第2章 |蠍姫《ククリ》⑦
カイトの手記
知っての通り、僕には小さな頃の記憶がほとんど残っていない。
神呪の夢で見た部分以外、すべてが靄にかかったように触れることが出来なくなってしまっているんだ。不思議なことに、夢で一度見てしまえば、違和感なく思い出すことが出来るようになるのだけれど。
ともあれ。一度記憶をなくしたせいか、僕は記憶するという事柄にあまり深い信頼を寄せることが出来ないでいる。
だからこそ、モノとして記録が残る『本』という媒体に惹かれていった。
本を集めて、それを中身で分類してから、その分類をまた目録として記して遺す。その作業を続けていけば、きっと誰もが
本題に戻ろう。
テマとはぐれて、エンジュも折れてしまった今この瞬間。骸の荒野にラナンとして生きているのは僕ひとり。いつ消えてしまうのかも分からない頭の中に、大事なことをすべてしまっておくのは心許ない。だから僕は、手記を付けることにした。
というのも、ラ族に受け入れられてからこちら、文化の差異に驚き通しであるからだ。『キョトー』なる神を奉ずる彼らラ族は、文字という文化を持たない。文字を持たないのだから、記憶や経験、そして技術の伝達にはすべて言葉と音楽とを用いなければならない。
そして、話を聞く限り、デメリットは着実に広がっている。
この手記は、これから僕のすることと、それまでの彼らの姿、両方の記録になる。
きっと、僕のすることは彼らを大きく変えてしまうし、何なら僕自身、彼らと深くふれあうことで、価値観を変容させてしまうだろうから。
それが神サマの望んだことではないのは、火を見るよりも明らかなのだし。
願わくば、僕がこれを持ち帰ることが出来て、いつの日か、誰かの目に触れますように。
帰れるかな。帰れるといいな。
出来るなら、神サマに許婚を変えられてしまう、半年の猶予のあいだに。
◆
明朝 “殻の荒野” 北西部
マトラ・オアシス臨時集落 沐浴場
キョトー神への目通りは、思いのほか簡単に叶ってしまった。
ククリ曰く、
「そんなに畏まるものでもないですよ。主は誰に対しても寛容です」
とのことだった。
昨日、ラ族に“文字”の概念がないことを知ったその場において。
カイトは二人に、神話について詳しく知るには、どういう手段があるのかを尋ねることにした。
意外にも、揃って渋面を見せるふたり。どういうことか尋ねると、こと教えについてだけは、歪んだ伝承を防ぐために許可なく教示してはならないのだという。
「キョトー様は民に対して直接教えを下されるのです。かつて、広く教えを説いた者の曲解によって、不本意な争いが生じたのだと」
「だからこそ、族長である私に許されたのは祈りだけ」
「そして、その兄である私に許されたのは神へと奉ずる歌だけ、というわけだ」
「それはまた、厳格な」
「麗翅の民が滅んだ理由が、そこにあったらしい。私もキョトー様から伺っただけに過ぎないが」
なるほど。
もしかすると蟲神キョトーは、同族同士で争って欲しくないと思っていたのかもしれない。……甲翅族と蠍人族が争っている以上、もはや叶わぬ願いだけれど。
そういうわけで、カイトはキョトーと何とかして会えないものかと尋ねてみることにした。そこでしか教えに触れられないというのなら、正面切って行くしかない。
根底の理由が理由なだけに、門前払いかもしれないけれど。
そう考えたカイト自身の予想に反して、ククリたちはそれなら、と快諾する。
「ベル・ゴですら謁見を許されるのです。カイトさんが拒まれることは絶対にありませんよ」
「ベル・ゴ?」
唐突に引き合いに出されたゴ族の首領に、面食らう。
というか何をしたんだベル・ゴ。
「死んだ
「えっ」
「その後平然と、同じことを頼みに来ました」
「は」
「それでも拒まれ、聖室ごと己の番を焼き捨てました」
「わぁ」
「そこまでしても、礼拝は拒まれていません」
「えぇ……」
なんだその蛮族。
……ナチュラルボーン蛮族だったわ。
とにかく、そこまでしても無礼には当たらないとのことで、異種族であるからといって扱いが変わるわけでもないらしい。
ただし、あくまでもかの神が定めたルールに従うならの話だけども。
そして、今に至る。
いかに門戸が広いといっても、神は神。会うためにも多少の準備は必要らしい。渡された白いローブを身に纏い、カイトは件のオアシスへと訪れていた。
「……沐浴かぁ」
何をさせるつもりなのかは、あらかじめククリから説明されていた。
曰く、白いローブを着たままオアシスの中央へと行き、祈り手たるククリの指示に従って、穢れを落とす必要があるのだとか。
沐浴。あるいは
それこそ、これが盛んに行われていたのは神サマが顕れるより昔の話。今となっては、「そういう文化があった」程度の認識でしかない。
ラ族の生活様式を見ていると、所々に文字通り前時代的な様式を見ることができる。もしかすると、こちらの方が本来的な人の在り方だったのかもしれないと思わされる部分すらあった。
当然か、と思う自分もいる。
そもそもが、カルセドニアの在り方自体、神サマに与えられたモノなのだから。
「用意はいいですか?」
考えにふけっていたら、ククリの声が背後から。
「ああ。着るのはこのローブだけ――って」
のんきに後ろに視線を向けて、カイトは固まる。
「ん? どうしましたか?」
あくまで柔和な微笑みのまま、小首をかしげるククリ。
下半身は蠍の姿。それはいい。問題は上半身の服装だ。
カイトの視線に気づいたのか、ククリはああ、と手を打った。
「なんで何も着てないのかってことですね?」
そう。
沐浴場に訪れた彼女は、ほとんど全裸だったのだ。
いや、完全な全裸ではない。
辛うじて、細長く薄い白布を肩に一本羽織ってはいる。いわゆるストラにあたる装飾なのだろう。
けれど、その布が肌を隠しているかというと、そうでもない。丁寧に折られ縫われた白布の端は、その軽さ故に微風でもふわりふわりと揺れていて。ひとたび強い風でも吹こうものなら、ほっそりとした体躯の割にはかなり大きい膨らみが、白日の下に晒されてしまいかねない。
ハッキリ言って、目に毒だ。
「もしかして、蟲人族の禊ぎって」
「はい。身体を清め、聖別された衣服を纏って聖室へと赴く手続きです。
私達はともかく、蟲人族の多くは服を着る習慣がないので……」
神の御前に来るときくらい、服を着せるという配慮なのだという。
その手続きを円滑に行うために、具体的には服を忌避する一部の甲翅族たちのために、ククリのような祈り手もともに裸身で身を清めるのだとも。……よく見れば、確かにオアシスの向こう岸には布の入った籠がある。
アレを着てから、この先へと進むのだろう。
「兄さんの言うとおり、ストールだけでも羽織っておいてよかったです。
きっと彼は恥ずかしがるだろうから、って笑ってましたよ?」
つまり、ウルスに言われなければ全裸だったということか。
有り難いけど、逆にそそる格好になってしまっているのは問題だ。
「そうだね。ラナンはあまり、女性――いや、雌性の裸は見ないものだから」
曖昧に答えたカイトの言葉に、不思議ですね、と苦笑するククリ。
「この世にいただいた身体なんです、誇りこそすれ、恥ずかしがるなんて」
「大事な身体だからこそ、しまっておきたいんだよ、きっとね」
「そういうことにしておきます」
何だろう、なんとなく勝ち誇られている気配を感じる。若干悔しい気持ちがしたので、気恥ずかしさを投げ捨ててククリを真っ正面に見ることにした。
「雑念は、もうなさそうですね」
「うん。よろしく」
カイトが頷くと、ククリはオアシスへと向けて歩き始めた。
しゃらん、しゃらん。
彼女の歩みとともに、静かな鈴の音が周囲に響く。
出所は、彼女の毒尾の先端だ。兜のような先端の下に、玉のように連なった鈴が括り付けられている。尻尾の無骨さにはやや似合わないが、薄桃色の百合の生花もあしらわれているようだ。
周囲の景色も相まって、どことなく退廃的な空気。自ずと神妙になってゆく心とともに、カイトはククリの後をついて行く。
幸い、オアシス自体は深くない。細かく踊る水草の感触を膝の辺りに感じつつ、ふたりは水面の中央へとたどり着いた。
「『
ククリが零す。神呪の詠唱とは大きく異なる、詠唱文を。
「『
ふと、周囲に魔力を感じる。具体的には、自身と水との境のあたり。
「『
しゃらん。
鈴の音が、一度。
魔力を含んだ水面が大きく踊った。そのままそれはローブの上を這い上がり、少しずつ、カイトたちの体表を覆い尽くしてゆく。
口、鼻、耳、目。すべての部位に例外はない。
カイトは今、呼吸ができる水の膜に包まれていた。
しゃらん。
詠唱を最後まで聴くことは能わなかった。
けれど微かな鈴の音だけは、膜を通して耳の中へと飛び込んでくる。
しゃらん、しゃらん、――しゃらん。
最後にひとつ、ひときわ大きな音がして、一瞬。
「ぷはっ」
先ほどまでと同じくらいに唐突に、オアシスの水は力を失う。
後に残るは、朝特有の穏やかな静寂のみで。
「驚きましたか?」
ククリが問うた。なけなしのストラさえ今はすっかり水を含んで、彼女の身体にぴったりと貼り付いてしまっていた。
まあ、これ以上は何も言うまい。
「……雑念」
少しだけ、じっとりとした視線を向けられてしまう。
うん――何も言うまい。
まあいいですと、ククリは小さく肩をすくめた。
「少しだけ、魔力の巡りが良くなった気はしませんか?」
「うん? あ、確かに」
言われて気づく。
確かに、全身から少し疲れが取れたかのような、奇妙な爽快感がそこにはあった。
「主の魔力には、魔力の淀みを吸い取る力があるそうです」
にっこりとククリは笑った。
「安心してください、カイトさん。
それを感じたということは、歓迎されているということですから」
「歓迎、かぁ」
なんとなく複雑な気分になって、言葉を濁す。
これからカイトは、ククリに戦う力を与えるために、かの神サマに会いに行く。
相手はベル・ゴ。正直に言って、勝ち戦にはほど遠い。
もし本当に戦うのなら、みすみす死にに行かせるような話なのだ。出来ることなら、無理して戦おうとするのではなく、何とか逃げ延びて欲しいと思うくらいには。
神サマだというほどだから、事情もカイトの思惑も、大体分かっているはずだ。少なくとも、カルセドニアの神サマたちは、全員もれなくその権能を持っていた。
それなのに、歓迎。
なんとなく、釈然としない気配を感じた。
「とりあえず、会ってみないとね」
伝聞だけで印象を断ずるわけにもいかないだろう。
いずれにしても、カイトは情報が欲しいのだから。
「では、向かいましょう」
ククリが続けた。
「我らが主――蟲神キョトーの聖室へ」
しゃらん、と。
行く末を占うように、毒尾の先が小さく揺れた。
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