第2章 |蠍姫《ククリ》⑥
“
マトラ・オアシス臨時集落 沐浴場
――カルセドニアに、知識が集う場所はない。
神殿が遍くラナンに開かれて、誰もが安価に叡智を授かることが出来るから。
そこに書き手と紙とが挟まる利点はどこにもなかった。曲解と誤解とが生ずるリスクを、奢侈品としての本を入手してまで高める意味など皆無に等しい。
だからこそ、ラナンは探求という概念を忘れてしまった。彼らにとって知識欲を満たすこととは、薄い銅貨を水盆の中に投げ入れることと同義である。
(どうしてだかは、分からないけど)
カルセドニアに招かれてから、カイトはずっとこの風潮を敵視していた。
具体的な理由はない。
別に、神サマが要らないとかそういう不敬を実践しているわけでもない。ただ、そういう事実を知れば知るほど、違和感ばかりが胸の底へと募ってしまうだけなのだ。
例えば、今、この瞬間。簡易神殿を備えた風力艦は既になく、カイトは単身、敵地ともいうべき荒野の中に逗留している。
ぽちゃん、と遠くの水面が踊る。
カイトの投げた白銅貨が、オアシスに沈んだ音だ。
そして、静寂。
「……まあ、来ないよね」
独り言つ。
この状況で硬貨をひとつ投げたところで、神サマは応えてくれない。
敵地に神の
「今のは、何ですか?」
「ここでは価値のないものだよ」
興味津々に尋ねたククリにカイトは告げる。
そう。骸の荒野で、帝国貨幣に
「ラナンはこうして、困りごとがあると神サマにお伺いを立てていたんだ」
「なるほど。カイトさんたちの奉ずる神は、“与える神”だったのですね」
「与える神?」
「ええ。正しく祈ればその場で総てを与えてくれる、もっとも実利の多い神。私達ラ族が奉ずる蟲神様は、積極的に救いを与える神々のことをそう呼んでいます」
蟲神。ウルスの詠んだ『キョトー』なる神格のことなのだろう。
「ということは、その蟲神様は」
「“導く神”と称していました。救いの代償は軽々に欲するにはあまりに重く、実利よりも在り方の提示を是とする神々、その一柱であると」
なるほどそれは道理だろうと、カイトは思う。
手塩に掛けて民を守って、対価として信仰を得る神サマと。
信者たちを教え導き、結果として自身を奉ずる民を遺そうとする神様と。
いずれも、間違った方針ではないのだろう。
どちらもおそらく正解で、そして同じく致命的な弱点を抱えているのだ。
『世界に神が顕れて、霊長の時代は死んだ』。
前文明において、ラナンは『家畜化された猿』であると定義されていたという。
かつてのラナンは、自らの文明によって己自身を家畜と化した。今のラナンは、そうした彼らが正しく
時々、ふと思うことがある。
もし、今現在のカイトのように、神サマの加護からラナンがはぐれた場合。
水盆に飼い慣らされた彼らラナンに――生きる力はあるのだろうか?
「それは、神様同士喧嘩になりそうだ」
「してるじゃないですか。まさに、今」
「確かに。……存外、ラナンがずっと戦争してるのもそのせいなのかも」
下らない妄想レベルであるけれど。
「そうか」
雑談に興じているうちに、カイトの脳裏にある考えがひらめいた。
「
それは、使い道の分からないククリの神器について、その調査の糸口だった。
◆
同地域 集落西部
書庫運搬車“モストーラ” 残骸
『善は急げ』。ラ族とかつて友誼を結んだ先人は、まったく良い言葉を残してくれたものだと思う。その有り難い訓示を実行すべく、カイトはククリとウルスを連れて、モストーラの残骸へと足を運んでいた。
カイトとともに骸の荒野を旅した彼女の残骸は、丁寧に麻縄と杭とで固定されていた。書庫区画と居住区画、それから操縦区画は完全に分離してしまっていたが、もとよりあった隔壁が扉となって、それぞれが独立した掘っ立て小屋として機能している格好になる。
……ちなみに、脚は完全にガラクタと化していた。割けて砕けた象脚たちは、さながら薪のように整然と積み上げられている。
「直すのに時間がかかるっていうより、これ、実質造り直しじゃない?」
「蠍人族には繕うことを得意とする氏族がいます。集落にも少数いますので、いくつか接ぎを当てさえすれば直せるかと」
時間がかかるのはその接ぎ探しです、とククリが応えた。
「この荒野で、それだけの厚みと強度を持つ材木を探すのは難しくて」
「今、側の子たちも動員して代わりの素材を探させている。手間を掛けるね」
「いえ、全然。寧ろ、そこまでしてもらっても良いんだろうかと」
言ってしまえば、たかがラナンの客がひとりだ。そこまでして協力するメリットはさほどないはず。疑問に思って答えてみると、寧ろその発想自体が意外だったとばかりに、ククリたちはかぶりを振った。
「大丈夫です。後々に遺るものに携われるのは、蟲人族の誇りですから」
「蟲人族、特に蠍人族は、他の種と比べてもなお過酷な場所に生活している。そのせいか、比較的寿命も短くてね。……だからこそ、この世に証を残せることが、私達の生きる意味へと繋がったんだ。キミが苦にすることじゃない」
「それなら遠慮なく。よいしょ」
思わぬところで死生観を見た感があって、カイトは奇妙な居心地の悪さを感じた。
元々、ラナンは死を忌み事として話題にしない傾向があるとされている。
いわゆる、『縁起でもないこと』という部類だ。
別に、それを態度に表す必要はない。半分くらい墓穴だし。
詳しく言葉を返す代わりに、カイトは書庫区画の気密扉を強く開いた。
「良かった、傷んでない」
中の様子をのぞき見て、胸をなで下ろす。
ここまで来て砂や湿気の流入があったでは本たちも浮かばれない。何より、先ほどの思いつきが水泡に帰しかねないのだ。
「ええと、神話はB、BのL……」
区画に足を踏み入れて、目的の分類棚へ。
探すのは、神話の原典をそのまま写した、古いタイプの聖典だ。
ここ書かれた原典は、カルセドニアの新訳聖典とはかなり異なる神々が描かれている。そう、まだ神がいないとされていた時代における産物だ。
原典の書き写しだからこそ、本という形に囚われていない姿が多く収められている。具体的には石版や壁画がそれだ。
「あった」
区画の中でも奥まった棚、その一番端の下。普通であれば見落とされてしまいそうな場所に、その本はあった。
題名は解読できない。
遙か昔、ラナンがまだラナンでなかった時代における、どこかの言葉だ。便宜上、カイトはこれを『聖典写本』と呼んでいた。
元々、本というものはかさばる上に密度も高い。その上保管にも気を遣うのだから、ゲルのような移動式住居とともに持ち運んでいるとは考えにくい。
ラ族が神話を持つとしたら、おそらくそういう、本という形には囚われていないものだろう。……もっというなら、彼らの神を祀り、その言を享ける場所がどこかにあるはずだ。
放任的な蟲神キョトーが、ラナンにも寛容であるかは分からない。
見つけたら、それを誰かに写してきてもらえばいい。この本は、きっとその手がかりを得る助けになるとカイトは信じたのだ。
わぁ、と小さく声が聞こえた。
ラナンの姿に変化したククリが、カイトの後ろに立っていたのだ。
「これが、カイトの運ぶ商品ですか?」
「ああ。行く先々で本を集めて、それを売ってるんだ」
「……『本』?」
「うん?」
問い返すククリのイントネーションに、ふと嫌な気配を感じる。
今の聞き方は、『どうして本を?』、だとか、『本は売り物になるのですか?』だとか、そういう感触ではなかった気がする。
どちらかというと――本そのものの概念を知らないような。
「もしかして、知らない?」
「はい」
ビンゴ。
ククリたちは、そもそも本という概念を知らなかった。
「本というのは、知識や人の考えを、こうした形に綴って遺したものなんだ」
ちょうど手に持っていた聖典写本を、ククリに開いて見せてみる。開かれたのは色とりどりな壁画のページだ。牛らしき動物たちの似姿に、解説らしい文字列が綺麗に列をなしている。
ククリはそれをじっと見て、綺麗な眉根に小じわを寄せた。
「これは、牛……でしょうか?
後は、四角くて黒いモヤモヤが沢山ありますね」
「あー」
言葉の意味に思い至って、カイトは額に手を当てた。
「つかぬ事を聞くけど」
「何でしょう?」
「……“文字”って、知ってる?」
「初めて聞く単語ですね。本に関わる言葉ですか?」
「やっぱり」
軽い絶望感を覚えながら、カイトは己の想像力のなさを呪った。
ここは荒野。文明とは隔絶された、命の価値が低い土地。
民族としては狩猟系。
経済活動がおそらく極度に小規模な、貨幣すら持たない種族。
形式張った挨拶もなく、口頭のみで事足りるコミュニケーション。
そんな彼らが――文字を知っていると軽率に断じた、己自身の愚かさを。
◆
『かつてこの世に、己を綴る言葉はなかった』。
『聖王』の道行きを語る叙事詩は総て、この一文から始まっている。なぜなら、この一文こそ、彼を『聖王』たらしめた世界の流れ、その第一歩であったのだから。
彼の遺した偉業は星の数ほどあれど、最初にして最大の偉業と言えば、諸学派すべてが口を揃えてこう言うだろう。
それは――『すべての民に文字を与えた』ことである、と。
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