第3話 ルイ・ナポレオンの第2帝政

(5) 第2帝政

ナポレオン3世の治世は、共和主義者、社会主義者の激しい弾圧で始まった。やがて落ち着きを取りもどしたが、言論・出版の自由などが規制され、権威主義的手法による統治が行われた1852年から1860年までを「権威帝政」期と呼ぶ。


しかし1860年代に入ると、イギリスと結んだ自由貿易協定のためイギリスの工業製品が流入し、国内の資本家からの反発を招いた。メキシコ出兵も失敗に終わり、外征を通じた威光高揚にも陰りが見えるようになった。こうした中、権威主義的手法を維持することが困難となり、世論の支持をとりつけるためにも言論・出版の自由を緩和したり、議会への大幅な譲歩をみせるなど、自由主義的な政策へと転換をみせた。これを「自由帝政期」と呼ぶ。


大ナポレオンの威光を背景に登場した彼は、外政において手を広げ過ぎた。インドシナに、中国に、スエズ運河に、イタリアに、クリミアに、そしてメキシコに、フランス人と兵士が進出して、栄光と挫折をもたらした。そしてプロシャとの戦争が致命傷となった。


この第2帝政期は民主政治面では後退期であったが、内政・経済面では飛躍期であった。フランスの産業革命が完成の段階に達した時期であり、ナポレオン3世はそれに対応して、保護貿易主義から自由貿易主義に転換し、産業資本家の利益に沿って鉄道の敷設などの産業育成策を進めた。

カリフォルニア(1848年)、オーストラリア(1851年)と相次いだ金鉱発見によってフランスにも金貨が流入し、フランス銀行の金貨保有量は48年から70年の間に8倍に増加し、貨幣の増発が銀行システムの整備を促し、近代銀行制度が確立した。

フランスの産業社会の成立を誇示するために、1855年と64年の二回、ナポレオン3世はパリ万国博覧会を開催している。


現在のパリが出来たのはこの時期である。ナポレオン3世は、セーヌ県知事オスマンに命じてパリの改造を行わせた。1853年~1870年までの間に三次にわたって行われ、中世以来の古い無秩序な市街は一変し、放射状のプランをもとにした広い道路によって区画された計画的な大都市に変貌した。

また第二帝政が始まった翌年の1852年にはブシコーという夫妻がパリにデパート(百貨店)という形態の新しい商業施設「ボン=マルシェ」を開店、それが大成功してパリは近代的なブルジョワ都市として世界の流行の発信地となった。


当時のパリは網の目のような路地が多く、市民はバリケードを築いて軍隊の速やかな移動を封じた。その結果、鎮圧のための戦闘が長引くこととなる。パリの改造計画は軍事面から考えられた面が大きい。


【労働運動の活発化】

産業は一定の発展をみたが、農業は依然として古い体質を保持し、農民の待遇改善は進展しなかった。また都市の工場労働者が急増し、その待遇改善が問題となり、労働運動が1840年代の活況を取り戻した。ナポレオン3世は、団結権を禁止したル=シャプリエ法の廃止、裁判所の監視下におかれたストライキ権の創設(64年)などの改良的政策を打ち出した。

1864年には国際労働者協会(第1インターナショナル)が生まれ、フランスにもその支部がつくられた。それをうけて労働運動が活発となり、組合結成やストライキが続いたが、1870年には炭鉱争議に軍隊が介入し死者が出るなど、対立は次第に鮮明になっていった。

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