α-4. 授業後の考察

 恋に恋する乙女。

 自分を乙女と呼ぶのは少しばかり抵抗があるけれども、今のわたしはもしかしてそういう状況なのだろうか。『愛しの誰か』ではなく、『恋そのもの』のことが頭にこびりついて離れないし、そのことについて考えてばかりいて、それが恋なのだとしたら、あまりに言葉の通りだ。でも、もしそうなら、既に自分は『恋してる状況』、『恋を経験してる状態』なわけで……つまり『恋とは何か』という問いにも答えちゃってて、『恋をしたことがない』という悩みも解決しちゃってて……頭がぐるぐるしてきてしまう。トートロジー染みている。尻尾を追いかけるわんこの気分だ。

 少なくとも、全然トキメキなんて感じてない。

 だから多分、これは恋じゃあないんだろう。

 恋とはきっと、もっとこう楽しそうで、微笑みにあふれていて、例えばそう――目の前のカップルのような感じ――なのだろう。

 あーあ。

 楽しそうだなぁ。

 小さいため息と一緒に、授業終了のチャイム。

 またどうでもいいことを考えているうちに、終わってしまった。

 というか。

 月曜日、必修科目の授業中に、目の前でカップルがいちゃついていた。

「…………」

 何となく二人が教室を出ていくのを見送ってから、わたしは広がった筆記用具を片づけようと、机の方に意識を戻す。その時、隣に座っていた子がぼそりと呟くのが聞こえた。

「ったく、うざい……」

 オメガ、ω君にしておこうか。つっけんどんな彼だから、あえて可愛い文字にしておこう。

 ω君は、続けてぼやく。

「ヨソでやってくれっつーの……学習の邪魔になるったらありゃしない……下らない下らない……。くそ、ここ写せなかったじゃないか……」

 どうやらさっきのカップルが角度的に邪魔になって、ω君の位置からは見えない板書があったらしい。苛立たしそうに舌打ちをしながら、シャープペンシルの先端をうろうろさせている。前後の式から、間の空白を埋めようとしているようだった。

 彼は、稀に見るほど真面目な生徒なのだ。

「あの」

 わたしは、ω君に声をかけた。

「あぁ?」

「そこの板書……わたし、取れてるから、見せようか?」

「ああ……助かる」

 少しきょろきょろと周りを見るようにしてから、ω君は頷いた。少し恥ずかしそうだ。

 ノートを広げて見せると、彼は手際よく写していく。そして手を動かしながら、ぼそぼそと呟くように話しかけてきた。

「……お前、次の授業……、大丈夫なの?」

「うん。間に一限空いてるから」

「ふぅん……僕もだ」

「取る授業ないよね、この時間」

「そう……だな。ここも空きっぱなしだし……。だから、僕はいつもここで自習してる」

「わたしは、図書室か食堂かな」

「ふぅん……」

「飲み物とか、買って飲んだりして……へへ」

「……なるほど。うん」

 何だか、ぎこちない感じの会話だなぁ……あんまり話したことないからかな。ω君、人と話すのがそれほど好きそうじゃないし。見かけた時は、一人で居ることが多い。

「……なあ、さっきの奴ら」

「うん?」

「迷惑だったよな」

「う、うん、そうだね。……でも、楽しそうだなぁって思っちゃった。わたしは」

「ふぅん……お前って、優しいもんな」

「え。そうかな……」

 ノートを貸してもらった遠回しのお礼なのか、なんなのか。褒められて、わたしはなんとなく照れてしまう。

「楽しそう……ね。僕の友人も……最近、彼女ができて。時々いちゃついてんだけど」

「へぇ……いいね」

「いや、うざいよ。運命の相手とか言っちゃって……」

「それはまた、熱愛だね」

 運命の相手、かぁ……すごいなぁ。小指に結ばれた赤い糸みたいな? ……本当にそんな相手がいるなら、わたしはぜひとも会ってみたい。これから先、そんな出会いがあるとは思えないけれど。これまでだって、チャンスがあったとは思わないけれど。

「……終わった。ありがとう」

「あ、うん。良かった」

 わたしは手渡されたノートをしまい、片づけを再開する。

 逆にω君は、別の科目の教科書などをカバンから取り出しながら、また呟くようにして発言を続けた。

「馬鹿らしいよな。運命の相手とか、恋だとか」

「そ、そう?」

「下らないよ」

「そ、そっか」

 強めに言われて、ついつい首肯しまった。

 他ならぬわたし自身が、その『馬鹿らしいこと』について、ずっと悩み続けてるんだけど……。うーん……。確かに、不毛で、馬鹿らしいことかもしれない。下らないことか、まではわからないけど。

「お前さ、考えたことある?」

「え、何について?」

 恋について?

 馬鹿らしいことについて?

「運命の相手って何か、について」

「ん、んー……ない、かな」

 そう指摘されると、これまたかなり意味の曖昧そうな言葉だ。

「例えばさ……」

「例えば?」

 意外とω君っておしゃべりなのかな、と思いながら、わたしは話に乗る。

「……定義するとして」

「定義? 『運命の相手』について?」

「そう。仮に、『お互いに好みのタイプで、関係も上手くいく相手』としてみる」

「確かに……大きく的を外してはない、かな」

「ここで、『好みのタイプ』が十人に一人の割合で居るとする。異性であることを考えると、1/2をかけて、二十人に一人。小学校のクラスに一人……よりは多いくらい。けっこうゆるめな条件だけど……ここまではいいか?」

「うん、いいと思う」

 彼が何を言わんとしているのかわからないままだけど、特に異議はなかった。

「一方的な『運命の相手』だと、片思いでしかない……勘違いなので、相手からもこの条件が当てはまるとする……と、また1/10なので、かけて、1/200……。これが、お互いに好みのタイプである確率だ」

「うん、そうだね。学年に一人いるかどうかくらい?」

「そして、顔が好みだとしても……気が合うかはわからない。性格的に相性がいい、という確率も、1/10としよう。1/2000になった」

「容姿がお互いに好みで、相性もばっちりって確率かぁ……そのくらいになっちゃうのかな」

「さらに、『想いがあらわになる確率』……『告白に至る確率』も考えないといけない」

「ああ……確かに。好きだって思っても、告白しないこともあるもんね」

「告白できるほどの長い付き合いにならないことも多いから……1/10として、ここまでで1/20000……二万に一つの確率になる」

「ふむむ……」

 結構少ない……?

 でも地球上には六十億や七十億も人がいるんだから、十分にあり得るようにも感じる。実際のところどれくらいだろう?

「ところで、毎年100人の新しい人間と出会って交流を持つとする。三日か四日に一人、新しい人を紹介してもらう計算だから……結構きついけれど」

「不可能ではない……くらいかな」

「そうすると、10年で1000人の人間と交流が持てる。100年で10000人」

「一万人。……うわぁ、それだけの人としか会えないんだ」

「さっきの『運命の相手』と出会う確率が20000分の1だから、100年間生きたところで、出会える確率は20000分の10000……二分の一の確率になる」

「実際に、交際したり結婚したりできる現実的な年齢を考えると、もっと低いね」

「計算に使った想定自体かなり緩いし、他にも要素があるだろうしな。だから僕は、『誰にでも運命の相手がいて、その人と結ばれるんだ』って考えは、馬鹿らしいと思う」

「はー……」

 ていうか、その結論に落ち着くための長い話だったんだ。回りくどいのか用意周到なのか。わかりやすくはあったけれど、そこまで順を追わなくてもいいんじゃないか、と、苦笑を禁じえない。

 夢が、ないなぁ……。

「ω君は……」

「ん?」

「恋、とか……どう思う?」

「あー……進化の結果だと思う」

「し、進化?」

 また大きな話が出てきた。

 わたしは確か、『恋』について質問したんだよね……。

「ああ。……人類は知能を手に入れたから、将来の予想や妄想が可能になっただろ」

「うん……」

「それによって、『理想の相手』についても想いを巡らせられるようになった。例えば、将来『理想の相手』と出会えるかもしれないとか、こんな人と一緒になりたい、だとか……」

「確かに……自然なことだね」

「一方で、さっき話したように……『理想の相手』と出会える確率は、そんなに高くない。いつか『理想の相手』に出会えるかもしれないのに、待っていると人生が終わってしまう……生物的に子孫を残せなくなってしまう、ってジレンマ。えっと……、どうする?」

「ええ……きかれても。ううん……そこそこで満足する、とか」

「そう。予想や妄想と、現実の間で折り合いをつけないといけない。手の届く、『妥当な相手』で手を打つ、という選択が必要になって……」

 右手と左手を机の上でパタパタさせながら、ω君は言う。

「でも、その『妥当な相手』をどうやって決めるか……『理想の相手』をどうやって諦めるか……。そこで、決め手になる『恋』が、生存戦略として有効になるわけ」

「恋が生存戦略……なんか、凄い響きだね」

「要は、『今、目の前にいる相手こそが最高だ』って自己催眠をかけるんだ。それで、うまく理想と現実の折り合いが付けられる。……結果的に、『恋』の上手な人、『恋』に落ちやすい人が、子孫を多く残せて、割合を多くしていって、人類は『恋』するようになった。それが、進化の結果、って意味」

「つまり……、高いところの餌が食べやすくて、長い首のキリンが生き残りやすく、結果的に首の長いキリン達ばかりになったように、『恋』する種が人類として残ったってこと?」

「そう……僕は思う。まぁ実際のところは、進化のスパンは万年単位だから、まだ経過でしかないだろうけど」

 肩をすくめるようにして、ω君は話をくくった。

「ふむむ……」

 ため息が出てしまう。

 すこし牽強付会に感じるところがないではないけれど、言ってることはわかった。よく考えるなぁ、とも、身も蓋もないなぁ、とも思う。

「お前はどう思うの?」

「え?」

「『恋』とやらについて」

「え、うーん……よくわからない。よくわからないから、ω君に訊いてみたんだけど……」

「ふぅん……」

「なんか……みんなを見てると、楽しいものなのかな、って思う。わたしもいつか、できたらいいな、って」

「……ふぅん。あんまり……僕たちみたいなのは、向いてないと思うけどな」

「向いてない?」

 恋する才能がない、ってことかな。

 そう言われちゃえば、もちろん……自分が恋に向いているとは、少しも思えない。

「……自分を騙して、『そこそこで満足する』のが恋だとするとだ。考えて、答えを出そうとしてしまう人は、恋には向かないんだよ」

「そっか……そうかもね」

 向かない、か。

 やっぱり、恋は考察するものではないのかもしれない。

 運命や占いを、純粋に信じられる人じゃないと、恋はできないのかもしれない。

 ――なんて、そんな風に割り切れてしまえば、むしろ楽なんだろうけれども。

 話がひと段落したようなので、わたしはがらんとなった教室を見渡してから、ω君に呼び掛けた。

「あの、ω君」

「うん?」

「折角だから、食堂で……お茶でも飲みながら、雑談しない?」

「いや」

 ω君は、首を横に振った。

「僕はここで次の予習をしてるよ」

「そう」

「ああ。……ノートありがとな」

 微笑で応じて、わたしは席を立った。

 なんだか先生の授業より、頭を使った気がする……。

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