9:木の上のハンカチ

 ヴィヴィアン・ベックフォードの取り巻き三人との衝突が、ただの一度きりで終わるとはシェリルも思っていなかった。

 たった一回とはいえ、彼女たちに喧嘩を売ったことは事実だ。パティたちのシェリルに対する印象は最悪だろう。もともと良くもなかったのだろうが。

 だから多少の嫌がらせは想定の範囲内だ。


「まぁ、困ったわ! モリーの大切なハンカチがあんな高いところに!」


 わざとらしい演技がかったパティの声に、シェリルは呆れて物が言えなかった。

 ちょうどシェリルが傍を通り過ぎるタイミングで、パティは木の上を見上げて困ったようにそう言ったのだ。

 状況としては、そう、入学したばかりのシェリルが最初にやらかしてしまった例の木登りである。あの程度は木登りに入らないとシェリルは主張したいところだけど、そこはパティたちをはじめとした令嬢にとっては大差ないことなのだろう。


「ど、どうしましょう……誰か木登りが得意な人はいないかしら」

「さすがに私は木に登れない……おやつを食べるのに忙しいから正直どうでもいいし」

「エイミー! あなた少しは食べる量を減らしなさい!?」


 モリーはちらちらとシェリルを見てくるが、エイミーは我関せずといった感じでマシュマロをつまんでいる。そんなエイミーを叱りつけているのがパティ。

(……これ、嫌がらせのつもりなのかしら?)

 おそらく彼女たちはシェリルが再び木に登ってハンカチをとる姿を笑いたいのだろう。わざとらしく騒いでいるもの人目を集めたいのかもしれない。

 しかしここはあの時のように広場ではないから、生徒はちらほらと数える程度しかいない。そのほとんどが移動中で、パティたちに目を止める者はいなかった。

(というか、背の高いモリーが背伸びすれば手が届くんじゃないの……? ああそうか、そうやってハンカチを引っかけたのかな)

 ハンカチを木の高いところに意図的にひっかけるには、手を伸ばすか棒を使うかしかない。幸運にも風が吹いてくれるなんてことはないだろうから。

 だからきっと、一番背の高いモリーがその役をさせられたのだろう。彼女が手の届く精一杯の高さだ。男子生徒なら背伸びをしなくても届くかもしれない。

 もちろん、女子生徒の平均身長にも届かないシェリルは木に登らなければハンカチをとることはできないだろう。


 それにしても杜撰な計画だ。


 互いに印象が良くないことなど百も承知だろうに、どうして通りがかったシェリルがハンカチをとってくれるなんて思ったのだろう。このまま見なかったことにして通り過ぎたら、まったく意味をなさない嫌がらせだ。

 通り過ぎるのが正解なのはわかっている。

 だが。

(……モリーの必死な目線が痛い。そして視界の端に見えるだけなのにびっくりするほど顔色が悪い)

 このままシェリルが通り過ぎたらパティは怒るだろうし、それを宥めるのはモリーなのだろう。エイミーはどんなことがあっても我関せずだ。

 かといって、三人の目論見通りに行動するのは負けている気がする。モリーがパティから八つ当たりをされようがシェリルには関係のないことだ。

 すっぱり割り切ってしまえるのなら良かったのだが、シェリルの良心はちくちくと痛む。

(あー……もう!)

 どうにか引っかかっている程度のハンカチだ。樹を揺らせば落ちてくるだろう。苛立ちに任せて樹を思いっきり蹴ってやろうかとシェリルが三人に向き合ったときだった。


「シェリル?」


 壊れた人形みたいに、ぴたっとシェリルの身体が止まる。

 この学園でシェリルを呼び捨てにするのは二人しか心当たりがない。一人はリタ、もう一人は――

「……クライヴ」

 振り返ると、黒髪の青年がシェリルを見ていた。移動の途中なのだろうか。エヴァンの姿は見当たらない。

「何してんだそんなところで」

 何もなければ立ち止まるような場所ではない。モリーの痛々しい視線を無視しきれずに悩んでいたシェリルをクライヴはたまたま見つけたのだろう。

「……ハンカチが木の枝に引っかかってしまったそうよ」

 ほら、とシェリルが指さすと、クライヴはわずかに眉を寄せた。

「また?」

「ええ、そう。また。偶然ね?」

 入学したての日のことはクライヴも覚えているらしい。一ヶ月やそこらでそう何度も遭遇するようなことではない。

(まぁ、クライヴだってわたしの評判は耳にしているでしょうよ)

 木登りをする非常識な令嬢。彼が四年前に言ったとおりのじゃじゃ馬だ。

 パティたちは慌てているようだった。この状況は察しのいい者ならすぐにわざと仕組んだものだとわかってしまう。彼女たちもそんな嫌がらせをするような令嬢なのだと印象を残してしまうのは不本意なのだろう。自分たちの将来の縁談にだって影響するかもしれない。

 シェリルは子爵令嬢、パティたちも似たようなものだ。しかしクライヴは伯爵家の人間である。同じ貴族でもこの差は大きい。

「なんだ。このくらいの高さなら男子生徒の誰かに頼めば簡単に届くだろ」

 クライヴは思うところもあっただろうが、そう言いながらあっさりとハンカチを木の枝からとる。

「あ、ありがとうございます……」

 モリーが受け取りながら消え入りそうな声でお礼を言っている。

(昔はあんなに背が高くなかったのに)

 クライヴはどちらかというと背の低い男の子だった。四年前あたりから成長期を迎えたのかぐんぐん伸びて、シェリルの知るクライヴなど欠片も残っていない。


「パティ? モリー? ……いったいどうしたの?」


 さて三人の策略は見事クライヴによって壊された。シェリルがさっさと立ち去ろうとしたところで凛とした声が近づいてきた。

 透き通るほどに白い肌、豊かな金の髪にサファイアのような青い瞳。ほっそりとしていながらも女性としての魅力を失わない百合の花のような少女だった。

「ヴィ、ヴィヴィアン様!」

 パティがあたふたしながら名前を呼んだので、シェリルもこの少女がヴィヴィアン・ベックフォードであるとわかった。

「クライヴ・ロートン様? その、三人が何か……?」

 ヴィヴィアンはパティたちに話しかけるよりも先に、クライヴに向き合う。ちょうどクライヴは木の下でモリーと並んで立っているところだ。心なしかモリーの顔色が悪い。貧血で倒れそうなほど真っ青だ。

「いや、別に何も。たいしたことはしてない」

 クライヴはそれだけ言うとシェリルのそばに戻る。そのせいか、ヴィヴィアンが初めてシェリルの存在に気づいたようだ。

 ヴィヴィアンの目がシェリルをとらえる。紹介もないのにごきげんようと暢気に挨拶するわけにもいかないし、シェリルは軽く会釈だけをした。

「シェリル、行くぞ。授業に遅れる」

「え、あ、うん」

 クライヴは相変わらず無愛想だ。ヴィヴィアンは何やら言いたげに彼を見ているというのに、そんなことには気づきもしない。

 クライヴが行くというのにシェリルがその場に残る理由はない。あの三人と初対面のヴィヴィアン、クライヴのどちらがいいかと聞かれたらもちろんどんなに気まずくてもクライヴのほうがマシだ。


「……おまえ、大丈夫か?」

 ヴィヴィアンたちから離れて数分、並んで歩きながらクライヴが問いかけてきた。隣に並ぶ彼の顔を見ようとして、シェリルは随分と見あげなければ顔が見えないんだなと思う。

「別になんてことないわよ。あの三人はやたら絡んでくるけど大したことないし、友達だってできたんだから」

「へぇ、おまえに合わせられるような子がこの学園にいたのか」

「どういう意味よ」

「そのまんまだろ」

 ふっ、とクライヴが笑う。

(あ)

 すっかり変わってしまったと思っていたのに、笑ったときの顔は昔と変わっていなかった。そんなことにいちいち気づいてしまう自分にシェリルはため息を吐きたくなる。

(だいたい、わたしのことは嫌いなんじゃないの? だったらなんで話しかけてくるのよ……。わたしがどんな目にあっていようが、ほっとけばいいじゃない……)

「……どういうつもりよ、まったく」

「ん?」

 シェリルは俯いて小さく呟くと、クライヴには聞き取れなかったのだろう。シェリルの顔を覗き込むように身をかがめる。

 身長差があるので、隣に並んでいても小さな声は聞き取りにくいらしい。

「……なんでもない」

 そんな些細なやり取りすら昔とは違うと感じるのに、どんなつもりであれクライヴがシェリルのことを心配しているのだとわかってしまう。わかってしまうから、困っている。

「そうか? 俺は向こうに行くけどおまえは……」

「反対側よ。心配しなくたって友達が迎えに来てるわ」

 クライヴはシェリルが迷子にでもなると思っているのだろうか。ちょうどこちらに向かって手を振っているリタを見つけてシェリルは答えた。

「それなら良かった。それじゃ」

「ええ、じゃあね」

 今はもう、これ以上仲良く一緒にいるような間柄ではない。きっぱりと別れを告げてリタのもとへ行こうとするシェリルを、クライヴが呼び止めた。

「……シェリル」

「なに? まだ何かあるの?」

 振り返ったシェリルは睨むようにクライヴを見る。目が合った瞬間、クライヴは気まずそうに視線を落とした。

「……何かあれば俺に言えよ」

「なにそれ。クライヴ、あなたはわたしの保護者か何かのつもり?」

「……少なくとも兄みたいなもんだろ」

「兄みたいな存在はオズワルド兄様だけで十分よ」

 可愛くない返答だと自分でも思う。けれどシェリルは続けた。

 兄なんて。

 そんなものではなかった。シェリルとクライヴは対等だった。対等だったと、シェリルは思っている。

 たとえどんなにシェリルがクライヴを振り回していたって、どんなにクライヴがシェリルを見守っていたって。

 それでも、共に笑いあって過ごしていたあの頃は、紛れもなく互いに無二の友人だったはずなのだ。


「クライヴのことを兄みたいだなんて思ったことは一度もないわ」

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