第1章 |異言《カイト》⑦

 ぴしり、と。

 カイトの耳に、何かが割れる音が聞こえた。

 二度の強烈な被弾によって、傾いた駐機場内。どうにかして折り重なった風力車たちを助け起こして、いざ救助へと動かんとした最中のことだ。

 警報の音は未だない。

 艦橋が警報の判断を下す前に、火に包まれてしまったからだ。

 だからこそ、というべきだろう。か細い音にもかかわらず、発生源はその場の誰もが知るところとなってしまった。

 それは、グレンの胸板の上。

 小舟と櫂のモチーフがあしらわれていた、瑠璃色のブローチだった。

 釉薬が鈍く輝くその塊は、砕け、ひび割れ、青灰色の細かな粒子となっていく。


「グレン、それ、」


 呼びかけて、言葉が詰まる。あれほどに笑顔の似合う偉丈夫が、まるで何かに憑かれでもしたかのように、据わった目で頭上を見据えていたからだ。


 神呪アルカナには数々の分類がある。そのひとつが、『剛毅フォルス』『魔術師メイガス』のように、神サマが神呪の権能から推測した分類系統。もうひとつの分類が、神呪の発現の仕方で二分したものだ。

 剣や花など、道具としての形を発現するものは、『具象型』。

 光線や炎の発生など、現象だけを引き起こすものは、『抽象型』だとされている。

 例えば、テマの神呪は紛うことなき『抽象型』だ。対照的に、ブローチを端末として生み出していた提督の『隠者エルミット』などは、典型的な具象型だと言えるだろう。

 具象型の特徴は大きくふたつ。

 ひとつは、発現した神呪は本人以外も使用できる点。

 そして、もうひとつ。……行使者が死ねば、アルカナが粉砕する点。


 つまり。

 ――今まさに、提督は戦死したのだ。


「グレン?」


 恐る恐る、テマが零した。それが功を奏したのだろう。グレンはきつく瞑目めいもくしたあと、キッとカイトを睨めつけた。


「遠眼鏡を」

「……っ、ああ」


 気圧されつつも、カイトは遠眼鏡を渡す。つかつかとのぞき窓の方へ向かって、グレンは外を見渡した。


「“プシュパカ”が艦載船を射出した」


 藍鯨艦隊壊滅。残る大型風力艦は“プシュパカ”のみ。

 少なくとも、カイトたちはそこまでは認識していた。

 そのプシュパカが、ベイルアウトを敢行している。

 戦況は絶望的だった。


「総員、聴けぇ!」

 

 ビリビリと鼓膜がしびれる大声で、グレンが怒鳴った。


「プシュパカの艦載船がこっちに向かって逃げてくる! その後ろには蟲どもだ!

 死にたくなかったら、全員手近な艦載船に乗り込めぇッ」


 瞬間、辛うじて生き延びていた船員達が、大慌てで艦載船に乗り込み始めた。

 次々と起動する、蚤にも似た外見の船。カロン独自の艦載船である、強襲用の小型艇だ。敵方の要塞や風力艦に乗り込むために、強力な脚力と持久力とを兼ね備えた高コスト機。本来であれば、遁走などに使っていい代物ではなかった。

 それぞれが満員になるごとに、ハッチが厳重に閉扉されてゆく。

 モストーラに乗り込む船員はない。元々積まれている強襲用の艦載船に、図書運搬車が速度で勝る道理はなかった。


「カイト、モストーラはこの中で一番遅い。お前らが一番先だ」

「グレンはどうするんだ!」

「誰がベイルアウトの制御を回すと思ってんだ」


 不敵に笑う筋肉ダルマ。

 カロンに残って死ぬ気だと、カイトはすぐに理解した。


「『我請わんIl Beque; 遠き汝の耀きをLu Glos xi Lis Arcturu』!」


 幸い、杖は手元に持っていた。

 詠唱と同時、ふわりと唇にの口が触れる感覚。


『そのままおでこ突いちゃえ』


 いいね、それ。

 カイトはすぐさま実行し――果たしてグレンは、もんどり打って昏倒した。


『カッコつけんな、バーカ』


 カイトの脳裏で、エンジュの笑う声がした。


「テマ」

「なに?」


 愛車に向かって声を掛けると、一応起動をすませたらしいテマがひょっこり顔を出す。倒れたグレンを足の先から引っ張り上げて、モストーラの昇降口に引っかける。


「このバカを中に寝かせといてくれ」


 言いながら、『浮遊する廊下』のレバーの方へとよじ登る。その隣には、駐機場の各構造を操作する制御盤が埋め込まれていた。

 当然、そこにはベイルアウトのスイッチもある。


「おもーい! 床でいい?」

「十分だ!」

「よいしょー!」


 気の抜けたかけ声と同時、ごすん、と重たい音がする。

 大丈夫かなあいつ、などと心配するのもそこそこに、カイトは次々とスイッチを押下していく。さながら産み落とされた卵のように、ふねふねから転がり落ちた。

 最後のひとつ――モストーラの格納ポッドのスイッチを押し込む前に、隣のつまみを一回し。


「なーにが、『制御を回す』だ。タイマーがあることくらい知ってるって」

『たぶん、許婚が死んだ場所まで見に行く気だったよ、あれ』

「うん? まだいたんだ、エンジュ」


 カイトが問うと、ふわり、と生成りドレスの少女が宙に現れた。


『だって、まだ戦場だもん。落ち着くまで、私はあなたの隣にいるよ』

「そういうロジックだったんだ」


 どうりで、いつもは戦闘終了即解除だったわけだ。

 

「見に行くって、どういうこと?」


 今はもう瓦礫でしかない『廊下』の残骸を降りつつ降りつつ、カイトが続ける。

 確かめに行くの、とエンジュはやや悲しげに微笑んだ。


『神呪の死は所有者の死。分かってはいても、納得できないものだから』

「悪いことしたかな」

『大丈夫。あの感じだと、たぶんちょっと落ち込むだけ』

「命を賭して見に行く割には、あっさりしてるな」

『複雑な関係だったのかもね。たとえば……好きだけど憎たらしい、とか』

「矛盾じゃん」

『人間ってそういうもんだよ』

「アンジュは杖じゃないか」

『ふふ、そうだった』


 タイマーの設置時間はたっぷり五分。

 悠々と愛車に戻ったカイトとアンジュは、グレンをまたいで操縦室へと赴いた。

 遠くで聞こえる、微かな地響き。

 時折混ざる爆発音は、蹂躙される小型艇たちの自爆の音か。


「逃げるが勝ち、か」


 幸い、出航からまだ日は浅い。カルセドニアの版図の中にたどり着くまで、遭難する可能性はかなり低めになるはずだ。……件の嵐を度外視すれば。

 操縦室の門扉をくぐる。


「カイト、準備はできてるよ」

「ありがとう。かなり揺れると思うけど」

「ばっちり」


 部屋の片隅には、既にテマが着席していた。揺れることを予想してか、きっちりとベルトも締め終えている。

 アンジュは既に、カイトに吸収されていた。

 彼女はなぜか、テマとの会話を避けているきらいがある。どうしてなのかは、あえて問わないことにしている。下手に踏み込んで協力を拒まれるのも困るからだ。

 着席して、砂力時計を確認する。

 離艦まで、ちょうど十秒。


「テマ、念のため聞いておくけど」

「なに?」

「本は捨てる?」


 モストーラ後部に積んだ、デッドウェイトとしか言いようのない書庫部分。

 安全に逃げるのならば、切り離した方がいいに決まっていた。

 だが、カイトの言葉ににんまりと微笑んだテマ。


「そんなの――」


 がくん、と高台から落ちる衝撃。


「持ってくに、決まってるでしょ!」

「了解!」


 応えつつ、速度のレバーを最大値まで引き上げる。

 本当に『太陽』らしい女の子だなと、カイトは思った。


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