翡翠の谷

「……さすがに、ここまでくれば大丈夫かな」


「……聖域まで、まだ遠いのかしら?」と、シャルロットが振り返る。「あら、この子たち……さっき街で薬を買おうとしていた子たちよね」


 アーサーとリン・ユーが振り返ると、先ほどの姉弟がこちらの方を見つめ、黙って立っていた。肩で息をするアーサーたちとは対照的に、涼しげな表情を浮かべているものの、その目元はどことなく潤んでいた。


「怖くなって一緒についてきたの」

「龍の鱗って、嘘だったんだ……お母さん!」


 二人は落胆の声を上げ、その場に座り込んでしまった。

 しゃくり声をあげる姉弟の頭を、シャルロットが優しく撫でる。


「私たちに何か出来ることがあればいいのに」

「リン・ユー、龍の鱗の話自体は本当なんですか?」


 アーサーの問いに、リン・ユーが首肯する。


「ああ、龍は火の国では不死の象徴とされているからな」

「だったら、翡翠の谷までこの子たちを連れて、龍の鱗をもらうことは出来ないかな」

「は!? 何言ってやがる。聖域は危険地帯でもあるんだぞ、こんなガキたちを連れて行けるほど甘い場所ではない」


「ですが、このまま放っておくわけには……」 と、アーサーが言いかけたところで、


「待ってる」


 重なる二つの声。先ほどまで涙を浮かべていた姉弟の目は、まっすぐにリン・ユーを見つめていた。


「え?」戸惑うアーサーに構わず、姉弟は続ける。


「僕、お兄ちゃんたちが戻ってくるのを待ってる」

「お願いです、龍の鱗を! じゃないと、お母さんが……」

「あなたたち、おうちの場所は分かる?」


 シャルロットが尋ねると、姉の方が頷いた。


「分かります。ここからだと、私たちの集落は近いので」

「だったら、お家で待っていて。龍の鱗をもらったら、あなたたちのおうちへ行くわ」

「おい、何を勝手に!」


 リン・ユーの抗議に動じることなく、シャルロットは平然と答える。


「いいじゃない、困っているんだから。それに、この子たちの家なら、私のタロットカードで探して、鱗を届けることは出来るわ」

「確かに、それならこの子たちも安全だね」


 アーサーが機嫌よく答えると、リン・ユーは益々ますます仏頂面になった挙句、


「勝手にほざけ!」


 と、吐き捨て、聖域の方へ向かって歩き出してしまった。


 姉弟に別れを告げ、アーサーとシャルロットもリン・ユーの後を追う。

 三人の背中を見送った姉弟は、彼らの姿が見えなくなると、その場でひそひそと話を始めた。


「行っちゃったね。あの人たち……大丈夫かな」

「大丈夫。きっとぬしさまの元に行けるよ」

「でも、相手はあのすいだよ。簡単に通してくれるとは思えないけど」






 三人が歩いていると、次第に周囲が霧深くなってきた。


「リン・ユー、こっちの方向で合っているの?」


 不安になったシャルロットが問うが、リン・ユーは振り返ることなく答える。


「間違いない。そろそろ聖域に入る」


「あっ、時計が……」アーサーが懐中時計に目をやると、針がぐるぐると回っていた。「ノワール渓谷と同じか」と、溜息をもらしていたところで、「わっ!」アーサーは木の根に足を引っかけ、転んでしまった。


「アーサー、大丈夫?」


「ははは……尻もちついちゃった。これもノワール渓谷の時と一緒だね」苦笑いを浮かべるアーサーに、リン・ユーは舌打ちをする。


「足元をよく見ていねぇからだ。ぐずぐずしていると日が暮れるぜ」

「まったく、少しは心配ぐらいしたらどうなのよ。といっても、アーサーの時計が頼りにならないなら、アンタの方向感覚に頼るしかないわね――リン・ユー」


 シャルロットの心配をよそに、リン・ユーはふんと鼻を鳴らし、奥へと進む。


「さっさと行くぞ」


 霧深い谷の中を進むことおよそ三十分……周囲の景色に変化はない。彼らの表情にも疲労の色が濃くなっていく。


「……ねぇ、本当に合っているんでしょうね」

「何度も言わせるな。龍はこの谷の奥だ」


 二人のやりとりを見て、アーサーも辺りを見回す。すると――。


「あれ、あの木……さっきも見た気がする」

「えっ? アーサー!」


 走り出すアーサーをシャルロットが制止しようとするが、アーサーは気のそばまで行き、地面を注意深く観察する。


「……やっぱりそうだ。ここ、さっき僕が転んだ場所だ」

「何ですって!?」


「僕がしりもちをついた跡、それに僕たちの足跡。靴の大きさがぴったりだ」アーサーは自身の靴を足跡に当て、二人に説明する。


「……俺たちは、同じ場所を歩いていたということか」


「そんな……嘘でしょ」シャルロットは、疲れ切った様子でその場に座り込んでしまった。「リン・ユーが道を間違えたってこと?」


「違うと思うよ。僕たちはまっすぐ進んでいただけだから。僕たちがここに来ることを、何かが拒んでいるのかもしれない」

「察しがいいようだな、少年」


 どこからともなく聞こえてきたその声に、三人は辺りを見回す。


「誰なの?」

「おい、どこのどいつだ……姿を見せやがれ!」


 リン・ユーが叫ぶと、三人の前に一人の人物が姿を見せた。短く切り揃えられた真っ黒い髪に、細くつり上がった目、白い肌……まさにという言葉が似つかわしい。


「か、かっこいい……」


 シャルロットの頬が赤くなる。目をらんらんと輝かせる彼女とは対照的に、警戒心をむき出しにするリン・ユー。

 二人の様子をしり目に、アーサーは恐る恐る問う。


「あなたは、この谷に住んでいる方ですか? 僕たちは白い龍に会うため、ここまでやって来ました。宜しければ案内していただけないでしょうか」


 彼の申し出に対し、その人物は「ならぬ!」と、語気を強め、「すぐに立ち去るがいい。でなければ、お前たちを贄として主様に差し出してやる」と、アーサーたちを睨みつける。


「てめぇの言う『主』ってのは、コイツのことか?」


 リン・ユーは懐から龍の描かれた首飾りを取り出した。


「それは……」


 首飾りを見て瞠目する相手に、リン・ユーは続ける。


「俺の名は朱悠しゅゆう。父はけい王朝初代皇帝朱元聖しゅげんせい、母は光美人こうびじん――光紫苑こうしおんだ」

光家こうけの血を引いた者……ということは、お前が主様の予言していた――」

「予言? 何の話か知らねぇが、こっちから名乗ってやったんだ。てめぇも名乗りやがれ。それと、さっさと案内してもらおうか――白龍の元へ」

「……良いだろう。私は紫水。だが、部外者を連れて行くわけにはいかない」


 紫水はアーサーとシャルロットの方をきっと睨んだ。


「生憎だが、その条件は飲めん。俺はあくまでコイツの頼みで来てやったんだ」と、リン・ユーはアーサーの方を指さす。「俺は火の国に戻るつもりなど、はなからなかったんでな」

「だから、ならぬというのだ! 主様の命を狙い、今まで多くの者たちがこの谷を訪れてきた。それゆえ、一族の者を除き、ここへの立ち入りを断固として禁ずるのだ」


「ならば――」リン・ユーは背負っている大刀を鞘から抜いた。「力づくで突破してやるのみ」


「主様からの御言葉おことばがなければ、お前を一番に封印してやるところだが――」紫水はそう言うと懐から手鏡を取り出し、シャルロットの姿を映す。まもなく鏡面がきらめき、シャルロットの周囲を光が包みこんだ。


「シャルロット!」


 アーサーが叫んだ時には、シャルロットの姿はなかった。


「おい、あれ!」


 リン・ユーが指さした先――紫水の持つ鏡の中からシャルロットが鏡面を叩いている姿が見える。


「ちょっと! ここから出しなさいよ!」


「てめぇ!」全身の毛を逆立て今にも襲い掛かりそうな猛犬のように、リン・ユーは大刀の先を紫水の方へ向け睨む。


「少年、私の言うとおりにしなければお前もこの女のように……」と、紫水が言い終わる前に、一陣の風が吹き込んだ。「びゅー」と吹く風の音とともに、何かがざわざわと揺れる音。


「――紫水、もうおやめ」


 アーサーが顔を上げ、声の主を確認すると、それは――。


「……白い、龍――」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る