第1章 異言 -カイト-
第1章 |異言《カイト》①
――世界に神が顕れて、霊長の時代は死んだ。
某年 八の月 中旬
カルセドニア大帝国 東部辺境 某所
うだるような乾いた熱気に、薄く漂う砂埃。
今は街の名前すらない、カルセドニア最果ての街。未開の地との
「はあっ、はあっ、はあっ」
人気の少ない、文字通りうち捨てられたバザーの残滓。そのただ中を、テマ・アスラは駆け抜けていた。
足取りは重い。それは、胸に抱える一人のラナンの少年ゆえだ。
ぐったりとした少年に、意識はなかった。彼の傷んだ服から覗く顔や手足は、痛々しい内出血にまみれている。
「いたぞ! 船場の方に向かってる」
「さっさと捕まえろ! 他のラナンに見つかるなッ」
どたどたと、乱暴な足音がテマを追う。足音の主達は、皆一様に、ラナンとは大きく異なる形質を有していた。
一人目は、翼を持つもの。
鋸のような何かで、その根元から断たれたであろう形跡でしかなかったが。
二人目は、体毛と牙を持つもの。
焦げ茶色のその体毛には艶がなく、所々に禿げも見られる。
最後の一人は、鱗あるもの。
縦向きに裂けた瞳孔を強く細めて、行く先を鋭く見据える。
「もう! いい加減――諦めてよぉ!」
テマは叫ぶが、そうは問屋が卸さない。それは、こうなる原因を作ったのがテマ自身に他ならなかったからだ。
散策と称して、この荒れ果てたバザー跡に来たのはテマだ。
そこで、亜人種の人買いたちが拠点を構えているのを見とがめたのもテマ。
「うるせぇ! だったらさっさと
そして――商品として幽閉されていた少年を、幼い正義感のまま連れ出したのもテマなのだ。
「埒があかない――『
走りながら、テマは自身の首元、太陽の意匠が刻印された陶板に触れる。
ちかちかと虹色に明滅する魔力光――次いで、彼女の手中に光球が精製された。
「食らえぇっ」
振り向きざまに、それを追っ手に向けて投げつける。
光球は弧を描きつつ地面に着弾。
「うわっ!?」
「伏せろ!」
そのまま、閃光を周囲に向けてまき散らす。
だが、それだけだ。彼女の神呪は、ただ輝く玉を出すだけ。……それだけなのだ。
「――虚仮威しかッ、雑魚が!」
「やっば、バレた!」
鱗の亜人が苛立ちの声を上げる。
テマはやや後ずさり、今一度踵を返して走り出した。
その一瞬で距離を稼げばよかったのにとは、誰も言えない。大方、素人の抵抗などそんなものだ。
さて。片や少年を胸に抱えたうら若い少女がひとり。追うのは無手の、筋骨隆々な亜人達。
彼らが繰り広げる逃走劇に、前者の勝ちなどあり得ない。
追われ、迂回し、誘い込まれて。……袋小路の壁際に、テマは見事に行き当たる。
背後には高すぎる壁。両脇には木箱がぎっしり積まれたままの、古ぼけた棚。
亜人たちが一蹴りすれば、テマたちは抵抗すら出来ないままに圧死するだろう、そんな構図だ。
「わっ、私はカルセドニアの正国民だよ! 下手なことをすればどうなるか、あなたたちなら分かるでしょ!」
ここカルセドニアでは、ラナンのみが正規の国民となる。亜人達準国民が正国民を攻撃すれば、ほぼ例外なく死罪になるのが大帝国の法律だ。
それを利用して、テマは相手の意気を挫こうと試みたのだ。
「うるせぇ、サル女」
「サル!?――あ゛っ」
左肩への衝撃。鱗の亜人が投げつけた石が、彼女の身体に食い込んだのだ。
そう。彼女は一つ、大きなことを失念していた。
ここはカルセドニアの最東端。
……借りようとした国の威光が、ほとんど意味をなさないことを。
「顔に傷はつけるな」
翼の残滓を背負った男が鼻を鳴らした。なぜだ、とでも言いたげな鱗の男に、肩をすくめつ応えてみせる。
「新しい商品が手に入った――そう思えば安いもんだ」
「あぁ、なるほど」
得心がいったと、鱗の男が舌なめずりする。
「ラナンのガキは高く売れる。それがメスならなおさらだ」
一瞬よぎった酸鼻極まる想像に、テマの背筋が寒くなる。
どうしよう――あまりにも今更すぎる困惑が、思考の中に頭をもたげた。
けれど。
「そう、上手くいくと思う?」
理性的な彼女の一部に逆らうように、テマは不敵に笑ってみせた。
自棄になったわけではない。
そうさせるだけの確信が、心のどこかにあったからだ。
今しがたまで逃げ回っていたとは思えぬ、剛毅な台詞。
当然、それは三人の神経を逆撫でするのに十分な蛮勇だった。
「黙らせろ」
「おう」
だんまりを貫いていた牙の亜人が、瞬間、とん、と地を蹴る。予備動作無しの接近に、テマは身じろぎ一つ取れないままに――
「――遅刻だぞ、テマ」
かぁん、と高い木質の音。
テマに迫った男の爪が、ひとつの杖に阻まれていた。
「む。どこから」
杖の周囲に人はなく。牙の男は、鋭く周囲を伺い警戒する。
だが、違う。
「上だよ、
「なに、……ギャンッ」
瞬間、牙の男に藍い影が躍りかかった。
影は男の鼻先を蹴り、流れるように路地に刺さった杖を抜く。
流麗な挙動からの、静止。
ここで彼らは、藍い影の正体が一人のラナンであると知る。
そのラナンの名は――
「カイト!」
喜色をにじませ、テマが叫んだ。待ちわびた来訪を言祝ぐように。
対するラナン――カイト・スメラギは、やや呆れ気味にため息をつく。
「また、制服じゃない格好で出歩いて……そんなだから、一々目をつけられるんだ」
「制服だぁ?」
カイトの言葉に、鱗の男が視線を下げる。
闖入者の首から下に。彼が纏った制服に。
基調は藍色。要所を縁取る白い銀糸は、まるで汀のさざ波のよう。
その文様は、彼の一族――亜人の伝承にうたわれる、
「あ、あぁっ」
鱗の男は、この意匠をよく知っていた。
そう。
ここが荒野の玄関口であるゆえに、最も恐れるべき意匠のひとつであることを。
「こいつら、
「なっ」
「むぅん」
彼の言葉に、残り二人が気色ばむ。
それは、遠く亜人種の領域に出て、中立的な、あるいは戦う意思の薄い種族と交流し、発達した文明を見せつけることで屈服させる、“戦わない”軍隊。
恭順に恩恵を。抵抗に死を。――単純にして明快な行動原理で大帝国の版図を押し拡げてきた、ラナンの民の尖兵である。
はっ、と翼の男が笑い飛ばした。
「アルフといえど、戦闘員はたった一人だ。三人でかかれば問題ない。
詠唱しろ。……速攻でいけ」
「おう。『
男達が首元に利き手を当てる。詠唱と共に虹色の魔力の星が明滅し――
「遅い」
直後、彼らの顔を砂が襲った。
カイトが杖で地を薙いで、堆積した砂埃を巻き上げたのだ。
「んぐっ!? げほ、ごほっ」
案の定、詠唱出来ずに咳き込む三人。カイトはその隙を見逃さなかった。
「『
杖を斜めに構え持ち、漆黒の両眼をかっと見開く。
首筋に紐付けられた陶板が、杖持つ男――魔術師の刻印を施された板が光を纏う。
「――
そして、一瞬。
彼の構える長杖が、爆発的な魔力の光を解き放つ。
「く、目がッ」
「何が起こった!?」
困惑する敵を尻目に、カイトはひとたび、己の杖で空を切る。
霧散する光。だがそれは、この場がまったく同様に帰したことを意味しない。
そこには、ひとりの異質な何かが浮いていたのだ。
シルクのような銀色の髪。
子供と少女、その中間値にあるようなしなやかな体躯。
どこか観賞魚を彷彿とさせる、風にたゆたう生成りのドレス。
未成熟な美――ソレを一言で表すのなら、こう表現するのが適当だろう。
そんな少女が、カイトの前に浮かんでいたのだ。
おもむろに、彼が小さく口を開いた。
「……おはよう、エンジュ」
「おはよう。カイト」
ぱっちりと榛色の目を開き、ドレスの少女、エンジュは薄く微笑んだ。
それからわずかに背後へと視線を流し、カイトに向けて問いかける。
「助けがいるの?」
「ああ、頼む」
「分かった。目を閉じて」
次の瞬間、エンジュが大きく身を乗り出した。
カイトの肩へと両手を掛けて、力を込める。もとより大地に縛られていない身体だ。彼女の肢体はたやすく彼へと引き寄せられて――
「んむ」
エンジュの小ぶりな唇が、カイトのそれへと重なった。
そのまま彼女は細やかな光の塵へと姿を変えて、かき消える。
一拍。
「……ありがとう」
小さく零し、カイトは榛色の目を開く。
「さて、
ぶんぶんと構えた杖を振り回し、槍の要領で構え直した。
「
……このまま死ぬか、裁かれて死ぬか、好きな方を選んで欲しい」
「嘗めやがって――ッ」
お前達はどのみち死ぬ。
そう告げられて鱗の男が逆上したのは、ある意味で必然だった。
鱗の男は本能的に彼我の距離を遠いとみていた。すなわち、自身が再び詠唱を行ったとして、それを止められるほど近い距離には立っていないと。
加えて、相手はひとりでこちらは三人。仮に詠唱に気づいたとして、残りふたりの反応を恐れて攻撃を躊躇するだろう。そう考えた。
故に、彼は自らの首筋に利き手を当てた。
……それが、命取りになるとも知らずに。
「『
「遅い」
「は……?」
眼前に、音もなく迫ったカイト。
それは鱗の男にとって、最もあり得ぬ未来であった。
次の瞬間、彼は己の喉笛に何か硬いものが差し込まれる感触を覚え、絶命する。
なぜ――という疑問すら、発することも出来ないままに。
「今この瞬間、戦意を行動にまで示したのはあんただけだった。それだけだよ」
聞こえているかも分からない。けれど、カイトは男が確実に抱いたであろう疑問に対して答えを述べる。……事実、あの瞬間で動けた敵は彼だけだった。
それは賞賛すべきことであり、同時に勿体ないことでもあった。
最優先で倒してくれと、自らが発してしまったことに他ならないからだ。
その結果がコレだ。
他の二人がカイトに反応出来ないうちに、彼は喉を砕かれ死んだ。
閑話休題。カイトは再び視線を上げる。
視界には、エンジュにキスされる前とはまったく異なる光景が映し出されている。
最も顕著なのは、中空に青白く伸びる一本の線。
それは幾度も折れ曲がりつつ、牙の男にその先端を向けている。
時折線の曲がり方が変化するのは、そばに立つ翼の男が姿勢や所作を変えたとき。……つまり、この線は他者の妨害を予測しつつ、最短距離で次点の脅威を殺す
それは、この
エンジュによって貸し与えられた、カイトの神呪の産物である。
「シッ」
息を吐く。エンジュの示す道筋どおり、可能な限り素早く走る。
『十歩後に右回転で大きく振って』
エンジュの声。言われたとおり、十歩の後に杖を振るった。
があん、と何かが砕ける音と衝撃。投げつけられた木箱を杖が打ち据えたのだ。
道筋が変わる。見れば、牙の男が次の箱を持ち上げていた。
『右に折れて一歩、翼人種に最接近。殴って』
エンジュの中では、翼の男はさほど脅威でないらしい。言われるがままに殴りつけると、翼の男はあっさりその場にくずおれた。……確かに弱い。
遅れて、カイトの背後に木箱が落ちる。
「むぅ!」
牙の男が大きく唸る。
彼からすれば、次々と投げる木箱に対処され、明らかに自分へ向けて近づきつつも、ついでとばかりに仲間を無力化していく異様な姿に見えただろう。
事実異様だ、とカイトは思う。
妨害の予測も、効率的な戦闘も、総てが借り物なのだから。
けれど。
「終わりだ」
長々と悩む必要はない。
左真横――先ほど木箱を放り投げた男にとって、最も反撃しがたい角度。
そこから彼の頭に向けて、杖の先を突き入れる。
ぐしゃり、と、やや硬い西瓜を砕いたような感触。
道筋の線の行く先が、翼の男に切り替わる。
「……さて」
如何に自分がやったことでも、あまり凄惨な絵は見たくない。視線を横に向けないようにしながらも、カイトは翼の男に視線を向けた。
一歩一歩、彼へと向けて歩みを進める。
「ひぃ」
先ほどまでとは打って変わって、酷くおびえる翼の男。
無理もない。実質的な戦闘員が両方とも殺されたのだ。さぞかし怖いことだろう。
「お前はどうする?」
降伏するか、抵抗するか。
いずれにせよ死は免れない。なにより、大帝国の法律はそうなっている。国家機関に属するカイトに、その執行を懈怠することは許されなかった。
「しっ、死にたくない」
「それは駄目だ」
男の願いを、カイトは断る。
「あんたの首元にもあるだろう? 神呪を刻んだ首輪」
こつこつと、自分の首に吊り下げられた陶板を叩く。
翼の男の首元にも、同様の陶板があった。
“
世界を支配する神に、人類が傅く証明。
「それを通して、神サマは僕たちを見ておられるんだ。神サマに命じられたことを見逃したりなんかしたら、僕は天職を失ってしまう」
「し、死にたくないんだ。もう手を出さない。国からも出て行く。だから――」
「駄目だ」
「ぅ、あ」
喉笛を貫かれ、翼の男は速やかに絶命する。
――これ以上、無意味な問答をする意味がない。
その結論は、カイトに杖を突き出させるのに十分な理由となった。
静寂。
カイトの視界から、アンジュの気配が消えてゆく。
「……カイト」
おずおずとしたテマの声。
「怒ってる?」
自分が勝手に隊商を抜け出したこと。
余計なトラブルを招いたこと。
そして――カイトに人を殺させたこと。
挙げてしまえば、罪状は様々だ。けれどカイトは、踵を返して小さく笑んだ。
「怒ってないよ。……でも、今度はもっと慎重に動いて欲しいかな」
今更の話だと、カイトは半ば諦めていた。
たぶん、この先幾度も同じようなことをするのだろうとも、なんとなく。
だから。
「とりあえず、今は帰ろう。――僕らの
「……うん!」
お説教は後回しにして、カイトはテマの手を取った。
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