もこもこの猫
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もこもこの猫
猫は、死ぬ前に姿を消すという。
飼い主の前からいなくなるのだ。
私が猫好きなのは言うまでもない。
これまでに何匹もの猫が、私の前から姿を消した。
ただ、幼少の頃に一匹だけ、彼女だけは私の前からいなくならなかった。
名は、みぞれ。
灰色の毛をしている。
冬毛がなかなか抜けずに、夏の間でもずっともこもこしていたのを覚えている。
非常に臆病な性格で、飼い主である私にも、なかなか懐かないのだ。
初めて懐いてくれたときの嬉しさは、今でも覚えている。
みぞれは、決して外に出ることはなかった。
ずっと家の押し入れの中で、じっとしている。
彼女は臆病だからだ。
彼女の息子の、クロは、やんちゃだった。何度も何度も外に出かけては、毎回傷を作って帰ってくるのが日課だった。
それなのに、みぞれは決して外に出ることはなかった。
ただ、彼が家に帰ってきたときに、そっと寄り添っているだけだった。
彼女は、爪とぎもあまりしなかった。
だから、家じゅうにできている傷跡は、すべてクロや他の猫たちがつけたものだった。
故に、彼女の爪は私が切らなければいけなかった。
だが、爪切りをする際の彼女はとてもおとなしかった。
普通だったら、暴れて大変なのに。
トイレも食事も、見られているとできない猫だった。私にさえも。
だから、いつも彼女のお気に入りの押し入れの中に、二つともみぞれ専用で皿を設置していた。
――私が中学生のとき、クロは死んだ。
当時三歳で、車にはねられて死んでいた。
私は非常に悲しくて、一日だけ学校を休んだのを覚えている。
もこもこのみぞれの体に顔をうずめては、涙で濡らした。
そのときでも、みぞれは、ソワソワするわけでもなく、夜鳴きするわけでもなく、激昂して暴れることもしなかった。
もしかしたら、クロが死んだことを知らないか、それとも何とも思っていなかったのかもしれない。
だけど、彼女はいつも通りに、押し入れの奥でじっとしているだけだった。
私とみぞれの一番大きな思い出は、その二年後。
私が中学三年生のときだった。
今思い出しても、苛立つ思い出だ。
決して、彼女が我が怒りの対象ではない。
当時、私は受験に合格し、悠々自適な春休みを過ごしていた。
そんな中、自分の家にとある友が来た。仮にT君としよう。
彼は、皆から嫌われている存在であった。
空気が読めないから、反感を買いやすい性格でもある。
しかし、対照的に私は、空気をひたすらに読む人間であった。
故に、私は友は多かったが、それは表面上のものが多かった。
彼もその一人である。
何の連絡もせずに、家に遊びに来たときは、流石に不機嫌になった。
だが、関係を崩すまいと、今となっては無駄と思えるような努力をしていたと思う。たった一言、「嫌い」と言ってしまえば苦しみから解放されるというのに。
中坊など、ましてやT君ならすぐに立ち直るはずなのに。
「猫、買ってんだ?」
「うん。二年くらい前に、一匹は死んじゃったけど」
当時の私は、三匹猫を飼っていた。
まず、みぞれ。
それから、三毛猫のレオ、白猫のあずき。
レオとあずきは、活発な性格で、人懐っこい。
愛想がよいというか、ずるがしこいというか、とにかく人に懐いておけば、いいように扱われることを知っていた。
だけど、みぞれだけは、頑なに我々人間からの距離を取っていた。物理的にも。
「何匹? これで全部?」
「……いや、あともう一匹いるよ」
「ふぅん。あのさ、らら(仮名)ってムカつかね?」
「……そうだね」
いきなり人の家に上がり込んで、人の悪口を言い始める。
そんなところが人を遠ざけているというのに、彼はひたすらに繰り返した。
結局彼はクラスで孤立し、私だけによく絡んでくるようになっていた。
もちろん、私は悪口は言いたくなかった。善人ぶっているわけではなく、ただ単純に人に嫌われやすくなることを知っていたから。
「気持ち悪いよな、あいつ。そこまで可愛くないのに、他の女子に『ブス』とか言っていじめてるらしいぜ?」
「……それは良くないねぇ」
私の居た中学は、県内一人数が多かったから、そりゃあ変な奴もいた。
いじめも普通にあったが、私は終始傍観者であり続けた。
いじめを止めるような善人じゃなかったし。
かといって直接悪口を言ったり、無視したりするような悪人でもなかった。
中坊の私にとっては、猫がすべてだったから。
「……くぅ、にゃ」
特徴的な泣き声が聞こえたと思ったら、珍しくみぞれだった。
弱々しい声で、そっと鳴く。
「――なんだ、その猫、気持ち悪いな」
その言葉に、私は思わず舌打ちした。
――みぞれには、両眼が無かった。
生まれつき、だ。
叔母から譲り受けた猫だったから、詳しいことは分からない。
ずっと瞳を閉じていて、そこは少しばかり凹みが出来ていた。外見からでも、目がないことくらい分かる。
彼女が臆病なのは、そのせいでもある。
だけど、私は、それでも愛した。だって、もこもこだもの。
けれど、目がないだけで「気持ち悪い」と発言したT君への怒りが、収まらなくなった。ららを気持ち悪いと言っても、何も感じなかったのに。
このときに私は、思った以上に自分は嫌な奴なんだな、と思った。
しかし、それはすぐにどうでも良くなる。
「ふざけんなよ、お前?」
少し声色を変えて、低く唸って見せた。
この瞬間から、T君の声量が大きくなった。
「は、何? 気持ち悪いから気持ち悪いって言っただけじゃん!」
「お前さぁ、前々から思ってたんだけど、空気読めないよな」
「はぁ?」
「普通さ、人の飼ってる猫に、気持ち悪い、とか言うか?」
「は? 意味わかんない!」
「常識が無いんだよって言ってんだよ」
「は? 何言っちゃてるんですか?」
当時も、今も、ずっと思うことなのだが、T君とは会話が成立しなかった。
T君が一方的に話して、私が相槌を打っていることが多かった気がする。
ここまで私から意見を言ったのは、これが初めてだった。
T君は私に殴りかかって来た。
けれど、三年間帰宅部であった彼の筋力は、三年間テニス部であった私の筋力に、かなうはずがなかった。
当然、殴り返し、泣かせた。
罵詈雑言をまき散らされ、結局彼は帰っていった。
そのあと、家に電話があって、親と一緒に謝りに行った。
けれど、今でも間違ったことはしていないと思う。
当然親父には殴られたけど。
もこもこのみぞれを触っていれば、悲しいことも忘れられた。
けれど、もう、お別れは近かった。
私が高校に入学して、間もないとき。桜が青くなってきたころだった。
その瞬間は、何の前触れもなく、自然に。
私に気持ちよさそうに撫でられていたみぞれ。
彼女は、春の陽光の中、静かに眠った。私の腕の中で。
――もう、彼女が起きることはなかった。
猫は死んだあと、というか動物全般がそうだが、糞尿が漏れる。
だけど、みぞれからは何も出なかった。
私はそれを不思議に思ったが、直ぐに理由に気が付く。
押し入れに設置していたトイレ、そして皿に答えがあった。
トイレには、多量の尿、それから下痢糞があった。
皿は、朝に入れたときと全く同じ量のカリカリ、水。
彼らは何のモノ言うこともなく、ただただそこに居た。
今思えば、それが彼女なりの、「姿を消す」ことだったのかもしれない。
せめて、私の迷惑にならないように、と。
泣いた。
声を上げて泣いた。
クロが死んだときより、悲しかった。
けれど、私は学校を休まなかった。
そのとき、私は強くなったのだと感じた。
もう、あのもこもこには触れることが出来ない。
時々、無性に悲しくなる。
今年の盆もまた、私はみぞれの墓に参ろうと思う。
もこもこの猫 BNiTwj8cRA3j @puni1111111
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