17:雨の日は読書
やってきた夏季休暇では、シェリルはのんびりと過ごしていた。
なんといってもパティをメインとした大中小の嫌味というか小言というか、とりあえずそんな感じの耳障りなものはない。何よりシェリルは夏が大好きだ。
夏季休暇の間は半数近い生徒たちは領地に戻る。残りは王都にある屋敷か、寮に残る者たちだ。
リタは王都ハートフィールドで暮らしているので、時折手紙を送って近況を教えあっていた。
ブライス家の領地である山間の街を吹き抜ける風がほんのり寂しげなものに変わったら、夏も終わりだ。
夏季休暇はあっという間に終わってしまう。
領地でのんびりと過ごしたシェリルは学園の慌ただしさに再び慣れるまで四苦八苦しつつ、久々に聞くパティの小言を聞き流す日々が始まっていた。
「げ」
図書室にやってきたシェリルは開口一番に思わずそう言った。
その声に気づいたクライヴはシェリルを見ると、しぃー、と人差し指を口元に添える。
秋雨は数日前から降り続いていて、なかなか晴れ間を見せてくれない。部屋の中までしっとりとした空気で満たされていて、シェリルのくせっ毛もいつも以上に暴れていた。
クライヴを避けてシェリルは本棚の間を移動する。テーブルで静かに本を読んでいるクライヴは動く気配がない。
(本に夢中になるといつもそうよね……)
本を選びながらシェリルは苦笑する。
昔からクライヴは本を読み始めると周囲の声があまり聞こえなくなるのだ。
(あ、あの本)
以前に読んだ本の続きではないだろうか。出版されていたなんて知らなかった。
シェリルは手を伸ばすが、上段にあるせいで届かない。背伸びをしても指先はかすめるばかりだ。
(こういうとき身長が低いの困るのよ……!)
当然、本棚は木ではないのだから登るわけにはいかない。脚立を探すしかないかとシェリルが諦めかけた時だった。
「これ?」
背後から伸びてきた手が、シェリルが取ろうとしていた本をいともたやすく本棚から抜き取る。
「……どうもありがとう、エヴァン」
「いいえ、どういたしまして」
(……一瞬、クライヴかと思ったなんて言えない)
本を受け取りながらシェリルは目を伏せる。
夏季休暇の間、クライヴとは顔を合わせずにいたから感覚も戻ったと思っていたのだが、どうにも彼のいるところでは差し出される手を当然のようにクライヴだと誤認する。
「それにしてもけっこう意外だな。本を大人しく読んでいるような性格だと思わなかった」
他の生徒の邪魔にはならない程度の小さな声でエヴァンが笑う。どういう意味だと思いながら、シェリルは自分の印象を考えればそう思われても仕方ないのだろうと文句は飲み込んだ。
「雨の日は部屋の中で読書をするって昔から決まっているの」
「決まっている? 家族との取り決めか何か?」
(……ああ、もう。まただわ)
口が滑った。無意識というのは本当におそろしい。
「そんなところ」
シェリルは苦笑しながら誤魔化しておく。わざわざ教えるほどのことでもない。
雨の日には外に遊びに行けないから、部屋の中で本を読もう。
そう決めたのはクライヴだ。
外で遊びたいと、雨の中でもかまわず飛び出してしまいそうなシェリルとそう言って約束した。駄々をこねるような小さな頃は絵本を読み聞かせてくれたし、シェリル自身も本を読むことが好きになったらオススメの本を教えてくれた。
雨の日は読書。びっくりするほど身にしみついていて、今でも無意識にそうしてしまっていたのだ。
「で、それを借りてどこで読む予定? ちょうど席は空いてるけど?」
エヴァンはクライヴの隣を見て意地悪そうに笑う。クライヴの向かいの席に荷物があるので、それが彼のとっておいた席なのだろう。
「お誘いはうれしいけど、教室で友達が待っているから」
今頃リタが教室で秋物の商品の売れ行きに頭を悩ませているはずだ。秋は何かと誘惑も多い季節だが、同時に冬前に節制する人も多いらしく売れる商品を見極めるのが難しいらしい。
「それはそれは。クライヴが残念がるよ」
そこでエヴァン本人がと言わないあたり、なんとなく彼らしいとシェリルは笑う。クライヴは依然として本に夢中らしい。
「そんなことはないわ。だってわたし、クライヴに嫌われているもの」
婚約なんて、結婚なんて絶対にごめんだと言われてしまうほど、シェリルはクライヴから嫌われているらしい。
残念ながら嫌われる理由はたくさん思い浮かんでしまうから、シェリル自身もそれは仕方ないと受け入れている。彼の都合も考えずに散々振り回した幼い自分が悪い。
「……え? えっと? ……シェリル。君、ちゃんと目はついている? 見えている? もしくは耳はしっかり聞こえている?」
エヴァンが不思議なくらいに動揺して、シェリルに問いかけてくる。何をバカなことを聞いてくるんだとシェリルは首を傾げた。
「見えているし聞こえているけど?」
「あー……あー……なるほどなるほど……」
エヴァンはしきりに頷きながら、なにやら納得しているようだ。
普段の図書室ならこんな風に会話ばかりしていたら睨まれているところだが、雨の日だから生徒も多くいつもより騒がしい。晴れた日には利用していない生徒が暇つぶしに図書室にやって来ているのだろう。
だがさすがにこれ以上話し込むわけにもいかない。
「よくわからないけど、それじゃあわたしはこれで」
「ああ、また……って、シェリル。何か落としたよ」
抱えた本の隙間からひらりと紙切れのようなものが落ちる。エヴァンの声に振り返って、シェリルは慌ててしゃがんだ。
「……栞?」
「ええ、そう。自分で作ったものだから、もうけっこうぼろぼろなんだけど」
落ちたのは、四葉のクローバーの栞だ。青いリボンはすっかり色褪せてしまったけれど、なんとなく替えることが出来ないまま使い続けている。
本当なら捨てるべきなんだろう。シェリルの初恋が砕けてしまったあの日に。
それでも、このクローバーを探してくれたクライヴを思い出すと捨てることなんてできなかった。四葉のクローバーはシェリルにしあわせを運んできてはくれなかったけれど、それでも大切な宝物だったから。
シェリルはもう一度エヴァンにお礼を言うと、クライヴに話しかけることもなく図書室を去る。
エヴァンがクライヴの向かいの席に腰を下ろすと、本から視線を動かさないままクライヴが口を開いた。
「自分の読む本を選んでいるんだと思った」
「どっかの誰かさんが本を読みふけっているから、俺が脚立の代わりをしてきたんだろうが」
どっかの誰かさんがクライヴであることも、脚立を必要としていたのが誰なのかも会話をしている二人には通じる。
シェリルには脚立か、脚立代わりの誰かが必要なのはわかっていたし、背を伸ばして上の棚の本を取ろうとしていたことにもクライヴは気づいていた。
だがクライヴは手を貸すことを躊躇った。
悪意からシェリルを守ろうと動くことは簡単なのに、純粋な善意は果たして彼女に喜ばれるのだろうかと考えてしまう。
どちらであっても、シェリルだから放っておけなかったという単純な理由がある。けれどそれはもう、自分が使うことは許されない言い訳だ、とクライヴは思っていた。
先に言葉の刃を向けたのはクライヴで、先に傷つけたのはクライヴだ。だからどちらが悪かったのかと突き詰めれば、明らかにクライヴが悪い。
傷つけたのだと思う。声を張り上げて、栞を投げつけて、去りゆく間際のシェリルはクライヴだけがよく知る、泣き出しそうなときの顔と同じだったから。
読みかけのページに栞を挟んで、本を閉じる。エヴァンのせいで集中力が切れた。内容が頭に入ってこないのなら、読んでいても意味はない。
「……その栞、けっこう使い込んでるよな」
雨のせいで図書室も混んでいるし、そろそろ出ようかとクライヴが立ち上がるとエヴァンが座ったままクライヴの手にある本を見ていた。
隙間から青いリボンがひっそりと自己主張している。その色が随分褪せてしまっていて、それだけあの日から月日が流れたことを突きつけてくる。
「……そうだな」
けれど、たとえどんなにボロボロになったとしても。
きっとクライヴは、この栞以外を使う気にはなれないのだと思う。
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