第7話 【ティエール】(1797年~1877年)

【ティエール】(1797年~1877年)

彼の生まれた97年は、ナポレオンのクーデター、あの「ブリュメール18日」があった2年前である。以降、彼の生きた80年は、大革命末期の共和政、ナポレオンの帝政、王政復古、第2共和政、ナポレオン3世の第2帝政、パリ・コミューンを経て、第3共和政の成立と、まさに激動期であった。彼はこの間、ジャーナリスト、歴史家、政治家として生きた。


彼は南フランスの港町マルセイユで生まれた。祖父はプロバンスの高等法院の弁護士で地方名士であった。しかし革命で財産を没収されてしまう。父親は堅実な祖父とは違って、じっとしていられない性格で、一旗あげることを夢見て商売もいろいろと変えた。弁舌さわやかで、船乗りらとも親しく、耳学問ではあったが知識欲も旺盛であった。弁舌や知識欲は父親の性格を受け継いだのかも知れない。

母方の方はキプロスから来たギリシャ商人で裕福であった。後に父親が家族を捨てて家を出て行ってしまうと、この母方で育てられた。1806年マルセイユのリセ(旧制中学高のような5年制)に入学する。身長は低く、容貌もいいとはいえなかったが、教師からは物わかりのいい頭の切れる少年として可愛がられた。また友人たちからは、現実主義的な考え方をする大人として一目おかれた。


エクスの大学法科に進み、卒業後に弁護士資格を取る。そしてパリに出て自由主義に傾倒し、ジャーナリストとなる。1814年の王政復古で成立していたブルボン朝の独裁的な政治を批判し、『フランス革命史』を著わして、一躍国民から名声を得た。彼の革命に対する立場は何より秩序派であった。混乱する共和政よりは立憲君主制を理想とした。「君臨すれども、統治せず」議会優先の考え方であった。しかし、時と状況によってはウイングを広げた。王党派に右旋回することも、共和派に左旋回をすることも厭わなかった。


1830年、七月革命でシャルル10世が追放されてブルボン朝が滅亡した時、オルレアン家のルイ・フィリップを国王に擁立して(七月王政)、自身は財務次官、内相、そして首相となって活躍した。しかし、ルイ・フィリップが徐々に議会を無視する態度に抗議すると、フィリップはティエールを更迭して、彼のライバル、フランソワ・ギゾー*を首相に据える。ギゾー内閣の硬直した専制支配体制は国民の反発を受け、農業恐慌の経済的混乱から反政府運動が激化する。この事態にルイ・フィリップはティエールを首相に戻すが時すでに遅く、ルイ・フィリップに国外逃亡を勧める結果に終わってしまう。


ティエールは二月革命でオルレアン朝が滅んだ後、第2共和政の臨時政府では社会主義の台頭を嫌って、ルイ・ナポレオンを支持する。政治家として活躍するが、まもなく対立して、フランスから追放されてしまう。1852年、ナポレオン3世から帰国を許される。帰国後はナポレオン3世から補佐役として招きを受けたが、ティエールはこれを拒絶して政界からの引退を表明し、史書の著作に専念する。1869年から政界に復帰し、第3党の党首となる。ナポレオン3世の普仏戦争には、勝つ見込みが薄いと反対する。このことが、第2帝政崩壊後の国防政府の行政長官に任じられることに繋がる。


ベルサイユに政府を移したティエールは、軍隊と財政の再建に取りかかる。コミューンの間は24時間のうち、20時間は執務に費やしたと、彼は後に語っている。何より急いだのが軍隊の再建であった。断固、国家に刃向ったパリを屈服させねばならなかった。


ティエールは用いる手段の選択にはいかなる躊躇もしない。合法、非合法を問わずあらゆる手段を用いた。プロシャのビスマルクに交渉して、捕虜を返してもらい、戦力を増強した。ボナバルト時代の将軍も入れ替え、軍隊の再建に全力を集中させた。

パリに対してはスパイ活動をする。第1軍団総司令官ドンブロウスキーにパリの城門を開けて軍隊の入城を助ける勧誘をする。これを拒否されると、彼の裏切りの噂を広める。それで十分だった。ドンブロウスキーの最後に言った言葉は「俺は裏切っていない」であった。


ティエールはフランス革命の研究者である。何より革命の本質を知っていた。革命を起こした側にはティエールのような政治的天才に対抗し得る者を持ちえなかった。

ただ、敗北の中で、レーニンに次のことを教えることは出来た。すなわち、蜂起は一つの技術であり、政治は他の手段による戦争の継続だということ、いいかえると、政治は―――与えられた条件、敵が今だ強力であると云う条件のもとでは―――、狡知、妥協、厳しさと同時に力強さ、戦術、戦略を前提とすることである。


コミューンの鎮圧後、ティエールは第3共和制の初代大統領に任じられた。議会は依然王党派が多数を占めていたが、王党派内もブルボン派とオルレアン派に分裂していた。ティエールは王党派と急進共和派の中にあって、穏健な共和制をめざしたが、多数を占める王党派によって、大統領職を解任される。

その後はパリ・コンミューンを鎮圧したマクマオン元帥が大統領に就任するも、もはや国民は王政を支持することはなく、王党派は選挙で大敗し、消滅する。パリ・コンミューンの『断固として共和政』の精神は生かされたのである。大革命以来、ブルジョア―ジーが切ることができなかった王政という尻尾がついに断ち切られたのである。


*国防政府の国民議会

王党派(多数派)

反動的なブルボン王朝派

立憲王政主義のオルレアン派

ボナバルト派⇒勢力をなくしブルボン王朝派につく


穏健共和派

急進共和派 ガンベッタ⇒徹底抗戦を唱えた。しかしコンミューンも良しとしなかった。気球で南仏に逃れ南仏同盟を組織した。


ティエールは本来オルレアン派であったが、議会の統一を保つため、王政か共和政かは講和後に決めるとした。オルレアン派と穏健共和派の連合でかじ取りを考えた。

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