第2章 |蠍姫《ククリ》・終

座標不明 〝聖室〟内部


「お初にお目にかかります、ラ族が守護神にしてゴ族の庇護者、蟲神キョトーよ」

『こそばゆいわ、崩せ、崩せ。我はただ、無駄に齢を重ねた蟲に過ぎぬ』


 堅苦しくするなとの返答に、わずかに胸をなで下ろす。無意味に緊張しながら話すのは、カイトの性に合わないからだ。


「主よ。こちらにおりますのが――」

っておる。カイト・スメラギ、カルセドニアの武装隊商アルフに属する尖兵よ』


 ただ、ククリの言葉は堅い。

 自らが奉ずる神サマが相手となれば、そうなるのも当然だろう。

 けれどもキョトーは、どことなく退屈そうに彼女の発すべき言葉を奪った。



「はっ。此度は彼のものが――」

『それも識っておる。今代も<祈り手>は頑固でかなわん。早う慣れろ、我はひとりのじじいに過ぎぬ』

「ですが、」

「ククリ……多分、キョトーはその口調、好きじゃないよ」

「う」


 堂々巡りの気配を感じて、カイトが思わず口を挟んだ。

 バッサリ切られて、にわかに逡巡するククリ。怒るんじゃなくて悩みだすあたり、うすうすは感づいていたんだろう。

 そうは言っても相手は神と崇めたものだ。そう簡単に教えられたしきたりを曲げることは出来なかったといったところか。


「わかり、ました。……これでいいですか?」

『十全よ。無理を言ったの』


 罪悪感と遠慮とがない交ぜになった顔のククリに、ほっほとキョトーは笑ってみせた。

 しかしアレだな。

 宙づりの芋虫がぐねぐね動いて喋るのは、なかなかに異様な光景だ。

 どう見ても巨大なだけの芋虫なのに、なぜか機嫌の良さだけは伝わってくる。

 

……神の微笑は、必ずしも好状況を意味しない。

 キョトーと話をするときは、あまり視覚に頼らない方がいいかもしれない。


『さて、カイトよ。愚かなラナンの小童よ』

「そこは尊大なんだな」

『古の盟約ゆえにの。愚かであったラナンのすえは、等しくこう呼ばねばならぬ。たとえお主に、芥子粒ほどの含みもなくとも』


 神サマというのも、色々と面倒らしい。


『さて、童よ。――〝神話〟の姿を求めたな?』

「ああ」


 カイトは頷く。ククリがカイトの隣にその半身を横たえる。


『掛けよ。……神話は長い。椅子もない草原くさはらでよければだが』

「それなら、カイト。私の背中に座ってください」

「重くないか?」

「今更ですよ」


 それもそうだ。聖室までの道のりを、彼女に乗って過ごしたのだから。


「じゃあ、失礼して」


 再び彼女の中体に腰を下ろすと、ククリはわずかに姿勢を変える。カイトの脚の長さに合わせて、その高さを調節したのだ。


「ありがとう」

「お安いご用です」


 どことなく自慢げに微笑むククリ。そんなに嬉しいことなのか、これ?


(童よ。気にしてやるな)


 ふいに、脳裏にキョトーの声が聞こえた。……耳ではなく、頭の中に。

 別に驚くことではない。思念を介して会話を行う特殊技能――「念話」だ。

〝神サマ〟を自称するなら、それくらい出来て当たり前のことだろう。


(ラ氏のおんなは背や肢に人を乗せたがるものなのだ)

(それは、習性か何かが?)


 試しに頭の中に文字列を思い浮かべた。左様、とふたたび声がする。


(ラ氏のおんなは、仔を背に乗せて庇護するものぞ)

(あぁ……)


 キョトーの言葉に、深く納得するカイト。

 そういえば、蠍とは母が仔を背に登らせて守り育てる生き物だ。

 思えば、カイトは最初から膝枕されていた。よそ者にするにはやけに手厚い介抱だとは感じていたが、そうか、そういうことなのいわゆる母性本能か。


(ラナンはラ氏の身体に比べ、それこそ仔のごとく小さい。付き合ってやるがよい)

(わかった、気にしないことにする)


 楽させてもらっているし、なによりククリが楽しそうなら突っ込むのも野暮というもの。存外、キョトーが念話に切り替えたのも同じ理由かもしれなかった。


「どうかされましたか、キョトー様」

『なに、つい先日まで赤子のようであったお前が、その背に誰かを乗せるときがきたのかと、少しなぁ』


 ククリに問われて、何事もなかったかのように受け流すキョトー。額面通りに受け取るのなら、本当に気のいい爺さんでしかない。


「初めてお会いしてから、とおと七つの雨期が過ぎていますから。赤子も早ければ、親となり仔をもつ時期です」

『仔のぅ。顔を見るのは楽しみじゃが、望み薄よの』

「はい。申し訳ありません」

『よい。謝るべきはつまらぬ戦をけしかけたゴ族の阿呆よ』


 ふと、集落の様子を思い起こした。

 ククリに、ウルスに、側の子達トゥッティに。……そして、家事に勤しむ少女達。


(ああ)


 思い至る。


(男が、ほとんどいないのか)


 既に、ラ族は斜陽にあるのだ。

 そんな顔をなさらないでください、と、ククリが零す。


「時間は掛かりますが、蠍人族は雌性だけでも仔を産めますから」

「うん? あ、そうか、単為生殖か」


 確かに、蠍の一部は個体数が少なくなると雌だけで仔を産むようになる。

 上半身のラナンらしさについつい忘れてしまいそうになるが、彼女たちの生活環は、どちらかと言えば蠍の方が本体なのだ。

 ヒト種ラナンの尺度で考えてはいけない。

 ほっほ、と、芋虫が身をくねらせる。

 ゆっくりと大地に降り立ち、そのままもぞもぞとククリの脚を登り始めた。

 ぺとぺとぺとと、かの腹脚が気の抜けそうな音を鳴らした。


『ラナンには逆立ちしても出来ぬ芸当よな。なればこそ、性の片割れを失えば滅ぶと考えても不自然ではないの』

「失念してたよ。大帝国カルセドニアじゃ蟲人族は見ないから」


 いまカルセドニアに隷属する種族といえば、その多くが翼人種アルケー狼族ウルフェに属する、形質がラナンに近い亜人種達だ。カイトもよく知る彼らには、蠍人族のような特異な形質や生態は現れていない。そのための勘違いだった。


『だが、着眼点は悪くない』

「と、いうと?」

『その種族の差異こそが、かの神器の本質と結びついておるのだ』


 ぷひゅる、とキョトーの頭が音を鳴らした。

 見れば、眼状紋のすぐ上で、橙色の臭角が伸びているではないか。

 思わず鼻をつまみかけたカイトだったが、鼻腔の奥に飛び込んだのは、意外にも爽やかなレモンの香り。


(何だ、臭くない――)


 そう油断した瞬間、くらり、と視界が大きく揺れた。


「な」


 驚きの叫びが、口から零れ出る間もなく。


『安心せよ。少々を見るだけじゃ』


 キョトーの飄々とした言葉とともに、カイトの意識は闇へと落ちた。

 


          ◆



座標不明 〝聖室〟 夢の中


「ん、う……ここは?」

『気がついたかの』


 耳朶を打つ老爺の声に、カイトは今自分が聖室にいて、キョトーに夢を見せられているのを思い出す。

 真っ白な空間だ。どこまでも広く続いているようで、同時、一歩でも進めば壁に行き着いてしまいそうな奇妙な閉塞感すら覚える。

 試しに頬をつねってみると、きちんと痛い。

 夢と呼ぶには、ずいぶんと感覚のはっきりとした空間だ。

 ほっほ、と、気のいい笑い声。


『それくらいで目覚めるようでは、神の名折れじゃの』


 視線を向けると、緑マントの老爺が一人。

 首の下には珍妙な歯車機構が垂れ下がり、きちきちと小さな音を立てている。

 マントのフードに刺繍された茶色い斑は、アゲハチョウの幼虫、その眼状紋を思い起こさせるカタチをしていた。


「キョトーなのか?」


 カイトの問いに、いかにも、と老爺が応える。

 首から下がった歯車機構が、小刻みに駆動するのが見えた。


『この身もずいぶん衰えた。もはや人の姿を取ろうにも、斯様な場所に入らねばならぬほどにの』


 それは多分、蟲人族が衰退しつつあることと無関係ではないのだろう。

 神サマといえど、信じる者がいなくなればその存在を維持することが出来ない。

求めよ、さらば与えられんPetite et accipietis.』。

 カルセドニアの神官はそう唱えていた。観測し、存在を堅く認める自分ラナンたちの存在こそが、神サマの存在証明に他ならないと。

――霊長の時代、遙か遠い昔に記されたはずの、聖典の記述を引いて。

 ふと、周囲を見回してみる。

 だだっ広くそして狭いこの夢の中には、カイトとキョトーのふたりだけ。


「そういえば、ククリはどこに……?」

『あの娘はここに入れぬ』


 資格がないのでな、とキョトーは続けた。


『童よ。おぬしは自信の神呪に、疑問を覚えたことはないか』

「疑問?」

『左様。いかに素朴なものでもよい。理解ではなく出来ぬことはないか』


 確かにある。根本的で、それでいて避けようのないその所作が。


「なぜ、神呪は強さと種類が一定しないのか。そう思ったことは何度でもある」


 どうしてテマは、ああも弱い神呪を得てしまったのか。

 どうして、カイトにはこうも尖った権能が顕れたのか。

 神サマにすら予測できないその所作は、如何様にして生じてしまうものなのか。

 マントの老爺は、ふん、と満足気に鼻を鳴らした。


『答えは、そなたら自身の中にある』

「答えになってないぞ?」

『そう急くな。……童よ。お主にも覚えがあろう。

 あるとき急に、神呪の権能が変質したことはなかったか』


 言われてすぐに思い至った。ククリと剣で仕合ったあのとき、確かにカイトの神呪――『魔術師メイガス』はこれまでと全く異なる反応を示したはずだ。


「確かに、ある」

『なればその前、お主の中に大きな変化がなかったか』

「ああ、ある」


 忘れるわけもない。

 エンジュがカイトを庇って消えた、あの一幕の顛末を。


「まさか」


 カイトの言葉に、気づいたようじゃの、とキョトーは笑う。


『神呪とは己の写し身。頂点に座するすら言うに及ばず、有り様は総て、使い手たるお前達自身の望みの姿に他ならぬ』

「じゃあ、神呪の出力に隔たりがあるのは」

『心に秘めた己が望みを、どれほど強固に抱いているか――それに尽きるの』


 カイトはずっと、正体の分からない焦燥感にさいなまれていた。

 目的が何であるかも曖昧なまま、ただ、ひたすらにこう願っていたのだ。

 ――、と。

 そして、テマは。

 

『たぶん、大丈夫。そんな心配しなくても』

『カイトはね、自分が思ってる以上に、誰かとか、何かのために頑張ってる』

『だからね』

『そんなカイトが悩んでいるなら、それはいつか、きっと解決すること』


 残酷なほどに――独力で取り組む意思に

 はは、と乾いた笑いが漏れる。

 

「テマの神呪を弱めていたのは、僕だったのか」

『それで済むほど幸せだった、ということでもあるのぉ』


 キョトーの補足が、トドメになった。

 思いを馳せる。

 テマは無事に、カルセドニアに戻れたんだろうかと。


(早く、戻らないと)


 彼女の所へ。

 それからしっかり頭を下げて、今度こそ放り棄てていかないように約束するのだ。

 今なら分かる。

 長く一緒に過ごした相手が、戦場に取り残される。――その心細さは、きっと彼女の心を深く深く蝕んでしまうから。

 畜生、と心の中で吐き捨てた。

 彼女のためにとひとり残った選択が、ここまで後悔を伴うものだとは、ついぞ思っていなかったから。


『戻りたくなったかの、おぬしの故郷に』

「ああ、すごく。……爺さん、あんたそれが分かっててこの話を振ったな?」

『真面目にやる気になったじゃろ?』


 相当に人が悪いぞ、あんた。

 そう言いたいのをぐっとこらえて、深呼吸。


「それじゃあ、単刀直入に聞こう」


 うっすらと微笑を浮かべる老爺に向けて、カイトは尋ねた。


「ククリの神呪けんでベル・ゴに勝つには――どうすればいい?」


 かちり、と。

 カイトの言葉に合わせるように、歯車機構のギアが変わった音がした。

 

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