朝靄の巫女

 それは延寿の年のある日の出来事。

 櫻花神社の神主、桜瀬静虎せいこが毎日のお勤めである穀物と水と祝詞を神に捧げる日供祭にっくさいを終えて、朝靄の立ち上る境内を散歩していると、鳥居の近くの人影に気づいた。

 その人影は鳥居の前をくぐるかくぐらぬか躊躇う様子で、しばらくそうした後に鳥居から立ち去ろうとした。


「そこの人、どうしました」


 静虎の声に呼び止められて、朝靄の人影は立ち止まる。


「いえ……誰かに呼ばれたような気がして。気がついたら、鳥居の前に立っていました」


 弱々しくも澄んだ女性の声。

 朝靄に浮かび上がる亜麻色の長い髪。

 白衣はくえ緋袴ひばかまの服装から、何処かのやしろの巫女である事は静虎にも分かった。


「どちらから、いらっしゃったのですか?」


 神主の質問に、亜麻色の髪の巫女は静かに首を横に振った。


「多分、西の方から……記憶が曖昧で、よく覚えていません」


 愁いを帯びた切れ長の目に、整った鼻先。

 なんて美しい人なのだろうと、静虎はその容姿に魅入られる。

 手には白鞘に収めた小太刀を握っていたため、恐らく花守なのだろう。


「記憶が……花守のかたですか?名前の方は覚えてますか?」


 朝靄に立つ巫女への好奇心が高まり、質問責めにしてしまう。

 静虎ははやる気持ちを抑えつつ、彼女が答えるのをじっと待った。


「はい。花守ですが、よくご存知で。名前は……覚えています。咲夜さよと申します」

「咲夜さん。良いお名前だ」


 名字を語らないのは、何か事情があるのだろう。


「櫻花神社は花守を輩出している家系です。私はあまり霊力が高くなく、花守ではありませんが」


 静虎は頭をかいて苦笑いしたが、咲夜と名乗る巫女は表情を曇らせ、鳥居の奥をじっと見つめ始めた。


「やはり……私は呼ばれたのですね」


 決意を固めるかのように目を瞑ったあと、暫くしてから鳥居を見据えて一礼すると、そこを潜った。

 静虎の元へとやってきた咲夜は、深く頭を下げてお辞儀をしたあと、彼を愁いを帯びた目で見つめる。


「私をここに置いて頂けませんか。私は落ち巫女……帰る場所がありません」

「……分かりました。どのような事情なのかは深く詮索しません。櫻花神社は咲夜さんをお迎えしましょう」


 神主の言葉に、亜麻色の髪の巫女は安堵の息を漏らすと、わずかに微笑んだ。


 櫻花神社に来たばかりの頃の咲夜は、花守のお役目に戻る事にあまり乗り気では無かったが、桜路町区は治安が良くほとんど巫女としてのお勤めに従事できたので、その様な愁いも次第に薄れていった。

 一ヶ月も経てば、時折笑顔も見せるようになり、参拝者とも言葉を交わして親睦を深めていった。

 十六歳にして咲夜は麗しく、お淑やかで大人びた雰囲気を持ち、神社を訪れる氏子達は勝手に静虎殿に素晴らしい嫁がやってきたとはやし立てた。


「こらこら。勝手に話を進めないで下さい」


 井戸端会議をしている氏子のおば様達に、困った顔をする静虎。


「何言ってるんですか、こんな美人さんが来てくれたのに。あまりうかうかしていると、夕京五家の殿方に娶られてしまいますよ」


 うぐ。

 言葉を詰まらせる静虎。

 櫻花神社は花守の参拝者も少なくない。

 花霞邸に暮らす花守が、亜麻色の髪の巫女の噂をすれば、たちまちその噂が広がる事は容易に想像できた。

 咲夜が花守のお勤めを果たす姿をまだ見たことは無いものの、合間を見て境内の隅で剣術の練習をする姿は知っている。

 もしかすると、花守の霊脈としても優れた素質を持っているのでは?

 その様に、静虎でも分かる程の雰囲気を咲夜は持っていた。


「そういう事があれば私も悔しいですが、咲夜さんのお気持ちもありますし……うおおお」


 氏子達の前で頭を抱える神主の姿を見かけた咲夜は、心配になって駆け寄ってきた。


「静虎殿、大丈夫ですか?気分が優れないのでしたら、お水を汲んで来ます」


 にやにやと笑う氏子達の姿に首を傾げつつも、神主の様子を気遣い顔を近づけた。


「ああ!?いえ、これはその……咲夜さん!」


 顔を覗かれて居ても立っても居られなくなり、亜麻色の髪の巫女の手をしっかりと握って立ち上がる。


「は。はい。静虎殿、如何なされました?」


 驚いてきょとりとする咲夜の姿が愛らしくて言葉に詰まったが、唾を呑み込んで静虎は彼女を見詰めた。


「あなたを桜瀬家の家族として、お迎えしたいです。幸せにしますので、ついてきて欲しい」

「……」


 まだ状況が飲み込めて居ないのか、亜麻色の巫女はただじっと静虎を見詰め返す。


「私を……ですか。桜瀬の家に傷をつけるよ様な事になりませんでしょうか?」

「ありゃ、知らないのかい?神主さんはあんたにベタ惚れなんだよ。断られて落ち込む事はあっても、受けて迷惑なんてあり得ないさ」


 氏子のおば様に割り込まれて、また言葉を失う静虎。


「ちょっと!今、咲夜さんと大事なお話をしているのですから、茶々を入れないで下さい!」

「あらやだ!お邪魔虫だったかね。それじゃあ退散しようか。また来るよ、櫻花の神主さん」


 おば様達はわいわい言いながら、境内を後にした。

 辺りが落ち着いた後、仕切り直しとばかりに深呼吸をして静虎は咲夜と見つめ合った。


「一目惚れでした。朝靄の鳥居の前に立つあなたに」

「はい」


 亜麻色の髪の巫女の返事は、是か非かどちらなのだろうと不安になりながらも語りを続けた。


「もし、呼ばれた声が咲耶姫さくやひめであれば、櫻花神社に招かれたのですから、遠慮は必要ありません」

「はい」


 短い返事に、不安が募る。

 もしかして、ただの片思いなのでは。

 否定はされていないものの、咲夜の気持ちが知りたくて静虎は焦り始めていた。


「あの、その、好きなんです。結婚して貰えませんか」


 縋るような目で見つめると、咲夜は目を細めて微笑んだ。

 握れた手を少しだけ強く握り返す。


「はい。謹んでお受けいたします。私が幸せになれる資格が、もしもあるなら……幸せにして下さい」


 静虎の告白から翌日。

 櫻花神社において、桜瀬静虎と咲夜の式が厳かに執り行われた。

 桜瀬家の親族や桜路街区の氏子達が祝福し、咲夜は晴れて桜瀬の姓を名乗る事となった。


 翌年。

 咲夜は静虎との間に子供を授かる。

 その赤ん坊は女の子で、母親と同じ亜麻色の髪をしていた。


「静虎さん。この子の名前を私に付けさせて貰えませんか?」


 籠の中で眠る我が子の姿を、目を細めて見守る咲夜のそばで、静虎は静かに頷いた。


「分かった。咲夜に任せよう」

「ありがとうございます」


 亜麻色の髪の巫女は頭を下げると、近くの引き出しから紙と筆を取り出し、名前を書き始めた。


「櫻花神社のご縁のお陰で、この子は産まれました。綺麗な亜麻色の髪に因んで、名前は亜樹……と」

「素敵な名前だと思うよ。咲夜、君に似て美しい子に育ってくれるに違いない」


 それから亜樹は健やかに育ち、三年の歳月が経った。

 その日は亜樹の誕生日を祝うため、咲夜はお祝いの赤飯を炊いた。

 氏子達からの差し入れの魚や果物等も頂き、昼にはご馳走を家族で食べた。

 日が傾き、夕刻が迫ろうとした頃。

 桜瀬咲夜は妙な胸騒ぎがして、亜樹を社務所の部屋で布団に寝かせた後、鳥居のある入り口までやって来た。


「何かの声がする……これは、瘴気!」


 鳥居の向こうから近づいてくる巨大な人影。

 それは昔話に出てくるような角の生えた鬼の姿をした霊魔だった。


「オウセノ……ハナモリヲ……クラウ」


 口から瘴気を吐き出しながら、鳥居へ近づく鬼。

 早く、静虎に知らせねば。

 咲夜は社務所で眠っていた亜樹を抱えて上げると、静虎のいる本堂へと駆け出すのだった。

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