24:ひとつの恋の終わり

 こんなにやさしい目を、ヴィヴィアンは見たことがない。


「う、嘘でしょう!? だって確かにその栞は……!」

 パティが声を荒らげて駆け寄ってきた。シェリルとクライヴはその声に顔を上げて、パティを見る。

 ヴィヴィアンにはシェリルの瞳が涙ぐんでいるように見えた。よほど大事な栞なのだとわかる。

「あなたがその栞を使っているのを、私は見たことがありますのよ!?」

 シェリルの手に戻った栞を指差し、パティはクライヴに向かって叫んでいた。

 ヴィヴィアンのためにとクライヴのことを調べたりしていたのだろうか。パティはやけに確信に満ちた言い方をしていたが、予想外の展開に動揺は隠しきれていなかった。

きっと彼女が思い描いていたのは、これをきっかけにヴィヴィアンとクライヴが親密になりやがては結ばれる――なんていった感じの物語だったのだろう。

「それはたぶん、こっちの栞のことだろう」

 そう言いながらクライヴは手に持っていた本を開いて、そこにあった栞をパティに見せた。

 四葉のクローバーの栞。二つはとてもよく似ているし、リボンも同じ色だ。よくよく見るとクローバーが少し違うというだけで、持ち主以外には見分けがつかないかもしれない。

「同じ栞を……?」

 ヴィヴィアンが二つの栞を見比べながら、問うように呟いた。シェリルとクライヴは目配せをしたあとで、クライヴが口を開く。

「どちらもシェリルが作った栞だから」

 見た目がほとんど一緒なのは当たり前だ、とクライヴは答える。

 ヴィヴィアンが気になったのは誰が作ったかなんてことではない。年頃の男女が、揃いの品を大事に使っているということだ。

 それは他人の目からすれば、親密な関係なのだと声高に言っているようなものである。

「……そう、でしたか」

 ヴィヴィアンはそれきり黙り込んでしまう。

 シェリルはヴィヴィアンの心中を察しながらも、余計なことを口にするわけにもいかなかった。先程の三人組の会話を聞いていればクライヴだってヴィヴィアンの気持ちに気づいているかもしれないけれど、他人が暴いていいものでもない。

 大切にしてきた思いを無遠慮に他人に暴かれたら、きっとシェリルだって辛い。

「えっと、この栞はモリーが拾ってくれたんだった? どうもありがとう」

 すっかり隅で息を潜めていたモリーに、シェリルはお礼を言う。

「い、いえ、お礼を言われるほどのことじゃ……」

「モリーは感謝されてもいいけど、焦らしたほうがいいって数日黙っていたパティは感謝されるべきじゃないかも」

「エイミー!」

 しれっと暴露するエイミーに、パティが大慌てて詰め寄った。時々思うのだがエイミーはパティのことが嫌いなんじゃないかというくらい嫌がらせみたいなことをぽろっと口にする。

(……だから今まで見つからなかったのね)

「あなたの栞だと知っていたなら捨てていましたわ! せっかくのチャンスでしたのに……!」

 シェリルに向かっていつも通りに毒を吐くパティに、ヴィヴィアンは眉を顰める。冷ややかな声でパティを問い詰めた。

「パティ、あなた随分彼女に対して失礼だけど、どういうつもりなの?」

「え、ヴィヴィアン様……そ、その、だって彼女は令嬢としては失格も失格の、とんでもない子で……!」

「入学した頃に流れていた話のこと? 手段に間違いはあれど、行ったことは褒められるべきことでしょう。そもそも、人の間違いをいつまでも武器にして当たり散らすのは正しいことではないわ」

 ヴィヴィアンの言葉にシェリルは目を丸くした。まさか彼女に擁護されるなんて思っていなかったのだ。

 だってヴィヴィアン・ベックフォードは貴族の娘の手本といってもいい。あらゆる点で令嬢らしくないシェリルのことなど目障りだろうと思っていた。

(……もしかしてわたし、この人に嫌われていたわけじゃないんだ?)

 悪いことは悪い。正しいことは正しい。ヴィヴィアンの判断基準は実にわかりやすい。

「わたくしの友人の無礼をお許しくださいね」

 しかもシェリルに向き合うと深々と頭を下げてくる。友人のためにそこまでできるのも美点だろう。

 クライヴの前だからといった雰囲気ではない。ヴィヴィアンは心の底からきちんとシェリルに謝罪している。

「え、いえ……慣れましたし、今更ですし……」

「……今更? パティ、あなた達いったい今までどれだけ失礼をしてきたの!?」

「ち、違うんですヴィヴィアン様ぁ……!」

(あ、口が滑っちゃった)

 シェリルに悪気はなく、ただ本当に今更だしパティの小言や嫌味には慣れてきているのでどうでもよかった。

 パティはシェリルのものだと知っていたら栞を捨てていたなんて言ったけれど、根は小心者の彼女ならきっと文句を言いつつもシェリルに渡してくれたと思う。


「シェリル、そろそろ迎えが来るんじゃないのか」


 ヴィヴィアンに叱られるパティをなんとなく眺めてしまっていたのだが、思ったよりも時間が経っている。

「あ、本当だわ。帰らなくちゃ」

 窓の外の空は赤く色づき始めている。もしかしたら御者を待たせてしまっているかもしれない。

 クライヴに言われるまで気づかなかった。シェリルは戻ってきた栞をしっかりと握りしめて、その存在を確かめる。

「……気をつけて帰れよ」

「もう。子どもじゃないって何度言ったらわかるのよ……それじゃあね」

 クライヴに別れを告げ、ヴィヴィアンと大中小の三人にも挨拶すると早足で荷物を取りに教室に戻る。




 いとおしむ、というのはこういうことを言うのだろう。

 去りゆくシェリルが見えなくなるまで見つめているクライヴに、ヴィヴィアンはそんなことを思った。


 ヴィヴィアンがクライヴ・ロートンのことを意識するようになったのは、一年ほど前の話になる。

 図書室の大掃除で何人かの生徒が駆り出されていた。たいていは優等生であったり頼まれたら断れないようなお人好しの生徒たちで、ヴィヴィアンとクライヴはその中の一人だった。

 普段の図書室とは違って本はたくさん積み重なって置かれていて、埃っぽいし雑然としているして、ヴィヴィアンも正直面倒だなと思っていた。いくら模範的な令嬢であるヴィヴィアンでも、聖人君子ではない。

『気をつけろよ、本の山が崩れたら大変だぞ』

 司書教諭がそんなことを言っていたが、閉架の図書まで運ばれてきているのか机の上にはいくつもの山ができていた。それらが崩れたら大惨事だ。

 ハタキや雑巾を手に、ヴィヴィアンは慎重に掃除していた。けれどいくら自分が気をつけたところで災難は降りかかる。

『危ない!』

 掃除をしていた一人が本の山をひとつ崩してしまった。それはヴィヴィアンのほうにむかって倒れてくる。

 分厚い本がたくさん降ってくるのを、ヴィヴィアンは見ているしかできなかった。咄嗟に避けることなどできなかった。

 数秒後にはバサバサと本が落ちる音がした。

 けれど、ヴィヴィアンはどこも痛めていない。

『え……?』

『……怪我は?』

 目の前にはクライヴ・ロートンがいた。崩れる本の山から、壁になってヴィヴィアンを庇ってくれたのだ。

『あ、ありませんわ……あなたこそ怪我は……!』

『こういうことは慣れているから』

 クライヴはしれっとした顔で、散らばった本を集め始めた。司書教諭や生徒たちも心配したが、クライヴがあまりにも平気そうな顔をしているので次第に笑い話なったくらいだ。


 単純だと笑われてもいい。

 ヴィヴィアンはたったそれだけのことで、恋に落ちた。


「……『慣れている』のは、彼女に振り回されたからかしら?」

 シェリルの姿が見えなくなった頃に、ヴィヴィアンが口を開いた。クライヴは自分が話しかけられたのだと気づいたが、一瞬なんのことかわからないといった顔をして、数拍後「ああ」と笑った。

 その笑顔すら、ヴィヴィアンは自分に向けられたことがない。

「シェリルは、よく危ない目に遭っていたから」

 だからいつもクライヴが守っていたのだろう。

 つい条件反射で、特に関わりもないヴィヴィアンを助けてくれたように。きっと、何度もクライヴの目の前でシェリルは怪我をしそうなことをしてきたのだろう。

 ちくりと胸が痛むけれど、ヴィヴィアンは目を閉じて息を吐いた。それでおしまいにしよう、と自分に言い聞かせる。

 ヴィヴィアンはクライヴに恋をした。シェリルのことを大切にしているクライヴに、恋をした。そうでなければこの思いは芽生えなかった。

 最初から完敗だったのだ。いっそ笑えてくるほどに、清々しい負けだった。

「それじゃあ、わたくしも失礼しますわ。ご機嫌よう」

「ああ」

 スカートを持ち上げてヴィヴィアンは優雅にお辞儀する。今この場に着ているのがお気に入りのドレスだったならどれほど良かっただろう。ヴィヴィアンを最もうつくしく見せるドレスで、最後くらいクライヴの記憶に残ってみせたかった。

 けれど、学園で始まって学園で終わった恋だ。臙脂色の制服が、ヴィヴィアンの恋を彩るドレスだったのかもしれない。

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