6:学園入学

『クライヴ・ロートンとの婚約が嫌だというのなら、そのパーティまでに自分で婚約者を見つけなさい』


 父からそんな条件を突きつけられて一週間、シェリルは王立ラウントリー学園に入学した。

 真新しい臙脂色の制服に身を包み、シェリルは校門をくぐる。通学の生徒は門の傍らで馬車から降りるので、朝の時間はたいへん混みあっていた。

 ラウントリー学園は広大で、三棟の学科棟の他にも職員棟、馬場があり、他にも生徒たちが寛ぐためのカフェスペースや広場などもある。もちろん寮生のための男子寮と女子寮も敷地内に建てられているが、今のところシェリルには無関係の場所だ。


(……婚約者どころか、友達ができるか不安になってきたわ)


 シェリルは知らなかったのだ。

 たいていの生徒は学園に入る前から交友関係があって、たとえ新入生であってもそれなりに会話をする相手は決まっているのである。

 ぽつん、とシェリルは一人でいるが、周囲にちらほらといる新入生は既に何人かで集まっていた。特に女子生徒はその傾向が強い。

 貴族であるのならなおさら、親類や親同士の付き合いで、ある程度同年代の知り合いがいるものなのだろう。しかしシェリルの場合、同年代の知り合いはほとんどいない。

(昔から遊び相手といったらクライヴくらいしかいなかったんだもの……)

 もちろんクライヴもラウントリー学園に通っている。だがシェリルが彼を頼るなんてことはありえない。

(向こうだって会いたくないでしょうし)

 すっかり抜けなくなった棘は、今でもふとした時にシェリルの胸を攻撃してくる。クライヴのことを考えるたびに襲われるちくちくとした痛みは、耐えることはできても慣れることはできなかった。

 ふぅ、と痛みを紛らわせるようにシェリルがため息を吐き出した時だった。


「きゃあっ」


 突然吹き抜けた風に、小さな悲鳴が聞こえる。

 見ると女子生徒が木の下で困ったように上を見上げている。その視線の先をたどると、木の枝にハンカチが引っかかっていた。先ほどの風に飛ばされたのだろう。

(これは友達を作るチャンスかも!)

 シェリルは目を輝かせると女子生徒に駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

「え、ええ……でもハンカチが」

 いただいたものなのに、と女子生徒は悲しそうに目を伏せる。

 シェリルは見上げてハンカチの位置を確認する。引っかかっている枝はそう高い位置ではないが、背伸びをして届く高さでもない。

(でもこのくらいならすぐに取れるな)

「ちょっと待っててくださいね」

 シェリルは女子生徒に微笑むと「よっ」と言いながら手頃な高さの枝に手をかける。続けて幹を蹴るようにしてするりと木に登った。正確には木に登る途中のような状態で手を伸ばした。

 このくらいの高さならスカートでも下着が見えるなんて失態は見せずに済む。もちろんその気になればこの木の上に登ることくらいシェリルにとっては簡単なのだが。

 華麗に着地して、シェリルはにっこりと笑う。ハンカチに汚れがないかを確認して、女子生徒に差し出した。

「どうぞ」

 しかし女子生徒は困惑の表情を浮かべて、シェリルとハンカチを交互に見た。

(あれ? このハンカチだよね? 他に引っかかっているものなんてなかったし)

 一向に受け取ってもらえないハンカチを見てシェリルも困る。


「やだ、なんなのかしらあの子。なんてはしたない……」

「新入生? もしかして庶民の方かしら?」


 ひそひそとした声が聞こえてくる。それらは遠巻きにこちらを見ている女子生徒たちのものだ。シェリルを見て眉を顰めている。

(あー……やっぱり作法だのマナーだのって嫌いだなぁ……)

 気づかれないようにそっと息を吐く。

 ちょっとした下心はあったものの、シェリルが発揮した親切心は貴族の令嬢として「なんてはしたない」と眉を顰められるものなのだ。

(やっぱり、わたしには学園で友達を作ることも難題なんじゃないかな……)

 学園に通うのが周囲にいるような女子生徒ばかりなのだとしたら、シェリルとは壊滅的に性格が合わない。

 ぎゅっと救出したハンカチを握る手に力がこもる。唇を噛み締めて、その痛みで涙を堪えた。


「おいおいお嬢さん? ぼんやりしてないで受け取ってあげないと困ってるんじゃないかな?」


 その場に不釣り合いなほどに明るい声が響くと同時に、シェリルの手からハンカチがなくなる。

「どうぞ、レディ?」

 え、とシェリルが目を丸くしているうちに、シェリルの手からハンカチを抜き取った男子生徒は女子生徒に手渡していた。

 赤い髪が鮮やかだった。女子生徒は頬を赤く染めておずおずとハンカチを受け取っている。

(……誰? この人)

 少なくともシェリルの知り合いではない。夕焼けのような赤い髪をもつ男の人に心当たりなどなかった。

 ならば親切心で間に入ってくれたのか、それとも――


「エヴァン」


 女子生徒がシェリルにどうにか聞こえる程度の声でお礼を言って去っていくと、また一人こちらに近寄ってきた。

 黒い髪に、晴天のような青い瞳。

 幼い頃に比べて随分と背が高くなったその人に、シェリルは息を飲んだ。こうして会うのは、年始の挨拶で彼がブライス家にやって来たとき以来だ。あの時も挨拶だけで、お互いそれ以上に話はしなかった。

「クライヴ」

 エヴァンと呼ばれた男子生徒が、ひらひらとクライヴに向かって手を振る。クライヴはエヴァンをちらりと見たあとで、シェリルを見た。

 ぎゅっと心臓が締め付けられるように痛くなる。刺さったままの棘が大きくなった錯覚さえあった。

「……おまえ、本当に変わらないんだな。その年になってもまだ木登りなんて」

 呆れるような声のあとで、クライヴはシェリルに歩み寄るとシェリルの制服のスカートについていた葉を手で払った。まるで小さな子ども相手にするような、そんな身に染み付いた仕草のように見えた。

 懐かしい、と思う。

 クライヴはいつもそうだった。遊んでいる間に土埃や葉っぱをつけていたシェリルを笑いながら、それをやさしく手で払い落とす。

 だが今はお互い小さな子どもではない。周囲から浴びせられる視線には好奇の色が増えた。良くも悪くも男女の関係に敏感な年頃だ。学園に通う生徒はシェリルのように生涯の伴侶を探している者も少なくはない。

「そっちこそ、背ばっかり伸びて、中身は全然変わり映えないじゃない。レディのスカートに断りなく触れるなんてどうかしてるわ」

 言いながらシェリルはペシッとクライヴの手を叩く。

「……レディ?」

 おまえが? と言いたげな青い目を、シェリルはぎろりと睨みつける。

(そりゃ一人前のレディとは言い難いかもしれないけど! だとしてもわたしはもう十六歳なんだけど!?)

 本来、男女ならば手に触れることすら許可をとるべきで、断りもなくスカートに触るなんて非常識もいいとこだ。それこそ、そういう仲なのだと勘違いされても仕方ない。

(入学早々に誤解が広まったら婚約者を見つけるどころじゃなくなるじゃない!)

 うー、と唸り始めそうな勢いでクライヴを睨んでいると、傍らにいたエヴァンは耐え切れずにぶはっと吹き出した。

「聞きしに勝るってやつだな。はじめまして、ブライス嬢?」

「……あなたはわたしをご存知のようだけど、生憎わたしはあなたを紹介されていないの」

 この状況からしてもエヴァンはクライヴの友人なのだろう。シェリルを見下ろす琥珀色の瞳は楽しげに細められていて、あまりいい印象はない。

「失礼、エヴァン・ガーランドと言います。以後お見知り置きを、レディ?」

 やんわりとクライヴに紹介しろという意味で言ったのに、クライヴが口を開くより先にエヴァンが名乗った。

 その上、流れるような仕草でシェリルの手を持ち上げて、指先にキスをする。茶目っ気たっぷりにウインクする様にくらりとくる女性も多いだろう。

(ガーランド……確か、伯爵家だったかしら)

 自由奔放そうな様子に、勝手に商家のご子息かと思ったがそうではないらしい。

「シェリル・ブライスと申します」

 名乗られた以上は、たとえ相手がシェリルを知っていようと名乗るべきだろう。シェリルは制服のスカートをちょんと持ち上げて挨拶をした。

 それはつい先ほど木に登る暴挙に出る令嬢だとは思えないほどきちんとした、むしろ洗練された仕草だった。

「……」

 沈黙が落ちる。

 気づけば周囲から好奇の目は消えていた。シェリルがクライヴともエヴァンとも良い仲ではないと悟ったのだろう。

 エヴァンとは初対面だし、クライヴとも仲良く世間話をするような空気でもないし、とシェリルは「それじゃあ」とその場を去ろうとする。

「君は新入生だろう? 最初のうちは突飛な行動は控えておくといい。ここには古臭くて口うるさい人間も多いから」

「……ご忠告ありがとう」

 既に『突飛な行動』をしてしまったあとでは忠告も虚しいが、シェリルはとりあえずお礼を言っておいた。

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