α-1. 日常の考察
授業終了の鐘が鳴る。
「それ、じゃ。今日は、ここまで。君、来週、ここまで、読んで来て」
哲学の先生が、独特のテンポでそう告げる。
「ここですか」
「そう。32ページのとこ、ね」
「はい」
指名された生徒の確認が終わるや否や、先生そそくさと教室を出て行ってしまった。彼はいつだって、生徒より早く帰ってしまう。まぁ、受講者は少ないし、質問するほど熱心な受講者はもっと少ない授業だから、それで困ったことはないのだろう。
わたしも残りの図を写すのは諦めて、帰り支度に入る。
机の上に出ているものは、教科書にルーズリーフに筆記用具、あとは腕時計くらいのものだから、あっという間に終わってしまう。しかしその短い間をついて、わたしは声をかけられた。
「よお。授業、聞いてた?」
「あ……うん。意識の半分くらいでだけど……」
「それだけ聞けてりゃ、十分なんじゃね」
声の主は、屈託なく笑った。
笑顔が気持ちいい彼の名前は……カイ……χ君としておこう。ギリシャ文字は恰好いい読みが多いように思う。
χ君は続けて言った。
「あのさ、俺来週のところ、当てられちゃったんだけど」
「うん、そうだったね」
「ちょっと説明してくんないか」
「えっと……、カントの思想についてだよ。教科書の、ここ……」
「ふんふん」
わたしは、できる範囲で説明をする。
χ君は人気者で、人付き合いが広い。だから大方、授業中にメールの文面でも考えていたんだろう。こっそり隠れて、携帯電話を開いているのをわたしは目撃していた。面白味のない授業だし、今後に繋がるとはどうしたって思えない内容だから、別にそれをとがめるつもりはない。
人付き合いの方が、ずっと大事だろう。
χ君のサークルは、何だったかな。きっと、気さくな彼は慕われてるんだろうな。
「……って感じ……。今の説明でわかった?」
「おう、ばっちり。サンキューな」
「良かった」
「これ、やるよ。さっき生協で買ったんだ」
新作のお菓子を分けてくれた。
噛みごたえのあるグミだった。
ぐにぐにと効果音がする、気がする。
「最近のお菓子は、不思議な味がするね」
「だなぁ。しかしα、お前先生の説明よりわかりやすかったよ。授業やってくんね?」
「え……い、いや、そんなことないよ。授業なんか、無理」
「はは、そっか。だよなぁ……詰まんないクセに出席だけ取んだもんなぁ、この授業」
「あはは」
「……さって、じゃ。俺は部活出ねぇと。またな」
携帯電話を見て時間を確認すると、χ君はカバンを持って立ちあがった。颯爽とした立ち姿が恰好いい。などと思っている間に、彼は行ってしまいそうだった。
身軽だなあ。
サークルじゃなくて、部活なんだ。
「あの……」
「あ、何?」
χ君が振り返る。
「χ君って、……何の部活、やってるんだっけ?」
「ん? 弓道部」
「へぇ……かっこいいね」
「んなこたねーよ。じゃあな」
最後にもう一度素敵な笑顔を見せてくれてから、彼は出ていった。
「…………」
χ君に、好きな人とかいるんだろうか。
恋とか、してるんだろうか。
してるんだろうなぁ……。そして、恋もされてるに違いない。魅力的な人だものね。彼女もいるんだろうな。愛とかをささやきあったり。
でも、もしも……χ君がもしもわたしに恋をしてくれたら、わたしも恋をし返せるのかもしれない。……なんて、そんなお歳暮みたいなものじゃないか。恋は。
そもそも、想像するだけでもおこがましい話だった。わたしには考える資格すらないし、現実にも可能性はないし、実現したところで困るだけだろう。
勝手に打ちひしがれちゃった。
「ふぅ……帰ろう」
気付けば教室に一人。
わたしもカバンを手に取った。
教室の戸を開くと、見知った女の子がそこに居た。
名前は……わたしがαなので、βにしておこう。
戸を閉じて、お互いに挨拶。
「あ、お疲れー」
「待っててくれたんだ、β」
「うん。モスの新しいバーガーが美味しそうでさ。一緒に行かない?」
「モスかぁ……。いいけど、ファストフードばかりだと、身体に悪いよ」
「たーまーにー、じゃん。それじゃ、行こ」
「うん」
βにとって、週一は『たまに』らしい。判断の微妙な言葉のラインだと思う。
彼女は長い髪を後ろでまとめた、可愛い子だ。わたしより身長はちょっと低いけれど、一般的に見れば高い方。流行からはぐれないセンスを持っていて、お洒落。人当たりもいいので、高校時代はとても人気があったらしい。
わたしとは大違いだ。
「哲学、だっけ? 面白い?」
「うーん。あんまり、かなー。βは心理学か……」
「うん。超面白いよ。αも取れば良かったのにね」
「後期はやってないんだっけ」
「前期取らないと、後期のは取れないってさ」
「なら、来年取ろうかな」
「そうしなよ~」
他愛もないお話。
気の知れた呼吸。
わたしとβのお家は近かったので、幼いころはよく一緒に遊んだ。同じ小学校に通い、中学校はわたしが受験して私立へ、高校も別々だった。だけど家は近かったし、お互いを友達だと思っていたので、会うことも話すことも多かったのだ。歳を重ねるごとに、その機会は当然失われていったが。
けれども。
大学で、また一緒。
これに関しては、示し合わせたわけでもなく、偶然。わたしたちの実家から通うにはちょっと遠い学校なので、奇妙な巡り合わせだったと思う。わたしが第一志望に受かっていたら、この再会はなかっただろう。落ちてしまった時は残念だったけれど、βと同じ大学だと聞いて、お門違いにも救われた気分になったのを覚えてる。
つん、と肩をつつかれた。
「あう……?」
「ぼーっとしてたでしょ。αは昔っから、油断するとすぐぼーっとするんだから」
「油断してるんだから、ぼーっとしてるのは当たり前だよ」
「えっ、言われてみれば……じゃなくて、メニュー決めたの? そろそろウチらの番だよ」
見てみれば、わたしの前に並んでる人は一人だった。
「ええと……」
「次のお客様、ご注文承りますー」
「え。えっと、ええっと……」
「…………」
βと同じ新作バーガーを注文することになってしまった。
新作は不当に値段が高い気がするから、避けたかったんだけど。……とはいえ、その程度の出費は、ドリンクを飲んでいる間に雲散してしまうような、些細な後悔である。結局、心を宙に放っていた自分が悪いんだから。
何故すぐ他のことを考えちゃうのかな……。
こんな性格だから、一途に想ったりとか苦手なのかな。
「……うー」
「どしたの、浮かない顔して」
「ううん、何でもない。……ただ、予定通りことが運ばないと、人って落ち込んじゃうよね。明確な予定なんかなくったって」
「そう? 予定通りの人生って、きっと詰まんないよ」
「βはポジティブだよ」
「人生山あり谷ありじゃん。それよりさ」
彼女は話題を変えた。
「明日って、αは暇?」
「明日……土曜日か。授業はないけど、バイトが入っちゃってる。11時から」
「そっかー……。バイト。なんだっけ。ウェイターとかウェイトレスとかだっけ」
その二択は何のための二択なの。
突っ込みかけたところで、バーガーが届いた。同じメニューが二人分。店員さんは、「ごゆっくりー」と、おそらくはマニュアル通りに言ってくれた。でもその一言で、くつろぐことを許されたような心地になれる。言葉は不思議。人も不思議。
店員さんを見送ってから、話を戻す。
「……喫茶店だよ。全国チェーンの喫茶店」
「ふーん。楽しい?」
「そこそこはね。で、何か用があったんじゃないの?」
「あ、そだそだ。洋服買いに行こうと思ってさー。αも一緒にと思って。でも、バイトは日中だよね、11時からだと」
「うん。でも、日曜なら空いてるよ」
「ほんと? なら、日曜日貰っていい?」
「あげるよー」
「やった」
まるで借り物や食べ物みたいに日曜日を扱って、ちょっと愉快。
話がひと段落ついたので、ポテトをつまんだりする。
日曜日にしようと思ってたのはお掃除・お洗濯くらいなものだから、若者らしい予定が入って、むしろ嬉しいくらい。はしゃぎすぎて、月曜日に響かないようにだけ気をつけないと。
「ねえ、α」
「なーに?」
「この新作バーガーどう?」
「わたしは……好きだな。きのこもしょうゆ味も好きだから」
βは何故か、そこで、複雑な表情をした。
「ん……そう」
「βには微妙?」
「あ、ううん。ウチも美味しいなって思うよ。今作は当たりだね」
若干、取り繕うみたいな様子だ。
「うん、そうだね」
適当な相槌で応じるわたし。
本人が隠そうとしてるのなら、やたら突っ込んで訊くべきじゃない。と、思う。
それから、少し静かになってしまった。
「…………」
予想してなかった出費だったけれど、満足できる味で良かった。
「……もぐもぐ」
店内に流れている音楽に、聞き覚えがある。なんだっけ……最近の流行歌、という感じじゃないけれど。……思い出せない。
「…………」
ポテトにバーガーのソースを付けて食べる。モスに来るといつもこれをやる。マクドナルドではやらない。なんでだろう……。味の違いかな。それとも、かつてのモスのチラシで紹介されていたからかな。
「………………」
お店の中は、そこまで混んでいない。お昼時はかなり混雑するけれど、おやつ時も既に過ぎてしまってる頃合いだものね。窓の外はまだ明るいけれど、そろそろお天道様も傾いで横になってしまうんだろう。夕焼けを想像して、いくつになってもあの色合いには心惹かれるな、と感じる。
恋の色は夕焼け色。とか。
ないか。
「……あのさ」
「……ん?」
二人ともあらかた食べ終わったところで、βが言った。
「αは、自分のこと『わたし』って呼ぶんだね」
「……うん。『わたし』。変かな?」
「いや、ちょっと…………他人行儀な気がしてさ」
「……他人行儀?」
「前は、『ぼく』って言ってたじゃない」
「ああ……」
わたしは失笑した。
それは小学校くらいのころの話だ。確かに、幼いころの『わたし』は『ぼく』だった。そっか。中学校で学校自体は別々になっちゃったし……、もしかしたらβの前では変わらず『ぼく』と言っていたかもしれない。
気にしてたんだ、そんなこと。『わたし』に違和感でもあるのだろうか。
「βは小さいときから、『ウチ』って言ってたね」
「えー、別に変じゃないっしょう」
「そうかなぁ」
「ウチは普通だよ」
「そうかなぁ。ま……気になるなら、βの前では『ぼく』にするけど」
「え。うーん」
βはちょっと首を傾げるようにしてから。
「えー……いや、別に。そんなキャラ使い分けみたいのしなくていいよ。かったるいじゃん。ナチュラルに接してくれれば、それで嬉しいし」
「そっか。ありがと」
お礼を言うと、βは目線をそらした。
「れ、礼とかされる場面じゃ――何笑ってんの!」
考えたことは恥ずかしがらずに言うくせに、お礼を言われると照れちゃうβ。彼女は、本当に可愛いな、と思った。それは多分、βがまっすぐだからなんだろう。
にやにや笑ってあげてたら、βが椅子を引いて立ち上がった。
「そ、それじゃ。日曜の件は、またメルするね」
「うん。楽しみにしてる」
わたしも立って、二人分のトレイを片づける。
さっきの店員さんが、にこやかに受け取ってくれた。ただのお仕事なのだろうけれど、親切そうに見える。何気ない真心のしぐさで、人々は繋がっているんだ。誤解とか、期待とか、思いやりとか、思い違いとか。深く探らなければ、ほんわかとしていられるのに。
今はお隣さんじゃないβと、駅で別れて。
お店での曲目は結局わからずじまいだったけれど、電車の窓辺で綺麗な夕日と遭遇した。
恋のなきできそこないでも、いい日はあるものなんだと、少し、救われた気分。
そんなわたしの日常。
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