第10話 ヴァニラ
鏡に映っているのが、自分なのか母親なのか分からなくなり、その度に息が止まりそうになることがある。
自分を愛してくれなかった母。
その母に、最近ますます顔が似てきたように感じる。
いつも男を連れ込んでいたあの淫売。
最も、今や娼婦となった自分に、母のことを嘲笑う権利はないのだが。
そして母に嫌われていた、血のように赤い瞳。
「私だって嫌いなんだから……。」
鏡を叩き割りたくなる衝動に駆られながら、それができない非力な自分を嘲笑する。
だけど、ただ1人、こんな自分を肯定してくれる人。
心を、体を、甘く支配するその名前を呟く。
「ヤマト様……。」
その日は嫌に温かい夜だった。
酒場が立ち並ぶ猥雑な繁華街。石畳の上を歩くハイヒールの乾いた音が響く。夜の街を1人で歩くアヤメの姿を見るなり声を掛けてくる男たちは、自分を娼婦だと分かってた上での誘いなのか、それとも別の意図があるのか。いずれにせよ、そんな声は無視して通り過ぎるだけなので、その真意は分からない。
「プブ・パブリコ」
その看板が掲げられた店を見つけると足を止めた。酒場特有の喧騒、男たちの下品な笑い声が表まで聞こえてくる。それだけでも憂鬱な気分にさせるのには十分すぎるほどだったが、仕方ない。
なぜなら彼はいつもここにいるとエリザに聞いていたからだ。
扉を開くと、むせ返りそうな酒と煙草の匂い、酔っ払いたちの耳障りな声。
狭い店内は満席のようだったが、奥のカウンターで1人、酒を飲む男の姿を捉えた。
入り口近くに立っていると、男たちの視線が注がれる。あからさまに好色そうな目でアヤメをじっと見つめる者、自身と同じ商売女のまとわりつくような目線。
なるべく誰とも目を合わせないようにしながら、彼に近づいた。
「ティムさん?」
そう呼ばれた男は気怠そうに振り返るが、アヤメの顔を見るとその顔が一瞬だけ緩ぶ。女に話しかけられたことに対するちっぽけな優越感だろうか。
「何の用だ?姉ちゃん」
「エイミーさんのことでお話を伺いたくて。」
その名前に、酒を煽る手をぴくりと止めたのをアヤメは見逃さなかった。
エイミー・ルー。
歳はアヤメと同じくらいだろうか。
同じ娼館にいる金髪の巻き髪の派手な女で、アヤメに対してだけなぜかいつもツン、としていて目を合わせてもくれない。勿論、話したこともない。
最も、アヤメ自身も友好的な性格ではないので、無理に仲良くしたいと思わないし、そんな態度を取られたところで思う所は何もなかった。
そんな彼女がいなくなったとエリザに告げられたのが昨夜。
アヤメからしたら「そういえば、最近見てないですね。」と、その程度の認識だったが、経営者のエリザはそうではない。
「どこかの男の家にでも転がり込んでるんじゃないかとも思ったけど、荷物を取りに来てる様子もないし、どこをウロウロしてるのか……。もう一週間よ?ねぇ、アヤメちゃん。ちょっと探してきてくれない?」
あからさまに表情には出さなかったが、アヤメはあまり乗り気ではなかった。
親しくもない自分に探しに来られても迷惑な気がするが……。
そう思いつつ、エリザの頼みは断れないまま今に至る。
エイミーには贔屓にされている男がいて、彼女がいなくなる直前に訪れていたというのが、目の前にいるティム・スコルドという男だった。
痩せこけた頰とギラギラした正気のない黒い目つきは、お世辞にも好感を持てるとは言い難い。
エイミーのことについては「さぁな」としらを切ったが、ちらっとアヤメの顔を見ると、
「だがまぁ、オレの言うこと聞いてくれるってんなら、教えてやらんこともないぜ?」と、あからさまに下心のある目つきでアヤメを上から下に眺めてきた。
アヤメは基本的に、ヤマト以外の男には嫌悪感を持っている。
特にこんな男だ。
母親が連れ込んでいたような男。
酒の匂いをさせた、品の欠片もないような男たち。
エリザの頼みでなければ話したくもないくらいだ。
ふと顔を上げると、店主がいるカウンターの背後の鏡に映る女の姿が目に入った。
赤い口紅の女。
あの女だ。
いつも男を連れ込んでいたあの女。
だが、これは私だ。
口元だけで微笑む。
「私、貴方に触れられるほど安くないの。」
それは、自分は母親とは違うという、抵抗だったのかもしれない。
ティムが椅子をガタっと鳴らして立ち上がった。
「何だとてめぇ……?」
「帰ります。エイミーさんのことを知らないのなら貴方に用はないので。」
「口の利き方を知らねぇようだな……えぇ?おい」
そう威圧されるも、アヤメはこんなことは慣れているとでも言いたげに、動じる様子はない。
「貴方は私が口の利き方を気にしないといけないほど立派な人間なのかしら?」
「このクソ女……!」
ティムが手を振りかざしたその時、
「おい、やめろよ!」
と、2人の間に割って入ってきた人物がいた。
まだアヤメより背も低い(と言っても、アヤメ自身は平均的な女性に比べて高身長なのだが)、10代半ばくらいの少年。
腰に下げたサーベルと軍服姿から軍人だと認識できたが、まだ少年の影を残した彼は、軍服を「着ている」と言うより、「着られている」印象を受ける。
少年がガラス玉のような瞳でティムを睨みつけた。
「あんた、女の人に手ぇ上げるなんて最低だぞ。」
「あ?なんだ?ガキ……」
「ガキだからってなんだよ?さっ、お姉さん。こんなとこもう出たほうがいいっすよ!」
「え、ええ……、ありがとう……」
「いえ。当然っすよ。」
そう言いながら少年は人懐っこい笑顔を浮かべる。女ならいざ知らず、少年にまでコケにされて我慢の限界だったのだろう。
「ふざけんな、このガキ……!」と、ティムが拳を振り上げて殴りかかってきた。
しかし少年はそれをするりと避けるとその腕を掴み、自分より体格の良いティムを背中から床に叩きつけた。ドン、という派手な音を立てて床に転がるティムを見て、少年は「あっ」と声を上げた。
「わ、悪ぃ……つい……」
「このガキ…!」
一連の騒ぎを目撃していた酒場の男たちが「いいぞー、兄ちゃん!」「もっとやれー!」などと煽ってくる。
「い、いや、そんなつもりじゃないんだって……」
少年が困った様子で頭を掻いていると酒場の入り口の扉が開いた。
「何をしている、リヒト!外まで聞こえてるぞ。あまり騒ぎを起こすな。」
よく通る低い声が店に響き、軍人と警官が店に入ってきた。
「隊長!」
「ヤマト様?」
2人の声が重なる。
ヤマトは相変わらず変化に乏しい表情だったが、アヤメがいることに少なからず驚いた様子だった。
リヒトは2人の顔を交互に見比べて「え、知り合い?」と呟く。
「ヤマト様、どうしてこんな所に……」
「それはこっちのセリフだ。だが話は後だ。」
ヤマトが床に尻餅をついたままの男のほうに目線を落とした。
「ティム・スコルドだな。」
「そ、それがどうしたんだよ……。」
異様に威圧感のあるヤマトを前にして、先ほどまでとは違って態度を少し軟化させた。
「率直に聞く。エイミー・ルーはどうした?」
どきり、としたのはアヤメの方だった。
どうしてヤマトがエイミーのことを?その意味を、嫌でも想像してしまう。
「その女にも聞かれたが知らねぇよ」
「彼女に何があった?最後に誰かと一緒にいたところを目撃されたのがお前だと聞いたが。」
「知らねぇって!殺したのはオレじゃねえよ!」
一瞬の沈黙。
こんな人数で押し掛けられて迷惑とでも言いたげな顔をしていたが、墓穴を掘ったことに気付いていないのだろうか。
「……殺した?どういうことなの?」
「おかしいな。私は彼女が殺されたとは一言も言ってないぞ。」
ヤマトとアヤメのじとっとした視線が刺さる。
そこでようやくティムはまずい、と言うような表情を浮かべた。
「彼女が殺されたことは新聞でも報道されていない。どこで知った?……お前、本当は何か知っているんじゃないのか?」
「し、知らねぇって言ってんだろ?!嘘じゃねえ、信じてくれ!」
「残念ながら嘘かどうか判断するのは私じゃない。警察で話すんだな。」
ヤマトは警官服姿の男と目を合わせると、人の良さそうなその青年は無言で頷いた。
「警官のクロウです。少し、警察署でお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
クロウに伴われてティムが店外に出て行くのを見送るように、アヤメたちも外に出た。
「エイミーさんが殺されたって、本当なんですか?」
「彼女は友人なのか?」
質問には答えず、エイミーとの関係性だけを尋ねてきたことに、彼女の身に起きた出来事を悟った。親しい仲ではないとは言え、殺されたとなっては、さすがに言葉を失う。
「いえ……。エリザさんに頼まれて探してたんですけど……。殺されたなんて、どうして……。」
ヤマトの脳裏に、監察医に見せてもらった女の解剖所見が過ぎる。
血液を抜かれた末に子宮を奪われた女。
彼女には、アークレーやエルリアで殺された軍人と同じ傷がついていた。
彼女を殺した犯人のその先に、軍人を殺した人物がいる。
「……お前はこれ以上関わるな。彼女は死んだとだけ伝えておけ。」
「そんな……。」
「ちょっ、ちょっと隊長〜。そんな言い方、可哀想っすよ。」
そう言い咎めるリヒト。そしてその横で動揺する様子のアヤメを見て、ヤマトはため息をついた。
「とにかく、後のことは任せて今日はもう帰れ……。リヒト、彼女を家の近くまで送ってやってくれ。私はクロウに同行する。」
「了解っす」
「一人で帰れますよ?」
「夜に女が一人で出歩くなと言っただろ。それともリヒトじゃ不安か?」
「そういう意味じゃないですけど……」
「大丈夫っすよ!なんかあってもオレが守るっす!」
リヒトがそう胸を張った。
「そうか。では任せたぞ。」
背中を向けて手を軽く上げたヤマトは、クロウたちの後に続いた。
軍服を着ていると華奢に見えるその背中。こんな状況で不謹慎なのは分かっているのだけど、会えて嬉しかったし、もう少し話したかったな、とアヤメは思った。
「アヤメさんって、もしかして隊長の彼女さん?」
娼館まで帰る道中、リヒトがふと振り返ってそう尋ねてきた。屈託のない瞳がじっと見つめてくる。その瞳は、どこか期待に満ちているようだ。
「違うよ?ちょっとしたお知り合い……かな?」
「ええ?!違うんっすか?!なんだぁ……」
そうガックリと肩を落とした。
さすがに少年相手に「自分は娼婦です。」なんて、教育上よろしくなさそうなので名乗れない。それに、ヤマトにとってマイナスになりそうなことは言いたくなかった。
「素敵な人だけどね、ヤマト様。」
「そう思うなら何でいかないんっすか!アヤメさん、めっちゃ美人だからいけるっすよ!オレに何か協力できることがあれば言ってくださいね!オレ、隊長のこと詳しいっすよ?趣味は料理と読書でー、住んでる所は確か……」
ころころと変わる彼の表情は、何か動物的なものを感じさせて微笑ましい。
「ふふっ、ありがと。でもヤマト様、恋人とかいるんじゃないのかなぁ?」
「いや…、どうっすかねぇ……?確かに女の人にモテてるイメージっすけど、特定の彼女ってのはいないんじゃないっすかね。隊長、ちょっと影があるから。飼い犬以外には心開かないっつーか……。」
このリヒトという少年、まだ子供だと思っていたが、なかなかヤマトのことをよく見ているようで、侮れない。
猥雑な繁華街を抜けると人通りも少なくなってきて、薄暗い街頭だけがぽつぽつと灯っているだけで、数十メートル先も見えないような夜の街は、確かにヤマトのいう通り、女一人で歩いていては不用心だったかもしれない。
「隊長ってめっちゃ頭いいんっすよ。同期の人から聞いた話っすけど、学業優秀・戦闘センスも抜群で、士官学校も首席で卒業して、陸軍大学からの誘いもあったらしいんっすけど、今の総帥が当時の自分の部隊に引き抜いたって。」
リヒトの話は、アヤメにとっては初めて聞く話ばかりだった。
士官学校から、より専門的な知識を学ぶ陸軍大学を卒業すれば、いわゆるエリートの高級軍人だ。若くして指揮官の要職に就けるし、出世も早い。ゆくゆくは政治の世界で帝国防衛の為のポストに就くことも可能だろう。
ヤマト自身がそれを選ばなかったということは、そういった地位に魅力を感じなかったのだろうか?
「でもそこで上官の人がたくさん亡くなったり色々あったみたいで、目が悪くなったのも、向こうでの戦闘の後遺症だって。だから隊長があんな感じで誰にも心開かないのは、仕方ない気がするんっすけど……。」
10年前の隣国との争乱で、ヤマトが仲間を失ったことは知っていたが、自身も無傷で還ってこられたわけではなかったのか。
体を、心を蝕まれ、たくさんの死を目の当たりにしながら自らの手で誰かを殺すことには平気な自分に矛盾を感じ、正気と狂気と狭間で揺れ動いているヤマト。
彼が1人で抱えているものを知り、いや、おそらくそれらもただの一端に過ぎないかもしれないが、そう思うと、アヤメは胸が締め付けられそうになった。
だが、
「今まで色々あった分、隊長には幸せになってほしいっんすよね。」
リヒトのその言葉と瑞々しい感性は、ヤマトは孤独ではなく、彼を慕い、理解してくれている部下がいることの確かな証で、少し救われたような気持ちになった。
「……リヒト君は優しいのね。」
そう言われたリヒトは照れる様子もなくにっこりと笑った。
「だからアヤメさん!隊長のこと、よろしくお願いしますね!」
「えっ?私?うーん……、それはまぁ、ヤマト様の気持ち次第だから……」
「なんでそんなに弱気なんっすか?隊長も男っすよ?家に押しかけてワインでも飲ませて襲っちゃえば、あとは責任取ってくれるっすよ。」
「な、何言ってるの?リヒト君。」
「隊長みたいなタイプは後腐れないフリしといたら上手くいくと思うっすよ?でもああ見えて結構、世話焼きっすから、一度そうなった相手は放っておけないっつーか……。」
15歳の少年らしからぬ発言をされて驚いた。しかも結構、当たっているのだから、やはりこの少年、侮れない……、とアヤメは内心慄いた。
そんな話をしながら歩いていると、広場に差し掛かった。街の道路はここを中心に放射線状に伸びていて、いわばここが帝都の中心地。
昼間は露店が立ち並び、人々が行き交う活気ある場所なのだが、さすがにこの時間ともなると、中央の噴水が寂しげに水音を鳴らしているだけだ。
広場を抜けて大通りに出ようとした時だった。
「さぁさぁ、寄っておいでー、見ておいでー。楽しいショーのはーじまりだよー」
やたらと抑揚をつけた軽快な口調が広場に鳴り響いた。
その方向に目をやると、派手な青色のスーツを着たピエロが足を鳴らしている。銀色の髪に白塗りの顔、目の周りを黒く塗り、赤い口紅で口が裂けているように見えるメイク。
背後に停められた馬車の荷台は、布で覆われていて中身が見えないが、大きさから察するに何か大きなものでも積んでいるのだろう。馬の手綱を引いている大男は、なぜか頭から麻袋を被っていて表情が見えないし、微動だにしない。
旅一座の一員だろうか。
まぁ珍しいと言えば珍しいのだが、リヒトもアヤメもピエロを見て喜ぶような年齢ではないので、「道化師っすね」とだけ呟いて、目の前を通り過ぎようとした。
通り過ぎざまにアヤメが横目で窺っていると、ピエロは色とりどりの小さなボールを宙に放り投げてジャグリングを始めた。それら全てキャッチして手中に収めると、なんとそのボールが花束へと変化した。
ピエロはその花束を、まるで恋人へのプレゼントかのように、そっとアヤメの目の前に差し出す。
アヤメはどうすれば良いのか分からず困惑したが、「ありがとう……。」と花束を受け取った。
すると、ピエロがずいっと顔を寄せてきた。
「お前、綺麗な目の色だなあ……。まるで血の色だ」
耳にざらつく低い声と、ニヤリと笑って裂けたように見える口元。
ぞくりとして、思わず花束から手を離してしまった。地面で花びらが散った。
「おい、グリム。」
ピエロが呼ぶと、顔を麻袋で覆われた大男がやってきて、アヤメを軽々と担ぎ上げた。
「やっ、……はなして!」
「お前、何やってんだ?!アヤメさんを離せ!」
リヒトが男の腕を掴むが、身長も体重もリヒトの倍くらいありそうな大男の前には全く歯が立たず、簡単に振り払われて背中から地面に叩きつけられた。大男はアヤメを馬車の荷台に押し込む。
顔を上げたリヒトの目つきが変わった。
「アヤメさんに何してんだよ……殺してやる……!」
立ち上がりざまにサーベルを抜いて大男に向かおうとするが、ピエロが立ちはだかった。ニヤニヤとした笑みを向けられて、リヒトの苛立ちは最高潮に達する。
「どけ!お前から殺されたいのか?!」
「ひひひっ、威勢の良いガキだなあ。ちょっと相手になってやるよ……」
そう言いながら、おもむろに首の方から背中に手を入れた。
こいつ、何か持ってやがる。
察したリヒトが咄嗟にサーベルを構えたまま後ろに下がった。
「お前ら軍人はどいつもこいつもそっちから寄ってきてくれるから好都合だ……。また殺せるなんて嬉しいねえ……。」
その言葉にリヒトが眉を顰めた。
「また?おい……、またって何だよ……」
背中からピエロの取り出した得物がぬらりと鈍く光る。
それを見た瞬間、頭の中であの監察医の言葉が巡った。
軍人を7人も殺した犯人。
『凶器は
目の前にいるピエロが、それを片手に破顔する。
「お前……、まさか……」
リヒトの細い喉が、ゴクリと鳴った。
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