第四章 「まだうぶな若者たちだったが」 前篇


***河野孝三 宮下朝子


 1945年8月上旬、広島で晃という中学生が閃光と共に消失した。慰め合うしかなかった二親はやがて男の子を授かった。河野孝三である。


 2010年、孝三は屍の上に築かれた平和の日々の茫々たる六十余年をふりかえる年齢となった。子を生さなかったのか、生せなかったのかどちらでもいいと気にもせず、妻の春海とともに楽しい日々を送ってきた。多くの人が趣味として海外旅行をあげた未曾有の繁栄とその当然の結果としての瓦解と、それらですら孝三夫婦には実害を及ぼさなかった。


 孝三の軌跡に影を落としたのは彼の存在そのものが及ぼした他の人々の行為であった。結婚前に、周囲の女性三人が彼に好意を寄せた。しかし孝三自身にも当時明白ではなかったが、彼は慈愛深い両親や亡くなった兄に恥じない人生を送りたかったらしい。今にして振り返ればそういうことだったらしい。それぞれに魅力的であった女性たちと付き合うことを丁寧に断った。しかも同じ日のうちに断って回ったのである。孝三はただ、自分の好みを結婚の条件にしたくなかったのだ。家族全員で決定してゆくプロセスとして夢見ていたのだ。


 広い地域の中から何の因縁か春海が浮かび上がってきたとき、ぴたりと二つの貝殻のように閉じ合った。花のような若い年齢から長く孝三に執着していた女性三人はその繊細さの余りにそれぞれが樹海に姿を消したのであった。


 周囲の誰もが孝三に教えなかった。ある時彼女らの消失を知ってしまってから、孝三は酒をたしなむようになった。罪無くして罪人である、人生の恐ろしさにおののいた。


 孝三について上記のような半世紀のレポートを考えたのは大学の先輩宮下朝子である。

 昭和二十年八月上旬、宮下朝子は母親と共に朝鮮半島の平壌近辺まで引揚げの途上にあった。生後二週間足らずの新生児であった。閃光には誰も気づかなかった。止まり止まり進んで行く列車に向かって、不吉な噂の方がやってきたが、自分たちの日々の危険と不衛生と不安に追い立てられていた。


 宮下朝子は戦後にありがちな向上心と好奇心に満ちた、発育の良い娘となった。おしゃれにもうつつを抜かした。どうしてできるだけ美しくありたいのか?何も自覚せぬままに恋をして結婚し、思わぬに男児を二人産んだ。次は名誉が欲しくて結婚相手を交換した。好景気の頃をアジアで夫と過ごした。そこに、置きっぱなしにしておいた第一子が、夢を叶え損ねて縊死した。


 そのころが日本の自殺者三万人時代の始まりだったのだが、その時点で知る由もなく、自分一人の悲運としてそれは朝子を地面に叩き付けた。彼女の人生を黒い緞帳が無惨に断ち切った。全身麻酔を受けたとき、そんなばかな、と思う間もなく闇がすべてを遮断したのと似ていた。


 二度目の結婚生活も円滑とはほど遠かったし、朝子が自立の夢を叶えることもなく、結局三人生まれた子ども達がそれぞれの時代を反映した苦闘の人生を歩むとは言え、外から見れば普通と言える生活を営んだ。しかし六十五年ののち、宮下朝子の人生は大きく歪みきしんでいた。いい加減さの報いに面していた。


***大河内正 春波子

 宮下朝子について上記の半生レポートを書くことができたのは、同郷の先輩である大河内正である。


朴訥さと迷いの無さと善意とで、哲学研究の仕事と家庭運営を全きものへと実現した希有の男である。世の人々を大切に思い、全てに心を尽くした。字を一つ書く時にも大河内正の公正な、他を敬う気持ちが働いた。

 

 妻を娶らば才長けて見目麗しく情けある、という詩節そのままの女性を見初め、詩に秘められている男の理想にまで妻を高めて行く、そんな難事にも成功した。婚約者のお披露目のために招かれた後輩たちは頷いたものだ。自然と運命が一つの女性の典型を大河内正のためだけに用意したのだと。彼女は天職として自ら教職を選び自立していた。十分に美形の女性でしかもその魅力は大河内正のような男性にのみ開かれていた。


 その子供たちは満ち足りて育ち行き、両親は確かな仕事を終え、研究も趣味も夫婦仲も理解も愛情も不足するとことは何一つ無かった。大河内夫妻が人生を愛し、大切に処してきたように、人生もかれらに十分なお返しをしてくれた。後輩との年賀状のやりとりは続いていた。大河内正はその年に登った山の写真を賀状の半分に載せ、まるで既成品のように完璧な出来でありながら、個々の人物に当てたパーソナルな知らせを送った。


いつも人生への感謝と希望とが、言葉としては書かれていなくてもそこに馨っていた。受け取ったとき、この人物を識っていれば大丈夫だという気持ちが湧き起こる。こののち彼が病気になろうと、死ぬことになろうとすでに大丈夫なのだ。



 大河内正についてその半生をこの限りにおいて知るのは、たとえば春日波子という宮下朝子の友人である。

 橘正宗とこの二人の女子学生が英会話のクラスでたまたま近くの席に座ったことから、何となく話すようになり、気持の齟齬が全く生じなかったためいつも繋がって学生時代を過ごした。そこへ河野孝三がいつの間にか加わったため、男女四人グループとなった。といっても閉じた輪ではなく、その周囲にはやはり気持の繋がりやすいもう一つのゆるい人の輪が存在していた。


 広島市には七つの河が流れて来る。七つの河には橋がかかり、百メートル道路や市電の通りがあり、空が広かった。どんな悲惨の記憶があるとしても幸いにも草木は生き残り、人間の営為を可能とする。そんなことを人々が信じ始めた昭和四十年代はじめの頃である。広々とした空には大きな虹がよくかかった。空が広いので虹の存在がよく見えた。


 春日波子は愛くるしい顔立ちをしていた。彼女の特性は世界の中に愛情を感じる対象を多く見つける能力と、それにともなう繊細な気質だった。父親を幼くして病で失った。弟との二人の子供を看護婦の仕事で母親は育て上げた。


 友人の中で宮下朝子とは、しばらくして付き合いが途絶えた。その間に春日波子は意外な勇気をみせて、アメリカに留学したのであった。そして意外にもかなり年の若いアメリカ人と恋に落ちた。それは彼女が三十才になろうとした頃である。夫は医学生であったので生活が成り立つようになるまでは楽ではなかったが、春日波子は日本的な感性を愛していたにもかかわらず異国の愛を選んだ。


 しかし、欲していた子供を流産してしまった上、経済的なあれこれの不運が二人を襲った。やがて医者となった心優しい夫と支え合って過ごした。自分の仕事として日本語を教えていた。


 蒼々と月日はアメリカに流れた。ある日、春日波子は仕事から引退しようとしてパソコンのスパムメールを最後に消そうとした。その中に誰かが波子さん、消さないで、と叫んでいるのを一瞬、その光を見た。旧友宮下朝子が春日波子を見つけ出したのだった。インターネットが古い友情を蘇らせた良き一例であった。


 その昔二人の間に話の種が尽きなかったように、灰色の髪になった今も次々に話が繋がっていったのは、人生論などと並行して現実の問題も絶えず起こるからである。年老いた母親がおり、夫たちは不治の病を得ていたし、自分たちにも老いの影が忍び寄っているのだ。全ては話し尽くせないとしてもそれでも充分な情報量を大切にメールに綴った。

***橘正宗 山際健太

 春日波子について上記の報告をしたのは橘正宗である。この立派な名前は宮城県の古い家に由来していた。橘正宗は骨張った面長中高の顔をして、実直さの表れた切れ長の目を持っていた。何事もしっかりゆっくり噛み締めて理解し、本当に自分のものとした。


 その人柄はたとえばこんな逸話にあらわれていた。東北なまりでいつも話した。高校生にアルバイトで家庭教師をしているんだけど、その彼女が俺に惚れてしまってなあ、卒業を待ってるんだ。へえ、かっこいい。俺ナ困ってるんだよ。どうしてさ。彼女可愛すぎて。え、そんなに可愛いの。そうだ、俺には勿体ないんだよ、あんな娘が俺を待ってるなんて気が重たくなるよ。ええ、そんな気がするの? 仲間の三人は笑ってしまった。


 あるいはある夜、下宿で一緒に勉強する事になった。宮下朝子の部屋だったのだが、最後まで残っていたのは橘正宗だった。二人は畳に座って、古い英語のテキストと格闘していた。理解に窮して、無言のままで居た。こんな時に人よりも集中できるのは橘正宗の方である。宮下朝子も頑張っていたのだが、何の気もなく咳払いをした。少し風邪気味で痰がからんで思いもかけぬ音になった。ごほごごほっ! ふわわぁっ! 二つ目の音声は橘正宗が驚いて跳び上がりながら叫んだものだった。あびっくりした、あびっくりした、と何度もくり返して大きな息を吐いて吸った。これには宮下朝子も驚いたがたちまち笑い崩れた。


 時はちょうど安保闘争と呼ばれる大学紛争に向かう時代であった。大学はゲバ棒をもちヘルメットをかぶった学生によって封鎖され、教師たちは団交という場に引きずり出されたのだった。誰もが留年したが、宮下朝子だけは無理を押して卒業までこぎ着け間もなく結婚した。橘正宗は重厚な人柄を買われて翌年に良い職を得た。その後例の彼女と結婚し、娘三人に恵まれた。


 時は彼にも蒼々と流れ、退職の時が来た。その時から彼の出す賀状に絵付きという変化が起こった。橘正宗は油絵を描くようになっていた。しかも女性像を。

橘正宗の描く不思議な女性像は、洋風でも和風でもなく、少しピカソ的でありながらデフォルメの限界に留まっている。



 彼についてここまで報告したのは、四人組の師事していた山際健太教授である。この小さな文集作成の時点で九十才をすぎてまだ研究を続けていた。身体的にも四十年間衰えたところも無く白髪は相変わらずだった。


 裕福な商家に生まれ、利発で人の良い愛されるべきいたずらっ子であったと言う。輝くような笑顔に恵まれ男らしい深い声音まで備わっていた。斬新な世界観に裏打ちされた研究と優しい人柄により、影響力を学生たちに与え、明るいオーラを放っていたのだ。しかし出世主義ではなく、しかもひっぱりだこであった。


 そのために、家庭がないがしろになったところがあった。理由のない妻の嫉妬には悩まされた。そんな行き違いから心が離れて行ったとき、二十才も若い女性が仕事場の仲間になったのである。それが優秀で個性的な塔野眉子であった。当時としては稀な帰国子女であった。


 おおっぴらに付き合いを公開した二人の主導権は眉子にあっただろうと誰にも見て取れた。山際健太は妻に家も財もすべて渡して離婚した。その後、カップルとしての生活は共働き的別居結婚と言う意味で進歩的であり、同時に信頼と理解と言う意味で理想的なものとなった。


 退官してからは、瀬戸内海に面したマンションに暮らし、若い研究者とともに記号論関係の辞典編纂のための原稿を書いて過ごしている。頭の体操のようなものだと言い、カラカラと笑った。


 宮下朝子と春日波子の間でメールの回路が可能になってから、三人で数十年ぶりに出会った事もあった。眉子は仕事が多忙でつきあえなかった。高いビルの屋上近くにあるレストランで昼食をともに摂りながら、窓の外に虹が二重にかかっているのを眺めた。山際健太の蒼々たる人生にかかる虹のようだった。しかしまだ仕事は終わっていないからネ、と彼はにこりとして古い弟子たちを見た。


***ネイサン

 仲間の一人が他の仲間の一人について、共に生きた頃の印象と情報と、それから四十年後の生活とをメールで順番に送り合ってみるというのは、アイデア係のような春日波子の発案であった。自分自身の事を報告するのは簡単であるし、実際に実行しているのだが、お互いの観点から見えている人物像を告示し合うのは、仲間であるからこその戯れである。ここにあと二人の人物について書きたいとみんなは思っていた。しかし現在のことについて誰にも情報がなかった。


 その一人、英会話担当のイギリス人講師ネイサンは妻のケイトと来日したばかりだった。やがてケイトは妊娠したのだが、物怖じせず、善意に溢れ、ますます生気に満ちて、学生たちを自宅に招いたりする習慣は変わらなかった。ジョージ ネイサンも負けず劣らず気さくな若い学者であった。夫婦は骨格も気性も似ていて天から選び合わされたカップルのように見えた。月満ちて女の子が生まれた。すべては充たされたかのように見えた。


 ケイトは軽い産後うつにかかった。ジョージ ネイサンは周囲と話し合いつつそれがおさまるのを待った。しかしケイトはその中にはまり込んで動けなくなった。ケイトの母親もやってきたが、ケイトはきっと自分でも心の変化に動転してしまったのだろう。無理をして大学に出かけ、授業を初めても、ジョージは気が気でない、途中で帰ってしまう事もあった。あの太陽のようなケイトはどこに行ったのか、誰にも信じ難い変化だった。ついにケイトは帰国した。ジョージの苦悩も一通りではなかった。

 ネイサン山際グループは間もなく卒業などを迎えほどけていった。日本を去ってからのネイサン夫婦について、河野孝三経由でわかったのは、ケイトはやがて回復したのだが子供はもう作らない、という噂であった。


 恐らく誰にも愛され、誰をも愛してネイサン夫婦が幸せに暮らしている事をみんなは信じている。



***柏由美子

 もう一人は、柏由美子である。学生のよく集まる学部自習室の秘書をしていたが、元来頭の良い気の効く働き者であった。さっぱりしたまっすぐな気性だったので「ネイサン山際柏」グループと言ってもいいくらいだった。次第に春日波子や宮下朝子は彼女の下宿に泊まり込んだり、気楽な友人関係になった。柏由美子は少し年上であったので、たかられていたとも言える。しかしお互いに心を許し合える友人であった。柏由美子はそのころ恋をしていた。相手が誰かは次第に知られるようになった。その彼も少し遠いグループ仲間となったのだが、間もなく二人は結婚した。新婚所帯にも彼らは遠慮なく入り込んだ。


 夫が留学する事になった時、由美子は妊娠初期であり、仕事の都合も考えてしばらく別れたのち、後を追って留学先に行くということになった。仲間はますます食事を貰いに行き、そのかわりに由美子ののろけ話を聞いてやり、彼女の夫の変わりにお腹をさすったりした。


 夏のある夜、みんなでそぞろ歩きしたとき、河原の叢に腰を下ろし、虫の音に囲まれて、落ちんばかりの星を眺めた。こうしてね、と由美子が話しだした。星を眺めているとね、彼はいつも私の背中を支えてくれたのよ、よく星を仰ぎ見る事が出来るようにって。みんなはヒヤヒヤ、と冷やかした。夜になったら彼もこの星や月をみて私のこと思ってるのよねえ、感無量だわ。みんなはまた当てられてヒヤヒヤ、と叫んだ。


 それから二十数年たったころ、宮下朝子は新聞の本の広告欄に目を留めた。週に一度中小出版社の出版広告が掲載される日であった。「難病に逝った娘に捧げる心の歌」というタイトル、その作者は柏由美子と書いてあった。まさか、と宮下朝子は彼女らしい呑気さで忘れる事にした。ありえない、あってほしくない、と思った。その後誰からも旧姓柏由美子の家族やその状況を知る報告は得られていない。


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