第11話 キャンディ
帝都の夜の広場には、相変わらず噴水の水が落下する音だけが響いている。
それはいつもと変わらない日常。
ただ一つ異様なのは、目の前のピエロだ。派手な青いスーツを着こなす姿は見ようによれば洒落ているのだが、白塗りの顔に黒く塗りつぶした目の周り、口が左右に裂けたように見えるメイクは、誰かを楽しませようというよりは、恐怖を与えるためとしか思えない。それを恐れる人の様子を見て悦ぶという、醜悪な意思さえ透けて見える。
そしてこのヒリヒリと肌で感じる緊張感。訓練でヤマトを目の前にする時よりも、もっと嫌な感じ。
明らかに危険だと本能が告げている。
だが逃げることは許されない。
それが帝国軍人としての矜持だ。
自らにそう言い聞かせるように、リヒトは下唇を噛んだ。
「お前……アークレーの軍人殺しか……」
ピエロは問いには答えず、不気味な笑みを顔に貼りつけたまま、刃の部分を裏返しにした鉈を掌にポンポンと当てている。
「さあ、お前はどんな殺し方をしてやろうか?足先からじわじわと切り刻んでやろうか?それとも手足を切断してから溺れさせてやろうか?」
やけにしゃがれた声が耳障りだ。
人物像を探ろうとするも、メイクのせいなのか、年齢が全く読めない。丸みのない細身の体型や声から辛うじて男だろうということは分かるが。
「どっちもお断りだね……。」
リヒトはそう答えながら、アヤメが押し込まれた馬車の荷台を一瞥する。
この道化師を逃すわけにはいかないが、まずはアヤメを救うことが最優先だ。ヤマトの大切な女性かもしれないあの人を、これ以上危険な目に遭わせられない。それだけは死んでも避けたい。
そんな考えをリヒトの目つきだけで察したのか、ピエロは麻袋を被った大男に指示する。
「行け、グリム。」
そう命じられた大男が鞭で馬に合図すると、馬車はガラガラと音を立てて動き出した。
「行かせねぇ!」
リヒトが馬車を追うように走り出すと、ピエロが前に立ちはだかる。
「お前の相手はオレだぜ。」
「どけって言ってんだろ!」
緑玉の瞳が見開かれた。
右足をぐっと地面に踏み込み、上半身だけほんの僅かに反らして反動をつける。
向かってきたピエロの真正面からサーベルを突き出す。
ヒュッ、と風の切り裂く音。
しかしその切っ先は僅かに頬をかすめただけに終わり、ピエロがひらりと宙に舞った。
——道化師のくせに曲芸師みたいな動きしやがって。
宙を見上げたリヒトの両目が、闇に鈍く光る鉈を捉える。それが頭上に振り下ろされようとした瞬間、反射的にサーベルを横に構えて受け止めた。
鳴り響く甲高い金属音と、ビリビリと右手に伝ってくる衝撃。
2つの刃がギチギチといったような音を立てて拮抗する。
「っ……」
目が合った瞬間、赤く裂けたような口元がニヤリと笑った。
「うぜぇんだよ!」
苛立ちで血が湧く感覚。
力任せに振り払い、ピエロが体勢を僅かに崩したところで、横腹に蹴りを入れる。またもや身軽な動きで宙に舞ったピエロは、噴水の縁に着地した。
それとほぼ同じタイミングだった。
「てめぇは……沈んでろ!」
リヒトが右腕をピエロの顔面の前に突き出す。
「……!」
黒く塗りつぶされたメイクの奥の瞳が、ごく僅かに見開かれたように見えた。リヒトの素早さ、身のこなしに少なからず驚いたようだ。
リヒトは掌でピエロの顔をがしっと掴むと「おらぁっ!」と噴水の水面に叩きつけた。
パーン、という派手な音と共に水柱が上がる。
夜の広場がまた静けさを取り戻した。
噴水の水音だけがちろちろと響いている。
リヒトは噴水から離れて様子を窺うが、上がってくる気配がない。
まさかこれしきのことで死ぬはずがないだろうが……。
この隙にあの馬車を追わないと。
既に馬車の姿は見えなくなっていたが、今ならまだ間に合うかもしれない。
踵を返した時、左上腕に鋭く走る痛みに片目を瞑った。バタバタっと石畳の上に落ちる血液。押さえた白手袋がみるみる鮮血に染まっていく。
「っ……、いつの間に……?!」
「やるじゃあないか、ガキ……。」
顔を上げると、ざばぁと音を立てながら噴水の中でピエロが立ち上がった。
水で崩れたメイクのせいで、黒い涙を流しながら笑っているように見えて、リヒトの背中にぞくりと冷たいものが這った。
「ふっふふふふ……、どうしたぁ?左腕が痛むかぁ?」
「黙ってろ……。」
隊長と約束したんだ。アヤメさんを守るって。
厳しくも優しく自分を導いてくれるヤマト。
絶対に弱みを見せないが、おそらく誰にも理解できないものを心の中に抱えている。
だからあの人と一緒にいるべきだ。
あの人となら、上手くやっていける。
2人の関係はまだよく分からないが、そんな気がする。
オレの直感はいつだって当たるんだ。
間違いない。
だから ——
「お前なんかに構ってる暇はねぇんだよ。2人の邪魔すんな。」
サーベルを斜め下に振り払うと、切っ先をピエロに向けた。
エメラルドグリーンの瞳が真っ直ぐに正面を捉える。
「ナメるなよ……。オレはエルリア帝国軍特別武装治安維持部隊の軍人だ。オレの任務は、お前みたいなやつからこの街を守ることだ。」
ピエロは裂けたように見える口元をさらに歪ませて嗤った。手元の鉈を構え直したときだった。
「よく言ったぞ、リヒト。」
「アンタもたまにはいいこと言うじゃない?」
その声にリヒトが振り返ると、そこに居たのはシデンとレアだった。
リヒトにとって、先輩の軍人2人。
「シデンさん、レアさん?!どうしてここに……」
リヒトの驚いたような、でもどこか少し安心したような表情に、シデンとレアが思わず目を合わせた。
「……ま、偶然だよな、偶然。」
「ほんと、
そうやって2人は口元に笑みを浮かべたが、リヒトの頭の上には「?」と疑問符が浮かんでいる。そんなことはお構いなしに、軍靴のブーツの裏をコツコツと鳴らしながらレアがリヒトに並んだ。
「お久しぶりね。道化師サン。」
「お前ら……、あの時のやつら…」
あれはいつかの雨の日の夜。
邪魔をしてきた金色の髪に青い瞳をした女と、頰に傷のある目つきの鋭い男。
見覚えのある2人のその姿に目を細めた。
「シデンさん、レアさん。こんなやつ、オレ1人でもやれるっすよ!」
「そう言うなって。オレたちの任務における最大の目的を忘れたか?」
はじめ、むっとしたような表情を浮かべたリヒトだったが、思い出したかのように呟いた。
「……帝都の人を全力で守ること。帝都の人を脅かす者は、徹底的に叩きのめすこと……。」
「そうだ。その為には手段なんて選ばない。」
「私らは猟犬部隊とも揶揄されてるくらい、複数人での戦闘が得意なの。私たちにとって、帝都は目を瞑っても歩けるくらいの庭。そんな中であんたは獲物でしかない……。」
レアとシデンが革製の腰ベルトに下げられた鞘から、サーベルを抜いた。
「さぁ、狩りの時間よ。」
静寂が訪れる。
どちらが先に動くか、お互いに探り合う。
瞬きすら許さない。
指一本の動きさえも見逃さないように。
どれくらい経ったときだろうか。
ピエロが急に右手をだらんと下げて、鉈を放った。からん、と乾いた音を立てて転がり落ちる。
そして無言で両手を挙げて、まるで敵意がないような素振りを見せた。
「なんだこいつ……、ふざけてんのか?!おい!」
怒るリヒトを手で制したシデンは、警戒しながらも鉈を拾い上げる。
「……とにかく、こいつは警察に引き渡そう。」
「怪しいわね……。足の一本でも折っとくべきよ。」
「レアさん、怖いっす……。」
「何言ってんの?
「……。」
確かにヤマトならやりかねない……、と思ったがさすがに口には出せなかった。(別に本人が聞いているわけでは
ないとは理解しているが……)
シデンにより両手を後ろ手に縛られ、腰縄をつけられるピエロの様子を傍観していたリヒトだったが、突然、
「あっ!?」
と大声を上げた。
驚いたシデンとレアが怪訝そうな顔をする。
「どうしたんだよ、お前……」
「わ、忘れてた……、アヤメさんを助けないと……。」
「誰なの?それ」
とレアが問いかけるも、リヒトは答えずにピエロの襟元を掴んだ。
「おい!アヤメさんをどこに連れていったんだよ?!」
「知らねぇなぁ……、今ならまだ追いつくんじゃねぇか?ふふふ……」
「てめぇ……!」
その時、大通りから馬車を引いた行商人がやってくるのが目に入った。
はっとしたリヒトがその中年の行商人の男に駆け寄ると、「おいオッサン!ちょっと借りるぜ!」と、馬から荷台を離していった。その手際の良さに行商人の男は「えっ?!ちょっと……」と、混乱していたが、リヒトがあっという間に馬に跨る。
それは見事な
「よーしよし、いい子だ。オッサン、この馬、馬車馬にしとくには勿体ねぇぞ?軍馬にくれよ。」
「何言ってんだ?!い、今すぐに返してくれ!仕事があるんだ!」
慌てる男の横で、レアが「へぇ」と感心する。
「そういやあんた、士官学校で馬の扱いだけは上手だったんだっけ?」
「だけって失礼な!乗馬は子供の頃からやらされてたんっス。家に馬を飼ってたこともあるんっすよ。」
「さすが代々、海軍一家のお坊ちゃんね。」
「おいレア!悠長に言ってる場合か?!リヒト、この人が困ってるだろ?!返してやれ!」
このメンツの中では比較的、真人間の自覚があるシデンが真っ当なことを言うのだが、
「隊長に伝えといてください!アヤメさんのことはオレに任せてくださいって!」
と、リヒトは全く聞く耳持たずに馬を走らせて行ってしまった。
「だから誰なんだよ?!それ!」
シデンの言葉も虚しく、リヒトの背中はどんどん遠くなっていくだけだった。
「おい!お前ら、軍人のくせにこんなことして……!どうしてくれんだ?!」
怒りを抑えきれない行商人の男に対し、レアはさして興味もなさげに
「あー、あとで謝りにいくって。うちのムカつく眼鏡の上官が。文句ならそっちにいっくらでも言ってくれていいから。」
と適当なことを言い放った。
「謝って済む問題か?!ああああぁぁ…オレのディープブラック号が……!」
「えっ、ダッサ。そんな名前つけてんの?どうせならもっとカッコいいのにしない?そうねぇ、ノワール号なんてどうお?」
「お前はちょっと黙ってろ、レア!すいません……こいつ、ちょっとおかしくて……」
シデンは、今日ほどヤマトの存在の有り難さを痛感したことはない。
こんなに言うことを聞かない部下たちを束ねているなんて、ヤマトの心中、察するに余りある。このままだと彼は若くして胃に穴でも開いて死ぬに違いない。
格子の掛かった小さな窓から漏れてくる月の光が、エルリア警察署内の狭い取調室内を蒼白く照らす。
娼婦殺しの件で連れてこられたティム・スコルドが椅子に腰掛けてぽつりぽつりと話し始めた。
「金を渡すからと脅されたんだ……。知り合いの若い女を紹介してくれって……。身寄りのない女がいいと言われた。」
その声は僅かに震えている。それはおそらくこの部屋の底からくる冷気のせいではない。明らかに何かを思い出して、怯えている様子だ。
「それでエイミーさんを紹介したのですね。なぜ彼女が殺されたと知っていたのですか?」
ティムに対面して座るクロウの口調は彼を咎めるようなものではなく、いつも通りの柔らかい物言いだった。
「あいつが明らかにおかしいやつだったからだよ!」
「それでもエイミーさんを紹介したのは……」
「わかんねぇのか?!そうしないとオレが殺されるからだ!仕方なかったんだ!あいつは身寄りのない娼婦だったし……」
「身寄りのない娼婦だから殺されてもいいって言うのか?」
腕を組んで壁に背をつけて話を聞いていたヤマトが口を挟んだ。
「身寄りがない女だろうが、娼婦だろうが、彼女は一人の人間だったんだぞ。」
「お前に何が分かるってんだよ?!」
「そうだな。私がお前の立場なら謹んで殺されているだろうな。自分のせいで女が殺された、なんて罪悪感に一生苛まれたくない。殺されたほうがマシだ。」
「っ……」
何も言えずに俯くティムを、クロウはただ見つめていた。
ヤマトの言う通り、これからこの男は、彼女を殺させてしまったという十字架を背負って生きていかなくてはない。ただ、彼の供述通り、脅された末の出来事というのであれば、少なからず同情の余地はあるような気もする。それはきっと、ヤマトも同じ気持ちだったのだろうか。
「教えてやりたいな。お前のせいで、彼女がどんな風に殺されたのかを。」
そう言うだけに留まった。
それ以上、知る必要がないだろう、と。
エイミー・ルー。
彼女が血液を抜かれて殺害された末に、子宮を奪われたと知っても、彼は「仕方なかった」と言うのだろうか?
取調室から廊下に出たヤマトがため息をつく。疲れたのだろう、眼鏡を外して目頭を押さえるヤマトの仕草が、クロウにはいかにも神経質そうな人間に映った。
「どう思う?」
「彼の話を全て鵜呑みにはできませんが、少なくとも彼は直接、エイミーさんの殺害には関わっていなさそうですね……。金を渡してきた男というのが、殺害した犯人なのでしょうか?」
「どうだろうな。金を渡してきたということは臓器売買目的の組織絡みの可能性もあるが……。身寄りのない女を選んで捜索を遅らせている辺り、用意周到というか何というか……」
「えぇ。ですが、そこからどう軍人殺しの犯人と繋がるのか……。とりあえず僕はその男のことを聞いて、詳しく調べてみます。」
そこに「隊長」と、廊下の反対側から声がして、シデンがヤマトに駆け寄ってきた。歩を進める度に、かちゃかちゃと腰に下げたサーベルの金属音が鳴る。シデンは律儀にもクロウに軽く一礼するとヤマトに向き直った。
「アークレーの軍人殺しの容疑者を捕らえました。」
思いがけないその一言にクロウは「えっ?」と衝撃を受けたが、ヤマトの方は特に驚いた様には見えなかった。
「そうか。よくやった。」
「ですが、一つ問題が。そいつの仲間に女性が拐われたようで、リヒトが追っています。」
「……何?アヤメが?」
「え?……えぇ、確かそんな名前を言ってたような……。お知り合いですか?」
ヤマトは問いには答えず、唇に指を当てて何か思案するような仕草をする。
しかし彼の中の優先順位は、そちらが上ではないようだ。
「……で、そいつは?」
「警官に引き渡したので、もうすぐここに……」
シデンの鋭い目線の先に目をやると、廊下の向こう、2人の警官に挟まれて階段を上がってくる人物の姿が見えた。
その姿が顕になると、ヤマトは眼鏡の位置を中指で直しながら、思わず眉間に皺を寄せる。
「おい、あんなイカれたやつに殺されたっていうのか?」
正気とは思えない。
白塗りに口が裂けたような赤い口紅のメイク、派手な格好。道化師なのだろうが、誰かを楽しませるには些か狂気的すぎる。
本当にこんなやつに殺されたのか?
表情が窺えるような距離まで来たとき、ピエロはぴたりと歩を止めて、ゆっくりと顔を上げた。
「イカれてんのはお前も同じだろ、ヤマト・ヴィルトール。お前からは血の匂いがするぜ。」
「……!」
その耳障りなほど掠れた声と病的な笑みは、不快感にも似た感情を湧き起こし、ヤマトが僅かに目を細めた。
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