15:医務室へ

 鬱屈した気持ちが溜まると、シェリルは学園内の林へ行く。自然豊かな領地で育ったシェリルにとって良い息抜きになる。

 季節は夏、日差しが少し眩しいくらいだが林の中にいると日陰は多いし、吹く風は涼しく気持ちがいい。

 日傘もなしに外に出るなんて! と顔を顰める女子生徒は多いだろうが、息抜きをするわずかな時間くらいでぎゃあぎゃあ騒ぐようなシェリルではない。


「どうしたものかしらね……」


 うーん、とシェリルは頭をひねる。

 クライヴがシェリルにかまうようになってからもうそろそろ一ヶ月になる。ブライス子爵に言われたからといって律儀にここまでするクライヴもクライヴだ。

 話しかけられたところで、気まずさは消えない。シェリルの胸に刺さったままの棘は抜けたりしない。

 クライヴがシェリルを案じるたび、葉っぱが髪についてると手を伸ばしてくるたび、棘は大きくなって痛いくらいだ。

 ――こんなじゃじゃ馬ごめんなんでしょ、だったら無理してかまわなければいいじゃないの。

 そう言えたら楽になるのだろうかと思いながら、シェリルはいつもあと少しというところでその言葉を飲み込んだ。言ったら、シェリルもクライヴも傷つくような気がした。


「シェリル」


 木々の向こうに黒髪が見えた。

(……ほんと、どうして見つけるのよ)

 魔法でも使っているんだろうかと思うほど、クライヴはシェリルを見つけるのがとんでもなく上手い。入学したばかりの頃あまり顔を合わせなかったのは、きっと逆にクライヴがシェリルを避けていたからなのだろう。

「おまえこんなところで何してんだ。授業に遅れるぞ」

「それはクライヴも一緒じゃない……」

 由緒正しいお嬢様のようにゆったりと歩いていたら授業に遅れるかもしれないが、シェリルは健脚だし歩くのも早い。廊下を走ると叱られるので、早歩きが上手くなった。

 心配するほど校舎までは離れていない。シェリルがため息を吐き出しながら歩き始めるとクライヴは何も言わずについてくる。

 何がしたいんだと思いながら歩くシェリルの耳にぎゃあぎゃあと騒がしい声がした。


「ほら! 早くなさいな!」

「無理よ……だって重いもの……」

「元気が余っているパティが持つべき……」


(大中小の三人組? こんなところで何してるのかしら)

 自分のことは棚に上げてシェリルは首を傾げる。ここはまだ林の中で、あの三人がなんの用事もなくやってくるような場所ではない。

「急がないとここまでの苦労が水の泡に――」

「待ってパティ……!」

 何を慌てているんだろうと疑問に思いながらシェリルが歩いていると、きゃあっ! という悲鳴が近くで聞えた。

「シェリル!」

 次いで、クライヴの声がして、シェリルが何事かと察するよりも先に、シェリルはクライヴに抱き締められていた。

「なっ」

 大きな身体にすっぽりと包み込まれたのだとわかった瞬間に、体温が急上昇する。

 抗議しようと口を開いたシェリルは、バシャッと水がかかる音を聞いた。それは、すぐそばどころの話ではない。クライヴが頭からびしょ濡れになっていた。

(――水!? なんで!?)

 空は晴れ渡っていて、雨の気配なんて欠片もない。たとえ雨だとしてもこんな局地的に降ったりしないだろう。

「シェリル、濡れてないか」

 クライヴはシェリルをそっと離しながら問いかけてくる。クライヴの黒髪からは水滴が落ちていたし、制服はすっかり水を吸って色が変わっていた。

 背の高いクライヴが全身でシェリルを庇ったから、シェリルは髪の毛の先だって濡れていない。

「濡れてるのはあなたでしょう!?」

「この陽気ならすぐ乾くだろ」

 シェリルの心配をよそに、クライヴは自分が濡れていることはさっぱり気にかけていないらしい。

 見れば、シェリルたちの近くにはバケツが転がっていた。クライヴがかぶったのはこの中にあった水なのだろう。

「バケツいっぱいの水をかぶっておいてすぐ乾くわけないじゃない! 風邪引くわよ!!」

 ともかく拭いて着替えねば、とシェリルはクライヴの腕を掴み医務室へ向かう。医務室ならたくさんのタオルがあるはずだ。

 林を出る途中で真っ青になっている三人組が見えた。転がっていたバケツといい、直前に聞こえた会話といい、犯人は間違いなくパティたちだ。しかし今は彼女たちにかまっている暇はない。

(あんの三人組~!)

 なんのつもりか知らないが、あの三人がバケツいっぱいの水を運んでいる理由なんてシェリルへの嫌がらせか何かだろう。もしかしたらあの水をシェリルにかけるつもりだったのかもしれない。

 しかし実際びしょ濡れになったのはクライヴだ。彼女たちが慕うヴィヴィアンが思いを寄せているという相手である。それは真っ青にもなるだろう。

 世の中、悪巧みなんてうまくいかないものだ。


「シェリル、医務室ならここを左」

「う」


 ふつふつと湧き上がる怒りを噛み殺しながら無言で歩いていたが、黙って腕を引かれていたクライヴが道を訂正する。

(しかたないじゃない、医務室なんて来たことないし……!)

 入学して数ヶ月、医務室のお世話になるようなことは一度もない。シェリルがぶつぶつと言い訳しているうちに医務室にたどり着く。

「失礼します……って、無人? 誰もいないわ」

「教員棟にでもいるのかもな」

 せっかく来たのにと思いながら、怪我をしたわけではないし、医務教諭がいなくても特に問題ない。無断でタオルを借りたところで叱られることはないだろう。

「えっと、タオルタオル……」

 棚の中を確認しながらシェリルはタオルを探す。薬品棚の隣に備品をしまっているらしい棚がある。

「あ、あった。クライヴ、タオルを……うひゃあ!?」

 見つけたタオルを手に振り返ったシェリルは、悲鳴をあげて再びクライヴに背を向けた。

「ぬ、脱ぐなら脱ぐって言ってよ!」

 クライヴは制服の上着どころかシャツまで脱いでいた。上着は厚手の生地なのに中のシャツまで水はしみてきていたらしい。

「濡れてる服、気持ち悪いし」

 クライヴはそう言いながらシェリルの後ろから手を伸ばしタオルをとる。見上げると惜しげもなく上半身を晒すクライヴと目が合った。

 いかに常識外のお嬢様だとしても、シェリルもそこそこ箱入りの娘である。異性の裸なんて見たことあるはずがない。

「そ、その格好で近づくのやめてよ!」

 クライヴの髪から滴り落ちる水滴がシェリルの頬に落ちてくる。

「……そんなに怖がることないだろ」

「怖がってないかないわよ!」

 本当は少し怖いのかもしれない。けれど負けず嫌いなシェリルはキッと睨みながら否定する。

 その時、ガラリと扉が開く。シェリルもクライヴもその音につられるように扉を見た。


「……ん? もしかしてお邪魔だった?」


 そこにはエヴァンがいて、上半裸のクライヴと、一緒にいるシェリルを交互に見ている。茶化すような言い方だが彼も状況が掴めていないようだった。

「……バカ言うな」

 クライヴがため息を吐き出しながら髪を拭く。シェリルは否定するよりもクライヴが離れていったことに安堵していた。心臓がびっくりするほど騒がしくてなかなか大人しくなってくれない。

「エヴァン、シェリルを教室まで連れてってやってくれ」

 ふー、とシェリルが深呼吸を繰り返して心臓を落ち着かせていると、クライヴがエヴァンにそんなことを言った。

「え? 別に一人で平気よ」

「あまり医務室に来たことないから、道があやふやだろ」

(……だから、なんでわかるのよ)

 ここに来るまでは怒りで頭がいっぱいだったせいで、道順をろくに覚えていない。

「はいはいっと、じゃあ行きますかレディ?」

「……あなたクライヴに用があるんじゃないの」

 医務室にやって来たエヴァンはどこも怪我していないし、体調が悪いわけでもなさそうだ。授業が始まるのに戻ってこないクライヴを探してここに行き着いたのかもしれない。医務室に来るまでにすれ違った生徒に聞けばすぐに居場所はわかっただろう。

「怪我はしてないみたいだし、野郎の顔を見ててもつまらないし」

「ああ、そう……」

 クライヴは着替えを見つけるか、濡れた服が乾くまで動けない。シェリルがいつまでも付き添う理由もないし、ここは授業へ戻るのが正解だろう。今から戻っても遅刻は確実だとは思うが。


「……クライヴ」


 エヴァンと共に医務室を出る。その直前、シェリルは小さくクライヴの名前を呼んだ。

 クライヴは返事はしないものの、青い瞳で「どうした」とシェリルを見つめてきた。晴天のようなその目に、自分の姿がうつる。かつては当たり前だったそれに、シェリルはいたたまれなくて目を逸らした。

「その……ありがとう」

 今お礼を言わなければ、意地っ張りなシェリルはずっと言えないままになってしまう。だから声を絞り出すようにして、シェリルはお礼を告げた。

 そしてすぐに医務室を出る。クライヴの顔を見るのも返事を聞くのも、恥ずかしくてできそうになかった。

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