。全く!

 電化製品と祖父母の訪問とが結びついている理由を書くのを忘れそうになった。祖父母には、ただの贅沢品のようの思えたのでだいぶお小言を食らったらしい。あとで聞いた話だが。


 私と弟がどんどん背が高くなるのをカバーするために、当時ははやりの毛糸編み機も買った。母は毎日その前に座り、1メートル近い距離をガッチャンガッチャンと左右に動かしたり、小さな針でピコピこと模様を入れたりしていた。残り毛糸で、毛糸のパンツを作ってくれた。もちろん縞模様である。大変重宝だったのを覚えている。

 編み物を解いて、また編みなおすのは一仕事だ。小さくなったセーターを解いて、蒸気を当てて延ばした毛糸の山を、輪っかにしてまとめてあるのだが、それからマリ玉を作る手伝いをさせられた。

 これにはどうしても手伝いが必要だった。私が両腕に輪っかになった毛糸の束をかけ、母がそれから巻き取っていく、そのスピードに合わせて、両腕を軽く動かすのだ。

 他に手伝ったのは、ふとん作り関係だった。カバーを掛けるのも。


 初めてご飯を炊き(炊飯器で)、それにミソ汁を作った時は、例のクチナシの家の年上の女の子に手伝ってもらった。一人では思いつきもしない行為だった。

 外出先から帰ってきた母は、喜んで頭を撫でてくれた。それがひどく嬉しかった。撫でられるのは初めてだった、ような気がする。

 そう言えば、私は本を読むのが好きだった。それで手伝いに呼ばれると不機嫌になった。そのせいかもしれない。


 庭には、濡れ縁があり、暖かくなるとムシトリナデシコのピンクにおおわれて、座るところもないくらいだった。

 印象的なのはグラジオラスだった。その豪華な風情は、手塚治虫の「火の鳥」に登場するグラジオラス公爵夫人なる印象と一致した。私はその花の中を覗き込んで、そこに一つの王国があるかのように思った。

 朝顔をどの家でも咲かせていて、花数を競争していた。

 隣の池田恵子ちゃん、2級下の彼女はとても負けず嫌いで、勝ちたいがために、うちの蕾をこっそり摘んでいくという悪い習性があった。もちろんだからと言って誰も文句を言いに行ったわけではない。呆れつつも彼女を受け入れていた。

 そんな彼女が、やはり負けず嫌いから、夏休み中私にくっついてピアノの練習に毎日、炎天下、学校まで付いてきた。二人だから続いたのだろう。よく飽きもせず通った。音楽室のグランドピアノで交互に練習して、また帰って行った。



ーーーー福知山 高学年

 病弱だった私が、六年生頃にはアリナミンと養命酒のせいで元気になりつつあったのである。塩見先生は私の夏休みの生活をわざわざ学校新聞に紹介記事を書いてくれた。


 子供時代だからこその思い出がもう一つある。官舎の敷地は高い石垣の下にあった。夏の日、大雨となり石垣に沿った通路が水浸しになった。水が引いても小石が散らばり歩きにくかった。その頃、私は父から「紙挟み」なるものを初めて買ってもらった。しっかりした厚紙が金具で留められていて、紙を挟んで固定させることができた。

 雨がやんだとき、突然、私の中にリーダーシップが降ってきた。一枚の紙に工事の手順と図を描き、官舎に暮らす同級生下級生を指揮してこの道を整備し、石垣沿いに水を流そうと思ったのだ。

 小川を作るために、小石をずらりと並べるために、誰もが私の指図で石を集めせっせと働いた。一区画ができると、私は紙挟みをチェックして、号令をかけた。私を引っ込み思案にさせるものは何もなく、おおらかで決定的であった。

 実はこれを今書きながら思ったのだが、これは異常な行動であった。養命酒で酔っ払っていたのではあるまいか。寝る前に飲まされていた。朝も飲んだのかもしれない。かなりのアルコール度数である。当時は私がアルコールに弱いか強いかなど考慮されていなかっただろう。そして、果たして翌朝、私は爽快この上ない気分で早く目が覚め雨戸を自分で開けて、外の空気を吸った。覚醒の気分であり、今でも憧れてしまうほどである。


 最後となるのは、エルのことである。子犬が鳴きながら庭にやってきた。白っぽい。濡れ縁に乗せるとぐったり横になった。ミルクを持ってきても起きようとしないので、口にミルクをつけてやった。するとバッと起き上がりゴクゴクと飲んだ。歩けなくなるほどお腹が膨れた。それでなんとなく飼うことになった。


 ところが、何かおかしい。動物病院に連れて行ったのかどうか、覚えていないが誰かが「たぶん、母犬から回虫をもらっていて、たぶんお腹いっぱいに増えているのだろう、どうしようもない」と言った。

 ある朝、姿が見えない。すると近所の人が田んぼの畔で死んでるよ、と言いに来た。しかし、まだ生きていた。倒れていただけだ。が間もなく、私が朝起きると、母がエル、死んでいるよ、と言う。台所の土間に小さな四肢が伸びていた。「一声鳴いたよ」と母が言った。

 私はついに来たことにショックを受けたが、涙は出なかった。板の間に体育座りで座っていた。

 庭に墓を作った。そのことを作文に書いた。


 エルのお墓は隣のより広い官舎の庭にある。

 というのも、その後おそらく人事異動があり、父も職種が変わって引っ越しとなったのだ。

 この時期までに住んでいた長屋式の家の最後の最後の思い出、というか、実は自分でもあまり思い出したくないことが残ってしまった。


 まずは楽しくそれは始まる。父と子供二人の三人で夜にはしばらく柔道の練習をした。相撲であったかもしれないが、それはどうでもよくて、要は父に投げ飛ばされる練習であった。もちろん頭を打ったりしないよう手加減してのことだが、子供達は大喜びで笑い転げて投げてもらった。腰投げや足技で一回転するのが面白く、また父も楽しそうなのが嬉しかった。

 ある夜、私は行司の真似をして弟を呼び出した。何か面白い呼び名をと考えて、「大鼻赤男」を思いついた。それで得意になってそれを連発した。弟もそれで傷ついたりしたようには感じなかった。しかし、母にはそうは思えなかったのだろうか。突然、「まあ、自分のことやっのに」と呟くのが聞こえた。そうだ、と自分でも思い当たった。私こそそんな鼻を所有していたのだ、と。全ての喜びが消えた。その後どうしたか、元気な真似をしていたのかわからない。母は機嫌よい笑い顔のままで何か気づいた風ではなかった。


 容貌に関して、わからないことが多い。級友の一人が、私の後頭部をわざわざ撫でに来て、何も言わず去って行ったことがあった。やっぱりそうなのだ、と納得した。

 どんな時だったのか、母の言葉も納得するものだった。「ぱっとしない顔だよね」そうか、自分はそうなのだと受け止めた。ある時、父も私の手のひらを眺めて「こんな形だと体の形も悪いんだそうだよ」と、言った。そこには悪意などなく、むしろ心配しているのが感じられたとはいえ、自己価値観は下がった。

 両親は、私がおごり高ぶらないようにとわざとそんな風に言ったのだろうか? 後年のことだが、二十歳前頃だったか、雑誌を見ていて、そこに何とか加代子、みたいな歌手の大写しの顔が載っていた。私にはそれがつくづく美しいと思われたので、「この子、綺麗だよねえ」と母に同意を求めた。

 ところが驚いたことに母は、「ちゃんとお化粧したら、あんたの方がもっと綺麗よ」と言ったのである。何を言ってるんだろうか、母は、どうかしたのか?と私はその顔をぼけっと見つめた。そんな反応は思いもよらなかったので、忘れられない。母にはそれなりの教育的理由があったのだろうが。

 そうだ、このテーマに関して、もう一つあった。すでにより大きな家に引っ越していたが(というのも記憶の中でその家の部屋にいたからだ)、父の同僚の一人が、正月だったのだろう、少し酔っ払ってうちに来ていた。私を見ると、綺麗だとほめそやした。ところが、彼の妻と娘(同年齢だった)は誰が見てもパッとした美人だったのだ。この人の目はどこについているのだろうかと疑った。酔っていたせいだろう、あろうことか、もうメンス(当時はそんな言い方が一般的だった)があるかと父に尋ねる始末だった。ついでに書くのだが、彼の娘はもうメンスがあり、しかもワキガの手術をした、とも言った。これには父もほお、と言うのみでしかとした反応ができなかったようだった。私はというと、やせ細っていたのでまだ大人の体になれていなかった。


*そろそろ中学生

 正確にいつまで病院通いをしていたのかはわからないが、遠足に行くと、しばらく脚がだるくなり後悔したりするうちに、ともかくマラソン大会には参加できて、塩見先生がよく走った、と喜んでくれた。しかし修学旅行には参加しなかった。

 病院は国立病院だった。通ううちに自然に看護婦の仕事に憧れるようになった。父に、そんな気持ちを語ると、意外にも「医者になればいい」と言った。そんなことを夢にも思わなかったので、新しい可能性が与えられたようだった。それでその頃から私の夢は作家か医者となった。


 作家、というのもどうせ当時のことだから、周囲がそんな言葉を使ったせいだろう、というのも少しその面での成功体験があったからである。

 小学二年生の時、動物園の作文を書いてそれで市長賞をもらった。書いたと言っても、母と並んで書いたので自力ではない。あるところで「走馬灯のように」という表現を母が勧めた。私は怪訝な顔をして母を見つめていた。それで、その表現を使うのは立ち消えになった。私は良かった、と思っていた。

 その日、私は父方の家に泊まっていた。朝早く両親がやってきたので訝しく思っていると、新聞に入賞の記事が出ていたので、喜んで走ってきたという。電話もろくにない時代なので、新聞でしか知る由がなかったらしい。確か動物園で式典があった。その時にもらった四角い文鎮は私の最高の宝物である。原稿用紙の形が浮き出た重たいものである。

 そんなことから簡単に作家になればいい、だなどと、子供に吹き込んだのは誰だろう。その頃、林芙美子が有名になっていたと思う。父が、小説を書く女は、と身持が悪いとか言ったと思う。


 話のついでだが、二つ目の成功体験がやってきた。引っ越しの後すぐのことかと思う。例の死んだ子犬エルの作文である。これは全くの自力の作だった。それが何かの賞に入り、汽車で京都市まで表彰されに行ったのだった。

 それはもう中学生になっていた時ではないか、と思うのだがもう一人「由良川物語」という古風な作文で入賞した男子と付き添いの先生(それが誰だったか顔が思い出せない)と3人で汽車に乗った。その間会話もなく息が詰まりそうだった。私は森永キャラメルを一箱持っていたので、それを静かに口に入れた。彼らにも勧めようと思ったが、その勇気がなかった。それで一層気まずく一人で食べたのであった。こまった思い出である。この旅のことはそれ以外は何も覚えていない。

 この入賞は当時珍しかったらしく、地元の新聞に小さな丸い顔写真つきの記事が出た。その後、誰か知らない子供が、いきなり「新聞に載ってた子やろ」と言ってきたので、あんな写真で見分けがつくとは意外だと驚いた。髪の毛だけが膨れて目立つ、逆三角形の小さな顔で目鼻立ちが寂し気に写っていた。



*「健気なさわがに」 


窓から山並を見ていたら、蟹の姿が

その朱色が、突然起ち上がったよ。

大阿蘇の山を無意識に思い出していたらしい。

四十年を瞬時に駆け抜けて。


ぼくらは大観峰へと続く尾根にいた。

若人五人と老教授。風も眺めも、

もうたまらんって感じでフウッ!

木イチゴを露の中からむしりとって

むさぼり喰った、そんな僥倖もあった。

あの頃の日本の未来は良かった。

未来学なんてものもあった。

なにせ、ぼくらはどんどこ歩いた。


既に数時間、午後中阿蘇をさまよった。

そこらで育ったひとりの男が

情け容赦なく前進する。

何もない,歩くしかない、空と草だけ。

遥か遥か下方に

カルデラの畑が色とりどりに見える。

何てこった、あそこまで下って行くのだ。

今から!

一直線に下山するぞ! 彼が怒鳴った。

実はみなただの怠け者ぞろいで

ほとんど絶望感に襲われた。

ドドドと山肌をほとんど転がっていく。

森に迎え入れられる。

鳥の声はあるがもう雑音。

手はすぐに泥と汗と血で汚れた。

道じゃないんだ、獣道ですらない。

いつまで、あと何時間?

大岩をへめぐり、

清水がチョロリしているのをペシャと踏む。

半泣きだ。次の岩肌を滑り降りる。

コワイナ、口々に叫ぶ、先生? 

とりあえず必死の形相だ。


とりわけ大きな岩から辛くも降り立った時

そこに、蟹がいた。朱色があった。

緑と岩の自然の中に

不似合いな、目を射るその赤。

愛らしい形をして! 三センチくらい!

こんな狭い沢で、君は一人で何してるんだい

ぼくらは大変なんだけどね。

深紅の小さな沢蟹は

あわてた風もなく少し横に移動して

巨人たちの地響きを静かに感じていた。


命燃え立つ、炎のごとき生命体は

弱虫たちの脳に赤い点を灯した。

緑色の影なす天井、シダと苔と岩と清水。

ぼくらは一粒の驚きを得た。

とても愛しかった。息を吐き出して笑った。


たそがれて、やっと汽車の席に座った。

ぼくらが後にしてきた

小暗い山の重量があった。

サルビア色のひとひらの、可憐な形

山の飾りよ、よくお生き!





第二話 悪事の星霜何十年、、、詩という柄じゃない頃の詩作

洋光邂逅の頃?


*「散文詩  竹の秋」


世を空を被ひし桜白々と

  舞ひ散りてのち万緑に色染め変へて

小さき実を小鳥のために結びたる

  その時に竹の秋とぞ


惜しげなき枯れ笹の笹舟の

  尖がりて流る

  風に乗り いづこへの旅ぞ

突き刺さるかにハタと墜つ

  ほとんど色は黄金に

  先端ありて落ちながら

  ついと漂う

風と重力の作用のまにまに明確に

  指向する先端

  描かるる鋭き斜線は無数にして

垂直の竹林よぎるその眺め

造化の技のいたずらめきて

  息をぞ呑まさる

その組織花びらよりも密なれば

  成す一直線

  斜めの角度は時々に様々にあれ


魂のげに美しき宝子ら

  憶うこの夕に

けふの最期の光の使者は

  竹たちの片側のみを輝かすなり


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