α-6. 検証と結果

 その日、わたしは寝込んでしまった。

 わけもなく情けない気分になっちゃう。

 全身にだるい感覚があったものの、切羽詰った深刻さはない。きっと、風邪だと思う。

 眠くもなかった。

 ただ横になり、濁った頭のままで天井を眺めていた。

 あーあ……。

 ……そういえば、恋の病って言葉がある。

 よく聞く言葉。

 恋は病気なんだろうか。

 胸がドキドキして熱に浮かされるから、そういうの?

 いやいや、自分ではどうにもできないからこその表現かな。

 でも……病にかかるのはだいたい不摂生なときだから、それなら恋の病にかかるのは、心の均衡を欠いているってことなんだろうか。

 だったら、恋したいと願うのは、病気になりたいと思うようなもので、おかしい話かもしれない。

 おかしい、か。

「……なんで……」

 天井に呟きかけてみる。

「なんで……かな」

 もちろん、答えは返ってこない。

 恋に関する考察のように、袋小路だ。

 吐いた溜息が、ゆっくり落下してきて、顔に降りかかる。

 昨日のことがぐるんぐるんと頭を巡るのは、きっと風邪のせい。

 ……おかしいのは、多分、わたしの方か。

 滑稽な意味でも、おかしい。

 本当に、笑える話かもしれない。

「あはは……」

 笑い声を棒読みして、寝返りを打つ。

 さっきからこんなことの繰り返しばかりだ。

 こんな風にベッドでもぞもぞしていても、良くなるとは到底思えなかった。ので、いい加減……あまり本調子ではなくても、ひとまず体を起こそうとした。

 そうしたら。

 とんとんと、ノックの音。

「……はーい」

「もしもーし。ウチだよ。お見舞い来たよ」

 βの声だった。

 少しの、逡巡。

 まごついてる間にドアが開く。

「あ。身体起こして大丈夫なの?」

「う、うん……もともとそんなに、具合悪いってわけでもなかったし……」

「でもすごく顔色悪いよ」

「え、そう……?」

 思わず頬を触った。

 本当にそんな不健康な顔をしてるかな。

 もしそうなら、それは体調だけが原因じゃないかもしれない。

「ダメだよー。自己診断はアテにならないんだから。特に病気してると、感覚も狂っちゃうしね」

「……うん」

 狂っちゃう、という言葉にささやかな怯えを感じつつ、わたしは頷いた。

 確かに、何だか気弱すぎるかも。

「いろいろ買ってきたよ」

 ビニール袋を開きながら、βがベッドの端に腰掛けた。

「スポーツドリンクに、食べやすそうなものに、貼ると冷えるやつに、あと新しく出てたお菓子と漫画」

「最後の方は、βが買いたかっただけじゃない?」

「実はね! 続きが気になっててさー」

「……飲み物ちょうだい」

「ほいほい」

「ありがとう」

 わざわざ蓋を開けて渡してくれた。

 口に含んで、ゆっくりと飲む。レモン味。

 はぁ……染み込むう。

「冷えるの貼る?」

「ううん。熱はないよ」

「えー。一応もう一度測っておきなよ。せっかく買ってきたんだから!」

「貼りたいだけじゃ……」

 自分勝手だなぁ。

 そう思いながらも、しぶしぶ体温計を腋に挟んだ。

「あれ……そういえば玄関。カギかかってたんじゃない?」

 わたしの両親は、日中家にいない。

「ああ、うん。αのお母さんに、今朝連絡受けて。隠しカギの場所教えてくれたの」

「お母さんはもう。過保護だね……」

「まあまあ、愛されてるってことで」

 笑って手をひらひらさせてから、袋から漫画を取り出すβ。

 ビニールを外して、さっそく読み始めた。

 まつ毛が揺れて、瞳がエンターテイメントを追いかける。

 その横顔を、わたしは何となく眺めていた。昨日の言葉や今日考えていたことが頭の中を駆け回るけれど、唇にまでは降りてこない。訊いてみたいことがあっても、訊けないままに。

 体温計のアラーム。

「……36度の、2分。だから、平熱だよ」

「ん。よかった。じゃ、冷えるのは要らなかったねー」

「まぁ、あって困るものじゃないし」

「これさ、ペットボトルに貼ったら冷えるのかな?」

「どれだけ貼りたいの。……やってみたことないけれど、そんな劇的には冷えないと思うよ……ていうかもったいないよ」

「そりゃそうか」

 でもチャンスがあったらやってみよう、とβが笑う。

 その笑顔を見ながら、わたしは昨日のことを思い出す。

 また思い出してしまった。

「……どう、して……」

「ん」

「ううん、何でもない」

 慌てて訂正。

 ついつい漏らしてしまった疑問は、あまりにも断片的だった。

「……そう?」

 怪訝そうにしながら、βは手にした漫画をまた開く。

 わたしも、スポーツドリンクを再び味わう。

 時計の音。

 時間が、カタツムリみたいにゆっくりと過ぎていく。

 這うように。

 こうやって、何もかもが、うやむやになればいいのに。

 ――どうして、βはあんなことを言ったの?

 さっき訊きかけたこと。でも、訊いても困らせてしまうだけだろう。

 わたしだって、どんな答えが返ってくるかを考えると、怖い。

 だから、とても訊けない。

 手にしたペットボトルを見つめて、そんな風にまたぐるぐるしている。

「気になるなら」

 と、唐突に。

「気になることがあるなら言った方がいい」

 目線は漫画に向けたまま、βが言った。

「溜めこむのは辛いよ。ウチは、αを追いつめたくない」

「でも……」

「うまく返せるかわからないけど……でも、そんな顔して溜めこまれるよりは、ずっといいよ。少なくともウチは、そう思う」

「…………じゃあ」

 言う。

 と、ため息みたいに消え入りそうな声で、わたしは決心した。

 ぐっと手を握って、βの方を見て。

「どうして……βはあんなことを言ったの?」

「……あんなこと?」

「昨日の……帰り際の……」

「昨日の……ね」

 昨日。

 日曜日。

 δさんから頂いたチケットで、わたし達はありがたく遊ぶことにした。

 それ自体はいい経験だったと思う。良い思い出になった。大した波乱もなかったし。ショーも楽しめた。ついてたお食事もおいしかった。

 でも、それよりも鮮烈に、強烈に、わたしを揺るがすことがあった。

 帰り道の話だ。

 どういう話の流れだったかは、覚えてない。

 そのあとのことで忘れてしまったのか……そもそも、脈絡はあんまりなかったのかもしれない。

「実はね」

 小さく前置きをして。

 ぽそりと、つぶやくようにβは言った。

「好きだよ、αのこと」

 冗談なのだと思った。

 けれど、いい返しは出てこなかった。

 せめてここで、笑って流せればよかった。

「恋してる的な意味で。真面目に」

 そう、付け加えられた。

 冗談にはできなかった。

 わたしは、まごついた。

 理解が、遅れた。

「やっと言えたわ」

 いつもよりも、もっと嬉しそうにβは微笑んだ。

 好きな素敵な笑顔だったはずなのに、そう感じられるだけの余裕はなかった。

「じゃあね。また明日」

 βは軽く手を振って、帰って行った。

 楽しげに。

 わたしは取り残されてしまった気分だった。

 ただの友達でいたかったのに。

 取り残された気分は、心地よいとは全くいえなくて……気分が悪くなって。あげくの果てに、今日具合が悪くなってしまったのかもしれない。

 βが目の前にいるのに、今もまだ、取り残された気分のままなんだ。

 どうして、あんなことを言ったの?

 どうしたら、いいんだろう。

「どうしてって、それは……んー……」

 やっぱり困ったように首を傾げてから、βはコミックを閉じて、横に置いた。

「……その。恋はきっかけってδさんが言ってたじゃん? そのきっかけを、αはたくさんくれたよ。今までにね」

「……」

「でも……ウチは、それをずっと逃してた。だから、昨日は……思い切ってみようかな、って」

「そうじゃ、なくて……」

「……ん」

「そういうのじゃなくて……それも、大事だけど……」

「うん……」

「わたしは……、βは……」

 もどかしい。

 口が無意味に、もごもごとする。

 爪を突き立てて、ペットボトルを握りしめる。

 わたしのどこが好きなの? わたしなんかの何がいいの? わたしも、βのことは好きだけれど。そういう感情なのかわからない。友達じゃダメなの? 恋なんて分からないよ。いくら考えても答えは出ない。どうしてβは恋ができるの?

 恋を理解しているのなら。

 どうか教えてほしい。

 たくさんの疑問が脳内で交差し、形にならない思いが充満する。

 果てにどうにか吐き出せたのは、たったの一文だった。

 涙を滲ませるみたいに、やっと、その言葉を口にした。


「……わたしは、なんだよ……」


 βは少しだけ、眉をひそめた。

 目をかすかに細め、何か言おうとして。

 口を結んでから。

「それでも、いいよ」

 と頷いた。

 顔をあげて、笑顔を見せて。

「それでもいいよ」

 と、もう一度。今度は、はっきり繰り返した。

 ――本気で言ってるの?

 そう思わずにはいられない。

「どうして、わたしなんかを好きになったの」

 往生際が悪い。

 理解がのろい。

 ほんと、情けない。

 こんなにも情けないわたしなんだよ。

 恋をしたことがない。

 恋のことがわからない。

 そのことで、ずっと悩んでいる。

 他愛もない、できそこないなんだよ。

「……変だよ」

「……そうかな」

「おかしいよ……」

「ウチはね。例えば、αの思いやりのあるところが好き」

「……」

「優しいところが素敵だと思う。センスが個性的なのも好きだよ。何より、一緒にいて、一番楽しいから。ずっとそばにいたい。αもそう思ってくれてたら、嬉しい。これも、変なことかな……?」

「…………」

 わたしはそんなに素晴らしい人間じゃない。

 他の人とは違う、コンプレックスのカタマリだ。

 けれどもβは真っ直ぐだった。

 その真っ直ぐさを、できれば受け止めたかった。

 なのにできない。

 ……おかしいのはやっぱり、わたしの方か。

「ずるいよ。βは簡単に恋をして……」

 なんてひねくれてるんだろう。

 的外れな文句なのはわかってる。

「わたしは、恋のことなんかわからない。なんでみんなできるのかわからない。ずっと悩んでいるのに、理解が追い付かない。なのに、……そんな風に。好きだとか言われても。何も返せない。受け止められないよ」

 たどたどしく、止めどなく。

 言い訳がましく、みっともなく。

 消えてしまいたくなるような告白をする。

 前向きな告白に対して、真逆のことをぶつける。

 ずっと劣等感を抱いているのに。

 簡単にそれを飛び越えてしまう彼女が……、世の中のみんなが、羨ましくて妬ましい。

 眩しくて。目を背けることしかできない。

 でもβは、ゆるりと、かぶりを振った。

「ウチも、恋のことなんかわからないよ。これが友情なのか恋慕なのかもわかんない」

「え?」

「ただ、想いを伝えたかっただけ」

「……それが、恋なんじゃ……?」

「定義なんか必要ないと思うよ」

 必要ない。

 と、言われた。

「他の人と同じ感情を抱かなきゃいけない――なんてことは、ないでしょ。本当に他の人が同じ気持ちかなんて、確かめようもないしね。だから」

 だから。

 胸を張ればいいんじゃないかな。

 ウチがαを好きになっちゃったみたいに。

 そうはにかんで見せるβ。

「自分で決めればいいんだよ」

「自分で……」

「恋心なんて、自分で決めていいんだよ」

 自分で、決める?

 何それ。

 何を、そんな、簡単に。

 そんなので、いいの……?

 とっさに抱いた懐疑と猜疑は、舌に乗ることのないまま。

 やがて。

 ふっと。

 溶けて気化して、身体から抜けていった。

 引っかかっていたものが、ほどけた気がした。

 気のせいだったとしても、そう感じてしまったのだから、仕方ない。

 どうしてだろう。

 まるで、ようやく自分を見つけたみたいだった。

「いいじゃん」

 ふいに、βが抱きしめてきた。

「また少し、αのことが知れて嬉しいよ」

「……言ってて恥ずかしくない?」

「今日はそういう日。毒皿毒皿」

「あはは、ぶっちゃけすぎ」

 思わず笑っちゃった。

 昨日から初めてかもしれない。

「……だったら、もうちょっと、教えてあげる」

「ん、何?」

「わたしも。βの笑顔はずっと大好きだったよ」

 強く、抱きしめ返してみた。

 ずっと探してた確かな実感が、そこには在った。

 ……などとお茶を濁して、モノローグを括ろう。

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