第2章 |蠍姫《ククリ》③
そこは、どうやらオアシスとでも呼ぶべき場所であったらしい。
嫌になるほどの砂の音は鳴りを潜めて、代わりに揺れる下草と、わずかな水音が耳朶をくすぐる。ほんの少しだけ湿気の混じる、温かく爽やかな風。撫でるような感触を頬に受けつつ、カイトはゆっくりとその身を起こした。
特に、身体を
「まだ、無理はしないで下さい」
辰砂の少女だ。――甲翅族の頭目、ベル・ゴに<祈り手>と呼ばれた個体。
「魔力が空っぽだったんです。下手すればまた倒れるかも」
視線を下へと向けてみる。カイトの視界に入るのは、黒銀の蠍の脚などではなく、すらりと伸びた二本の脚と、履き古した気配のある革のローファー。
デザインには見覚えがある。
飾り穴のついた丸い外形。
「キミは、ラナンなのか?」
「いいえ」
辰砂の少女はにこりと微笑む。既に鎧は片付けたのか、彼女が纏う服装は赤い刺繍が美しい生成りのキトン。
ゆらり、と彼女の後ろに長い何かが首をもたげる。
騎士兜の意匠を帯びた、蠍の尾だった。
「蟲人族の
――
「……聞いたことがない」
蟲人族でも、特に注意すべき勢力が甲翅族。あとは特筆すべき敵ではない。
それが、“藍鯨”の隊士たちの共通認識だった。
当然でしょうね、と少女は答えた。
「私達蠍人族は、先々代の族長時代に恭順していましたから。住んでいた地域も遠く、恭順以降一度も接触していません。忘れられても仕方ありません」
「……」
少女の言葉に、おそらくそれは勘違いだろうと黙したまま結論づける。
ラナンにとって、亜人種とは『敵』である。そこに味方という相反する概念は組み込まれない。恭順した氏族はすべて解体され、そのまま準国民としてヒエラルキーの最下層に吸収される。氏族単位で生き残ることは不可能といえた。
そもそもの話――それができるような距離にしか出征しないのだ。今回の“藍鯨”の主目的が蟲人族、ひいては甲翅族に絞られていたのは、そういう理屈だった。
そして、武装隊商の動向に関して、神サマは虚偽の報告を認めない。恭順した氏族について報告を遺漏するような事態は、そもそも発生し得ないのだ。
けれども彼女は、氏族がかつて恭順したと理解している。
考えられる理由はふたつ。
かつて恭順させた武装隊商がその情報を逸失するほど損耗したか、
(
――世代を経るとき、あるいはラナンの誰かと接触したとき、勘違いが起きたかだ。
あり得ない話ではない。
艦隊から落伍した商人の船が、敵勢力に磨り潰されるまでのわずかな期間で、中立寄りの亜人種たちの集落を渡り歩くことは不可能ではない。
限られた物資と商材を駆使して帰郷しようと奮闘した形跡は、わずかながらも確かに各地に遺されていた。
それが上手くいった事例については、寡聞にして一件も知らないけれど。
(とはいえ)
わざわざ「ラナンに恭順している」と勘違いしてくれている相手に、「それは違う」と訂正する必要はない。
「そういうことも、あるのか」
「ごめんなさい。私が助けに入ったときには、もう貴方しかいなくって」
彼女がいうには、甲翅族に蹂躙される艦隊を見て、単身救助に駆けつけたらしい。このオアシスから全速力で駆けつけたものの、現地に着いたときには既に、カイトとベル・ゴの一騎打ちが始まってしまった後で。
「辛うじて、倒れた貴方と貴方の乗機をここまで運ぶことは出来ましたが……」
「いいや。それだけやってくれたんだ。十分に助かってるよ」
応えつつ、今一度その身を起こす。
今度は彼女に止められることなく、膝枕から脱出できた。
周囲を見る。
まず目に入るのは、荒野の砂漠を遠くに臨む広大な
周辺の草に摩耗はみえない。踏み固められた様子もないので、おそらくは数日中に設営された集落だろう。
そして、集落の少し外側辺りに、見慣れた風力車の残骸がまとめられている。ずんぐりとした球状パーツもいくつか見える。有り難いことに、書庫スペースも回収してくれたらしい。
ふと、テマとの会話を思い起こした。
(気絶した時点で、もうダメかなとは思ってたけど)
棄てずに済んで、少しだけ胸をなで下ろす。……まあ、これをそのままカルセドニアに持ち帰るのは難しいけど。
「ねえ、……君」
辰砂の少女に問いかけかけて、今更名前をまだ聞いていないのを思い出す。
ククリとお呼びください、と少女は静かに頷いた。
「蠍人族、ラ族が族長、ククリ・ラです」
「……族長だったのか」
「見えませんよね」
苦笑するククリ。けれど、よくよく考えてみれば特にさしたる違和感はない。ベル・ゴ自身も、彼女を個として――<祈り手>として確かに認識していたのだから。
「
よろしくと、右手を差し出す。
握手を求めたつもりだったが、当のククリは彼の手を見てきょとんとするのみ。
あー、とカイトは額を掻いた。
「不慣れでごめん。ラ族の挨拶って、どうすればいい?」
「……あっ」
問われて初めて、これが挨拶に属する動きだと理解したらしい。
しばらく考えるそぶりを見せて、それから「ありません」と応えたククリ。
「挨拶といえば、言葉でするのが普通です」
亜人種の多くは、ベースに持つ生き物の生態をなぞって生活している部分がある。
蜥蜴族であれば爬虫類に似た生活様式、人狼族であれば狼のように、と。
確かに、サソリはあまり集団で生活しない生き物だ。そういう生き物をベースに持つなら、コミュニケーションを言葉と表情だけで完結させる文化ができる可能性も否定できない。それはそれで面倒がなくていいなと、カイトは内心で肩をすくめた。
「それなら僕もそれに倣おう。よろしくね、ククリ」
「はい」
とりあえず、ククリとの初対面はこれで一段落ということでいいだろう。
(問題は、これからどうするか、だな)
多少無理して運搬したのか、モストーラはもはや半ば以上に元型を留めていない。これを再び走れるように修復するには、かなりの資材と人的資源が必要になる。
かといっていつまでも亜人種の集落に居座るのも問題だ。
……カイトにはまだ、
どうせ、救助は来ない。下位の
可能なら、甲翅族と接触しないルートを通って。
(必要なのは、モストーラの修復に必要な資源と人手、帰還に必要な物資、それから土地勘のある道案内、か)
最悪、最後は地図とコンパスだって構わない。
「ククリ」
「何でしょう、カイトさん」
小首をかしげたククリだったが、これから彼が何を言わんとしているか、なんとなくは察しているようだった。
「助太刀、救助、介抱と、あなたたちには沢山お世話になってる。……その上で、重ねてお願いすることは出来るだろうか?」
「路銀と、地図と、移動手段ですね?」
ずいぶんと察しが良いな。
「無茶なことを言ってるとは思う。……でも、僕は早く国へと戻らないといけない」
具体的には、テマが許嫁から外されてしまう前に。
頼む、と頭を下げたカイトに対して、構いませんよ、と応えるククリ。
「ありが――」
「でも」
それには時間と対価が必要ですと、ククリは続ける。
「ご覧の通り、私達ラ族は現在戦時下にあります」
勿体つけて集落と、それから軍旗の方を示したククリ。
「相手は甲翅族――ベル・ゴ率いる蟲人族の混成軍です」
「なっ」
ククリの言葉が意味するところに、絶句する。
数千体は確実視される、荒野を覆い尽くさんばかりの兵数。
艦隊を食い散らかした異形の砲台。
少女が生み出す不可視の城壁。
そして何より、ベル・ゴ自身の圧倒的な戦闘能力。
それと、矛を交えようとしているのだと。
「私達の戦力は、このオアシスにある民約三百――それだけです」
「それは、」
「ええ、負け戦です。早晩、私達は滅びるでしょう」
でも、とククリは薄く微笑む。
「それでも、ただやられるだけに甘んじるつもりはないんです。
そのための方法を、私はカイトに求めます」
「方法?」
問うたカイトに応えるように、ククリは自身の胸元へと右手を当てた。
「『
瞬間、彼女の胸から虹色の光が奔る。
彩度が高い――見たことがないほどに濃密な魔力光。
やがてその光の筋は、一本の剣へと姿を変える。
色味を感じぬ純な白……ベル・ゴとの戦闘で、かの大斧を受け止めた
「私は、この槍を単なる武器としてしか扱うことが出来ませんでした」
「……“槍”?」
「ええ、槍です。それが何か?」
「いや、何でもない」
何かしら、認識に齟齬がありそうだ。そう思いつつ、カイトは続きを促した。
「ベル・ゴと戦ったあのとき、貴方はこれを使いこなして撃退しました。
それには何か、貴方だけが知る秘密があるはずです」
がつん、と大地が抉られる音。ククリが剣の鋒を地面へと差し込んだのだ。
ずい、と彼女がカイトへ向けて歩み寄る。
「ベル・ゴの暴虐ぶりにはついて行くことが出来ません。けれど、せめて一矢は報いなければ、ラ族としての誇りが泣きます」
彼女の紅く長いまつげが、瞬きとともに小さく震えた。
「ラナンの戦士カイト・スメラギ。
――どうか、そのための知識を私に教えてください」
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