第1章 |異言《カイト》⑧

 毒を以て毒を制す、という言葉がある。

 “骸の荒野”内において、純粋人類ラナンにとっての毒とはつまり蟲人である。

 では、彼らは蟲人族と戦うために何をしたか?

――彼らの機構を真似たのである。

 『魔術師メイガス』や『タワー』、そして数多の神格たちの助力をもとに、散逸した科学力では成し遂げ得ない魔道具たちの作成に着手した。

 驚異的な脚力は研究されて風力車たちの象脚に。

 空気中の魔力を濃縮し、超常の膂力りょりょくを生み出す機構は風力艦の心臓に。

 酸に強く軽量な外骨格は、再形成され装甲へと生まれ変わって。

 “藍鯨”艦隊が保有する備品の多くは、こうした研究の末に生み出されたものだ。

 それは、今まさに逃亡の途上にある艇たちもまた同様で。


「派手にやってるな」


 備え付けの反射式望遠鏡ペリスコープで後方を確認したカイトが零す。円形に切り出された視界の中には、縦横無尽に飛び回りつつも、搭乗に間に合ったであろう『魔術師』の放つ光を蟲人達に浴びせかける小型艇の姿があった。

 その一隻以外、同型艇の姿はない。おそらくは、既に破壊されている。


「追いつかれそう?」

「あのふねがどのくらい粘るか、ってところかな」


 少なくとも、あの小型艇による足止めがなければ半日と保たないだろう。ペリスコープが必要なほどに離れていてもそれなのだから、如何にモストーラが遅いかが分かるというものだ。

 書庫室を持ってきたのは失敗だったかな、などとカイトは今更考える。

 ふと、操縦室のドアに何かがぶつかる音がした。


「入って、グレン」


 振り向くことなくそう告げる。程なくして、ゆっくりとドアの開く音。


「あー、その、なんだ」


 ばつが悪そうなその声は、他でもないグレンのもの。舵を回して大岩を迂回しながら、カイトはふっ、と小さく吹き出す。


「なんだよ、そのらしくない切り出し方。……目は覚めた?」

「うるせぇ。ああ、すまなかった」

「良かった」


 カイトは頷く。


「引き返す、とか言い出したらもう一度殴ってるところだった」

「殺す気か」

「死ぬ気だったろ」

「違いない」


 どうも岩場に入ったらしい。岩で肢を踏み外さぬよう舵を小刻みに動かしながら、右下のスイッチを上に叩いた。いくつかギアが組み変わる音がして、モストーラの肢がやや大げさな動きに切り替わる。岩の多い高地用ステップに切り替えたのだ。


「ねえ、グレン」


 ふと、考え込む仕草を解いてテマが問う。


「私、こんなにすごい岩場を通った記憶がないんだけど」

「確かに。出航からこっち、こんな操作は初めてだ」

「俺は航陸士じゃないぞ。だがまあ、確かにこうも岩が目立つようなところを通った覚えはないな。さっきの余波で砂が飛んだか?」

「さっきまでは後方で嵐が起きてた。それかもしれない」

「その割には砂埃が薄い気も――待て」

 

 乗り出して、採光窓から前方遠くを見据えるグレン。

 

「十一時方向、スコープ回せ」

「前方? どうして」

「いいから早く」

「分かった」


 カイトは渋々、ペリスコープのクランクを回す。きゅるきゅると、真後ろを向いていたペリスコープが時計回りに動きだす。

 後方の砂埃が左へはけて、蒼穹と赤茶の大地が映し出される。

 十時の方向を過ぎたところで、異変に気づく。


「……砂?」


 その方向だけ、やけに濃い砂煙が上がっていたのだ。


「倍率上げ、二十から三十」


 言われるがままに倍率つまみを奥へと回す。

 微かな機械音と同時、にわかにぼやけて滲んだ視界。すかさずピントを合わせると、もうもうと立つ茶褐色の煙が、砂だけではないことを知る。


 それは、火だ。

 先行した“カロン”の艦載船たちが、燃え上がり焼けていく火だ。

 炎が強い上昇気流を引き起こし、砂粒もろとも灰と炭とを巻き上げている。

 そこに立つのは――数多の蟲人。

 黑鉄色の装甲をてらてらと輝かせる、二足歩行の甲虫だった。

 そう。それは、つまり。


「先回りされてる」


 退路すら塞がれたことを意味していた。

 カイトが静かに零すと同時、ペリスコープの視界の中で不意に何かが煌めいた。

 その正体に目をこらすと、こちらに向かって身体をひねった一匹の蟲人族が、おもむろに体勢を戻す姿が目に入る。


『――跳んでッ』


 その意味に行き着くより先、脳裏でエンジュが鋭く叫んだ。

 幻視するのは、ここまで乗り越えてきた大岩の群れ。

 ぞくり、と、背筋の凍る感覚。

 警句を発する余地もなく、カイトは席のペダルを踏み抜いた。


「ぐはっ!?」

「ひゃあっ!」


 唐突な、下向き慣性。予備動作なしに大きく跳ねたモストーラに、ふたりのラナンが驚嘆の叫びをあげた。

 そして、至近で何かが落ちる音。

――大岩だ。

 つい先ほどまで、カイトたちがいぶかしみつつ乗り越え続けていたそれだ。


「二人とも、平気か!?」


 悪寒が止まらない。

 ジグザグに舵を切りながら、カイトは二人に問いかける。


「危ねぇぞ、何があった?」


 反応したのはグレンだけ。振り返ると、ベルトの圧が祟ったのか、テマがぐったりと座席に縛り付けられていた。


『大丈夫、失神してるだけ』


 エンジュの声に、手放しかけた操舵を握る。

 すぅっ、とひとつ、深呼吸。


「岩だ。蟲人族が大岩を投げてきたんだ」

「じゃあ、先に行った連中は」

「たぶん、同じ手口で」


 ちくしょう、とグレンが吐き捨てる。

 無理もない。自分が発破をかけて散らした仲間が、先回りされて殺されたのだ。

 だが、そこはさすがグレンと言うべきなのだろう。


「嘆いていても仕方ない。最寄りの宿場はどっちだ?」

「残念だけど、まさしく十一時方向だ」


……あるいは、許嫁の死で喪失に慣れてしまっただけかもしれない。

 採光窓から視線を外して、グレンは何かを探すかのように周囲を見回す。


「車載のバリスタはあるか? 取り外しの効く衝角ラムでもいい」

「小さい弩なら、床の点検口にある」

「十分だ」


 点検口を蹴り上げて、弩弓を取り出す。

 何度か引いて調子を確かめた後、グレンは一言問いかけた。

 右後方に鈍い衝撃。二度目の岩が、その牙を剥き損ねたのだ。

 

「……本棚、ひとつダメにしていいか」

「命より重い本はないよ」

「恩に着る。俺が神呪アルカナを使ったら、全力で突っ切ってくれ」

「あの群れを?」

「それ以外何がある?」


 にっと笑ったグレンに対して、正気じゃないな、とカイトが笑う。

 

「でも、最善を尽くすよ」

「最高だ」

 

 その言葉を最後に、グレンはひとり踵を返す。

 胸元の獅子抱く乙女――『剛毅フォルス』の板が、ちらりと光を反射した。

 程なくして、重い扉の閉まる音。


『いいの?』


 端的に、エンジュが問うた。

 本を手放すことにではない。


『あんまり複雑な道具だと、カイトもつらいと思うけど』

「そうも言ってられないだろ」


 そう。彼女はあくまで、神呪について気にかけていた。


「最善を尽くさなきゃ逃げられないなら、神呪だって使うよ、僕は」


 カイトの抱える『魔術師メイガス』の制約三つ目。

――行使の負担が、対象の複雑さに比例すること。

 エンジュは杖だ。どこにでもある、木の幹を削り出した単純なもの。

 大気の粒子は、その有り様が希薄なために扱いやすい。

 本に至っては、対象を記された知識自体に取っている。

 何れも、道具としての複雑さはないに等しい。

 けれど。もし、対象が風力艦のような技術の塊であったとしたら。

 最悪、カイトの意識が呑まれてしまう恐れすらある。

 『使えばいいってものじゃない』。

 ふと、テマに話した一言を思い起こした。

 我ながら、本当に不思議な神呪を引き当ててしまったものだと苦笑する。

 

「これくらいの無茶、以前もやったし大丈夫」

『そ』


 言ったところで聞かないんでしょ、とでも言いたげな色を残して、エンジュが身体に吸い込まれてゆく。

 気配が消えた感覚はない。おそらく、宣言通り最後までいるつもりなのだ。


「『我請わんIl Beque; 、――」


 舵を握りつ、右手を胸へ。虹色の魔力の星が、ちらちらと瞬きだした。

 対象は、モストーラだ。


「――遠き汝の耀きをLu Glos xi Lis Arcturu!』」


 魔力の星がはじけて消える。瞬間、ざわり、と部屋そのものが震えた気がした。

 否。

 部屋は事実うごめいている。少なくとも、カイトにはそう見えている。

 緩んだ床から蜘蛛が一匹。

 天井からさらに一匹。

 わらわらと、わらわらと小さな蜘蛛が湧き出でてくる。

……真っ直ぐに、こちらへと歩を進めつつ。

 湧き出た小蜘蛛は進む度に互いを喰らい、次第に巨大な毒蜘蛛の姿を取り始める。

 ざわざわと、ざわざわと脚のこすれる音がする。

 そして、数秒。

 カイトの背後に、一匹の大蜘蛛がもたれかかった。


「そうか、」


 カイトは零す。


「キミが、モストーラか」


 ようやく相手の顔を知れた、文通相手に接するように。

 返答は、強烈な痛み。

 首筋を蜘蛛に噛まれて、カイトの視界はにわかに光を失った。


「ッ、あぁ」 


 そして、心の底で何かと深く繋がる感覚。

 刹那。

 カイトの視界が、突如として大きく開けた。

 周囲には赤茶の大地。

 頭上には、雲ひとつない青い空。

 地平線遙か先には、めいめいの武装を構えた蟲人族の隊列がある。

 その場には、既に操縦室という概念すらなく。

 カイトとエンジュのたった二人が、巨大な蜘蛛に跨がっていた。


「ずいぶん、派手に視界が変わる」

『杖じゃないんだよ、当たり前じゃん』

 

 今更気づいたの、と、エンジュが後ろでころころ笑った。



      ・



数分後

書庫運搬車『モストーラ』

書庫区画 屋上



 カルセドニア大帝国において、『剛毅』持ちは大いにモテる。

 まず第一に、喧嘩に強い。

 特に鍛えずとも筋力が勝手に発達していくのだから、素手で他の神呪持ちに負ける道理はどこにもなかった。

 そして第二に、力が強い。

 荷物から女の子まで何でも片手で持ち上げられる。そりゃモテる。

 

「そして第三――」


 独り言と言い切るにはやや大きすぎる声を出しつつ、グレンは階下から引き上げた本棚をひとつ、強く降ろした。マホガニの脚が蜘蛛モストーラの背中に食い込んで、己を支える杭となる。


「どんなときでもが効く!」

「なんでもいいけど」


 操縦席から呆れた色の声が飛ぶ。


「帰ったら弁償してくれよ」


 カイト・スメラギ。グレンの後輩分にあたる少年だった。

 どうやら彼は、操縦室の天井を開けておくことにしたらしい。意思疎通を図る点では、確かに合理的な判断だった。正直、ありがたいと思う。


「何言ってんだ、死ぬより安いだろ」


 こう返せば黙るだろう――打算を込めてグレンは応える。

 が。


「こっちも逃げる努力をするんだ。按分に決まってるだろ」


 思った以上に、この小生意気な少年は商人としてたくましくなっていたらしい。

 それはそれで良しとしようと、グレンは小さく鼻を鳴らした。


「じゃあ、お互い生きて帰れたらな!」

「『神に誓って』?」

「あっ、ずりぃぞ逃げらんねぇ!」

「ズルもクソもあるもんか。で、答えは?」

「くっ、『神に誓って』!」


 応じた瞬間、胸元の銀板にうっすらと熱が宿った。

 契約を司る『神』が、その契約を聞き届けたというサインだった。

 神が受理した契約は、破ることが許されない。ペナルティがそれ相応に重いのだ。

 帰国したら銀行屋に直行だな、とグレンは内心で小さく笑った。

 さて、とカイトが続ける。


「たっぷり弁償をもらうためにも、全力を尽くさないとね」


 瞬間、モストーラの動きが変わる。

 安定した等速運動から、より複雑で有機的なそれへ。先ほどまで迂回していた大岩を、複雑な脚回しで乗り越えるような、そんな動き。

「お、おぉっ!?」


 グレンは思わずたたらを踏んだ。

 肢付きの船が、突如として生きた蟲へと変わった錯覚。

 間違いない、と彼は思った。

――コレが、カイトの神呪アルカナなのだ。

 グレン、とカイトの声がかかった。


「まずは最前列、さっきから岩を投げてる奴を潰して」


 ジグザグ回避と先ほどのショートカットで、彼我の距離は縮まっている。ペリスコープが見られなくとも、個体の区別は簡単だった。

 狙うべきは外骨格が大きく凹んだ、歪な甲虫。過酷な戦場ばしょを生き抜いてきたであろうと、見た目だけでもよく分かる。


「簡単に言ってくれる」


 内心で苦笑しながら、本棚の留め具を外す。

 捧げ持つ弩弓の上に、矢弾はない。――だが、グレンにはそれで十分だった。

 おもむろに、堅く紐で閉じられた本を


「『希求せりIl Beque;――』」


 虹色の星が踊る、踊る。

 グレンの周囲を円形に、祭りのダンスか何かのように。

 魔力の欠片が集まってくる。彼のチカラの源として。

 ならば。

 今の場面にふさわしい、カタチを与えてやらないと。


「『撥ね付け穿つ不可視の鎚をLu Mace xi Divil Regectia!』」


 いしゆみを保ったままに、左手で指を鳴らした。

 周期的に回転していた星々が、そのありようを虹色の歯車たちへと変えてゆく。

 幻想的な輝きを振りまきながら、それらは互い違いに噛み合って、ひとつの箱を形作った。

 かちん、とひとつ、心地よい音。

 虹色の箱が、弩の発射機構と本とを覆って同化したのだ。


希求せり、撥ね付け穿つ不可視の鎚をIl Beque; Lu Mace xi Divil Regectia』。

 己の使う道具に触れて、任意の重力場を発生させる抽象アルカナ。

 今、この瞬間。弩は、グレンだけの兵器となった。


「石は避ける。……だから、グレンは蟲を」


 カイトの宣言通り、モストーラが横飛びに跳ねる。

 先ほどまでモストーラがいたはずの場所に、大岩が深く食い込んだ。

 おいおい、とグレンは笑う。


「落ちるような運転すんなよ?」

「そんな柔な神呪持ちじゃないでしょ」

「それもそうだ」


 先ほどの詠唱のついでに、自身の足は固定済だ。


「どこかで一旦止まれ。じゃないと狙いが付けにくい」

「分かった。合図をしたら撃ってくれ」

「応っ」


 蒼穹に大岩が舞う。なるほど確かに、カイトが天井を解放したのは正解だった。

 これならば、上空から落下地点が割り出しやすい。


「うぉっ」


 瞬間、全身が強く後ろに引っ張られる。蟲を狩る蜘蛛さながらに、モストーラが跳躍したのだ。

 後方で砂の吹き飛ぶ音がして、着地。


「今だ、撃って!」


 カイトの合図。

 すかさずグレンは身体を起こし、照星に的を収める。

 猶予はない。

 引金を引くべきは、今。


「――ッ!」


 息を止め、発砲。発条仕掛けの跳ね飛ぶ音と、神呪の発動音とが共鳴する。

 瞬間、射出口から黒いが走り出す。

――斥力によって、限界まで加速された本だった。

 通常であれば、本のような形状では射出武器には適さない。だが、グレンの用いる神呪は勝手が違った。箱によって全面に付与された重力場が、リアルタイムに本の姿勢を維持するからだ。

 果たして、弩とは思えぬ飛距離の中で、本の矢は放物線を描き出す。


「良し」


 グレンが零す。視線の先には、緑の華を撒き散らす哀れな骸の姿があった。

 遠距離攻撃手段が失われたからだろう。

 黒山の敵陣が、ひるむことなくこちらに向けて進軍を始めた。

 遠くから殺せないなら、取り付いて殺す算段だろう。

 どうしても、一人たりとも逃がすつもりはないようだった。


「連射行ける?」


 カイトの確認。もちろんだ、とグレンは答えた。

 彼には悪いが、実弾には事欠かないのだ。……弁償するのはしんどいけれど。

 じゃあ、とカイトが言葉を続けた。


「あの集団の真ん中まで突っ切る」

「真ん中まで? 最後まで突っ切らないのか」


 グレンの疑問に、無理だと思う、とカイトが応えた。 


「どうせ追いつかれるから」

「じゃあ、真ん中まで行ったらどうする?」

「モストーラに真っ直ぐ跳んでもらう。

――グレンはモストーラに、

「……おい、まさか」


 モストーラを全力で浮かす。

 その上で執りうる手段を思い浮かべて、グレンは軽い寒気を覚えた。

 そのまさかだよ、とカイトは笑った。


「本棚を落として、そこに重力を集中させて」

 

 出力はちょっぴりだけ下げてね、と念を押す。


「この一帯ごと、潰れてもらおう」


 まるで近所に買い物にでも行くかのように淡々と、彼は言葉を締めくくる。


「神様が、お前をここに置いた理由がよーく分かった」

「……他の仕事ができなさそうな好事家だから?」

「違ぇよ。なんだかんだでまったく容赦がねぇからだよ」


 たとえ相手が蟲だとはいえ、大量殺戮をするというのだ。

 少なくとも、何かしら大きな情動が伴ってしかるべきだとグレンは思う。

 だがカイトには、そうした情動らしき反応が一切ないのだ。

 ただ淡々と、その場の手札と状況から最も効率の良い殺戮方をはじき出す。それでも十分異常であるのに、あまつさえそれを当然のように人に指示する。

 普段の会話が、嘘のように思えるほどに。

 いや、事実嘘ではないのだろう。ああした人当たりの良さと同時に、まるで梟のような冷徹さも兼ね備えている。


「まるで機械人形オートマタだな」


 ラナンに愛想を振りまきながらも、命令はあくまで冷徹にこなす上位造物。

 そんな彼らの挙動を思い出しながら、グレンは次弾を装填した。


「なんだって?」

「いや、お前が敵じゃなくて良かった、ってな」

「褒めてないよね、それ」

「褒めちゃいねぇな、確かに」


 はぐらかしたグレンの応えに、なんだよそれ、とカイトは笑った。

 こういうところは、やはり普通の人間らしい。


「……準備は良い?」

「ああ」


 接近する黒い塊。そちらに向けて、モストーラは頭を向けた。

 一拍おいて、大きく跳躍。

 慣性を感じると同時、既にグレンは引金を引ききっていた。

 狙いなど付けなくて良い。

 狙わなくても誰かには命中するから。

 正確性より、射出威力を重視する。

 貫通して後ろに届けば届くほど、無駄玉の数が減るから。

 荒野に似合わぬ、むせかえるような緑の匂い。噴き出した血肉の飛沫が、モストーラに襲いかかった。


「あと何発!?」

「十もない!」

「撃ちきって! なくなったらそこで跳ぶ!」


 既に両者は接敵し、かなり奥まで食い込んでいる。

 両側から肢へと近づく単体は、グレンが緑のしぶきに変えて。

 盾と槍とで隊列を組む一団は、モストーラの脚力だけで蹴散らして。

 甲翅族の集団は、だんだんとその隊形を方形からハート型へと変じていった。

 本棚に向けて手を伸ばす。が、その左手が虚空を握った。


「弾切れだッ」

「分かった!」


 刹那。

 モストーラが、その脚力の全力を以て、真っ直ぐに上へと跳んだ。

 肢の一部が悲鳴を上げて、荒野の景色が遠くなる。


「『希求せりIl Beque;――』」


 弩を投げ捨てて、本棚を車体から抜く。

 慣性が落ち着いて、わずかな静止。

 上空に止まる瞬間を狙って、グレンはそれを下へと投げた。


「『撥ね付け穿つ不可視の鎚をLu Mace xi Divil Regectia!』」


 対象は、手を離れゆく本棚と、車体の裏側。

 銀の識別票――上位の神呪が生み出しうる最大の魔力を以て、反するチカラを植え付ける。

 轟、と強い風鳴り。


「窓を閉めろ!」


 警告に、操縦室は素直に応じた。

 すべての採光窓が閉じた瞬間、眼下で巨大な嵐が起きる。

 発生させた重力場に、空気、砂、この世に遍く存するものが引き寄せられたのだ。

 唯一、それをわずかに上回る斥力を持つ車体モストーラだけを除いて。

 慟哭、咆吼、断末魔。

 逃げる手段を持たない蟲人族の雄叫びが、周囲に酷くこだました。

 空気を伝う音声すらも、この重力からは逃れきれない。

 みちみちと、何かが挽きつぶされる音がした。


「……ほんと」


 眼下の惨状を見物しながら、グレンはつぶやく。


「あいつが敵じゃなくて良かった」


 数十秒後、嵐が突如収まった後。

 おぞましい緑と赤茶の巨石の上に、半壊した風力車が着地した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る