Entr'acte -Ⅰ 境界都市にて

 大帝国カルセドニア。大陸西部にその拠点を置く、純粋人類ラナン唯一にして最後の国家。

 常備軍が国土を護り、色の名を冠する部隊、武装隊商アルフが国の版図を広げる。周辺国家を併呑しつつその支配力を着実に強める様は、国章の世界樹の根になぞらえて詠われるほどの勢いだった。

 国境には長大な陣地が組まれ、神の威光と権能を示す碑が建てられる。神々が街に碑を建てるとき――その街は初めて名を名乗ることが許されるのだ。

 カルセドニアの最西端。

『セイル』と名乗る街もまた、そうして生まれた境界都市の一つであった。この都市の名になぞらえて、周辺地域はセイル地方と呼称されている。

 南側には川と湿原、そして北に氷河由来の深い湖と泥炭地。峻厳な山と湿原とが大きく広がるセイル地方には、湧水と低木に恵まれた環境から、現在では放牧と鉱工業とが根付きつつある。肉と石。いずれも手堅く需要の高い分野だ。自然、セイルは商人や鉱夫を天職とする国民たちが集う場となる。神々が境界都市をより外に造り、セイルを護ろうと画策するのは当然の成り行きだったと言えるだろう。

 だが現在、その試みは暗礁に乗り上げていた。

 今から数えてひと月ほど前。

 武装隊商五番隊――有数の規模を誇った『藍鯨』が壊滅したのだ。



          ◆



「なあ、アレ」


 神々が下賜し、神官たちが設置した“碑”を見張るための衛兵詰所。簡素な東屋としか言い様がないあばら屋の下で、ひとりの若い衛兵が“碑”の方角を指さした。

 

「碑を指さすな。坊さんがキレるぞ」


 見とがめたのは、中年も半ばの衛兵。彼は長く勤めただけに、神官の逆鱗に触れることが如何に恐ろしいかを十分に理解していた。

 わーってるって、と、若い衛兵が苦笑う。絶対に分かっちゃいないが、喧嘩する意味もないので水に流しておくことにする。……後で後悔するのは本人だけだ。


「それより、また来たぞ、アレが」

「ああ、『藍鯨』の」


 言われて初めて視線を向けると、碑の上方を仰ぎ見るように佇む、小柄な少女が目についた。あまり見た目に気を遣っていないのか、肩まで伸びた飴色の髪にはひどい寝癖がついていた。……同様に、身につけている服もまた、その辺にあるものを適当にひっつかんできたかのような簡素なもので。ついでに言えば皺もかなり目立ってきている。

 顔色は、お世辞にも良いものだとは表現できない。

 まだ十代も半ばほどだろう。そんな若い見た目であるにもかかわらず、両眼の下には深い隈が刻まれていて。

 ただひとつ、神呪を示す胸元のだけが、瑞々しく耀いていた。

 彼女がここへと訪れたのは、一度や二度のことではない。

 それこそ、『藍鯨』壊滅の報とともにここセイルへと訪れたその日からずっと、毎日ここへと通い詰めているのだ。

 理由は単純。

――碑に刻まれた『出航者』名簿の中に、彼女の許婚が刻まれたままであるからだ。


 境界都市の石碑には、ふたつの機能が備わっている。

 ひとつは、環境の浄化。

 亜人種に支配された地域の中には、まれにラナンの居住に適さない場所が含まれている。例えば気温、例えば毒素、例えば汚染された魔力だまりがそれにあたる。それらを浄化ないし調整し、人が住むに適した結界を構築するのが、“碑”の最大の目標であるとされている。

 そして、もうひとつの機能というのが、版図から出た武装隊商の安否を収集し、結果をリアルタイムに指し示す名簿としての機能である。

 神は神呪を判別するとき、すべての国民に神呪の意匠を刻んだ首飾りを与えてくれる。それらは常に神呪と所有者の生命活動とを把握し続け、死したときはその旨を“碑”を通して神に伝える機能を持つのだ。

 大帝国の版図を脱して、周辺地域の教化へと赴いた構成員は、ざっと五千は下らない。だがいまや、そのすべての名が“碑”から抹消されていた。

 例外はたったひとつだ。

――今まさに碑の前に立つ少女の許婚、『カイト・スメラギ』ただひとり。


「痛ましいな」


 男が零すと、若い兵士は小さく鼻で笑い飛ばした。


「いや、アレはさすがに落ち込みすぎっしょ」


 勿体ないと、若い兵士は雨具を取りつつかぶりを振った。

 “碑”には名前があるものの、カイト某が生きてセイルの地を踏めるとは、既に誰も思っていない。

 捜索の提案は、セイルの駐在神官によってとうに棄却されている。

 救助の見込みなく、そのうえ、ひとり荒野に取り残されて。今や完全に孤立した彼が生還できるほど、“骸の荒野”は安全な場所ではなかった。


「攻撃も出来ないような下位の『魔術師メイガス』が、そんなに惜しかったのかねぇ」

「言葉が過ぎるぞ、ヨン」

「へいへい」


 巡回行きまーす、と、雨具を被った若い兵士――ヨンは詰所を後にする。

 どうせまた、“碑”の前で祈りを捧げる彼女を茶化しに行くのだろう。無視されるのが関の山だが、めげない奴だと男は思う。

 あるいは、と考える。


「それであの子が絆されてくれるのならば、それも重畳なのかもしれんが」


 既に、眼前の少女、テマの事情はセイル中の常識と化している。

 生存者たちの報告は、すべて資料や新聞記事として出回りきっているからだ。

……それこそ、カイトなる人物ががどうして取り残されてしまったのかまで、男は十分理解していたと言っていいだろう。

 許婚を失った国民たちは、往々にして良くない末路を辿りがちだ。既にあれほど荒んでしまったテマの姿を鑑みるに、若い男にだまされて新たな許婚を見いだした方が、余程幸せなのかもしれないと――そう感じたのだ。


「なあ、カイト某さんや」


 人気のない東屋の下、男は小さく独り言つ。

 あんたは、確かに許婚を護れたとも。それは誇っていい成果だろうさ。

 だが。


「あんたには、残される側の気持ちなんて、分からなかったんだろうなぁ」


 ふぅ、と一息。……屋根の外では、既に雨が降り始めていた。

 ずぶ濡れに降られてもなお、テマの祈りは終わらない。

 落暉らっきの時が訪れるまで――いつまでも。

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