5:クローバーの栞

 クライヴがくれた四葉のクローバーは、押し花にすることにした。そうすれば枯らしてしまわずにすむから。

 分厚い本の中にクローバーを挟む。しばし四葉を眺めるのはお預けだ。けれどシェリルの胸はフワフワとした心地でいっぱいだった。

 クライヴのことはもちろん昔から大好きだった。けれどこうしてシェリルの気持ちを浮上させる感情は、今まで抱いていた「好き」とは違うものであることくらい、シェリルにだってわかる。

 人魚姫が人間の足を手に入れようとするのだって、囚われのお姫様が勇気を振り絞って窓から脱出しようとするのだって、理由はひとつだ。


 シェリルはクライヴに恋をしている。

 それが答えだ。


「思えばたぶんずっと前からそうだったのかもしれないけど、自覚するとなんだかちょっと恥ずかしい……」

 だってクライヴには変なところを散々見られている。今更彼もそんなことで驚くはずもないけれど、恋を自覚したばかりの乙女心としては複雑だ。

 ロートン夫妻は明後日には帰る予定だが、クライヴとオズワルドは一週間ほど滞在する予定だ。じんわりと暑くなり始める初夏、山や森の近くにあるブライス家は涼しくて過ごしやすい。

 きっと一週間後ならクローバーの押し花もできる。栞にして、ひとつはクライヴにプレゼントしようと決めていた。

(明日はちょっと女の子らしいことをしよう!刺繍は……下手くそだから笑われそうだし、何か他のこと……)

 少しはシェリルのことを女の子なんだと意識させるためには、こちらから行動しなければ!

 女の子らしいこととはなんだろう、とシェリルは本を開いた。女の子が好きらしいと父が集めてきたロマンス小説だ。

「……これだ!」




 翌日、エプロンをつけたシェリルを見てクライヴは訝しげに眉を寄せた。

「……クッキーを作る? おまえが?」

(うん、怪しまれてる気がする!)

 無理もない。晴れている日なら外へ行こうと率先してクライヴを引っ張っていくシェリルが、突然お菓子作りをするなんて言い出したら誰でも怪しむだろう。

 だがそこはシェリルもきちんと言い訳を用意していた。

「物語のヒロインがクッキーを作っていたの!」

「またそれか」

 おまえはすぐ影響されるよな、とクライヴは笑う。

 昨日本からヒントを得たシェリルは厨房を占拠してクッキーを作ることにした。手作りのクッキーをプレゼントするシーンがあったのだ。

 その本のヒロインは庶民で、かつヒーローも貴族ではなかったことなどシェリルの頭の中から吹き飛んでいた。貴族の中では未だに自ら厨房に立つなど非常識の部類である。

 だがそんな非常識も、シェリルならしかたないという空気が出来上がっていた。家族は止めるどころか「怪我をしないようにね」と見守る始末である。

 ブライス夫妻は実におおらかな性格といえるだろう。娘の奇行にはすっかり慣れている。

「一人で作るんだから、クライヴも黙って待ってて!」

「一人でって……できるのか?」

「できるわよ!」

 訝しむクライヴについムキになって答える。クライヴは無理だろ、と言いだけな顔をしていた。

(まったく、失礼なんだから! 作ったことはないけど、わたしだってレシピを見ればクッキーくらい……!)

 しかしそう思っていられたのは最初、いや準備を始める前までだった。


「え、えっと粉を量るのはこれ……? 粉をふるう? ふるうってなに?」


「バターを室温にするってどういうこと? 室温? あたためればいいの?」


「混ぜればいいって、全然うまく混ざらないじゃない! なんなのもう!」


 わからないことだらけで癇癪を起こしながらも、シェリルは根性と負けず嫌いの精神でそれらしき形にして、オーブンにつっこんだ。あとは焼けばいいはずだ。

(す、すごいつかれた……!)

 ぐったりと厨房の椅子に座りながらシェリルはクッキーが焼き上がるのを待っていた。生地を作るだけなんてと甘くみていた。

「でもあとは待っていればいいもんね……」

 ほぅ、と息を吐き出す。器具がぐちゃぐちゃになったままだし、厨房は粉だらけだが片付けはあとでもいいだろうと一息つく。

(……あれ、なんだか焦げ臭い?)

 くん、と匂いを嗅ぐ。

 オーブンに目を向けると、もくもくと黒い煙が出てきている。

「え!? なんで!?」

 シェリルがあたふたと慌てたところで、ばふんっという音をたててオーブンは沈黙した。


「……えぇ……」


 出来上がったのはクッキーというよりも炭の塊だった。

 粉まみれになってまでがんばったのに、とシェリルはため息を吐き出した。

「焦げ臭いと思ってきてみれば……やっぱりな」

「クライヴ!」

 炭の塊をひとつ持ち上げて、クライヴは眉を寄せる。

「これがクッキーか? おまえどうやったらこんなクッキーが作れるんだよ」

 そんなことシェリルだって知りたいくらいだ。自分でもフォローしたいところだけど、こんなクッキーは食べても苦味しかないだろう。

「初めてなんだから失敗くらいするさ。今度は料理長についていてもらったらいいんじゃないかな」

「オズワルド兄様……」

 やさしいオズワルドはしゅん、と落ち込むシェリルを慰めるように頭を撫でてくれる。こういうとき、この兄弟はいつも対照的だ。

(つ、次こそは美味しいクッキーを作るんだから!)

 しかしオーブンは修理しなければならないだろうし、片付けもしていない。シェリルのやる気は有り余っているものの、その日は厨房を片付けるだけで終わってしまった。




 クライヴからもらった四葉のクローバーは、綺麗に押し花にできた。

 シェリルは慎重にそれを栞にしていく。

「あっ」

 ぺったんこになったクローバーを持ち上げるときに、葉の一枚が少し破けてしまった。

「ああ……やっちゃった」

 もともとシェリルは大雑把な性格で、手先もあまり器用ではない。気をつけたのに、としょんぼりしながら破れてしまったところが分からないように台紙にのせる。

(破れちゃったこっちは、わたしの分にしよう)

 もう一枚は呼吸することすら忘れるくらい慎重に扱う。四葉のクローバーは二枚しかないのだ。失敗なんてできない。

 クッキーすらまともに作れなかったのだ。せめてクローバーの栞は綺麗なものを作ってクライヴに見せたい。きっと褒めてくれるんじゃないだろうか。クライヴもシェリルが不器用なことは知っているから。

 他にも飾りを付けようかと悩んだが、結局は四葉のクローバーにリボンをつけるだけのシンプルなものにした。リボンはシェリルのお気に入りの青いリボンを使う。クライヴの瞳の色と同じだ。


 無事に出来上がった栞を手に、シェリルはクライヴのもとへ急いだ。

 ちょうど窓から、オズワルドと二人でいるのが見えたのだ。

 階段を踊るように駆け下りて、飛び跳ねるように走る。浮き立つ気持ちをどうにもできなくて、シェリルは庭に出た。


「――ゆくゆくはおまえとシェリルが婚約、結婚かな。父さんも伯父さんも乗り気みたいじゃないか」


 オズワルドの声に、シェリルは足を止める。

(こ、婚約って……)

 かぁ、と頬が熱くなる。シェリルはついこの間、クライヴが好きだと自覚したばかりなのに。

 もちろん、そういう可能性を考えなかったわけではない。

 お嫁さん、なんて言葉を覚えた頃から漠然と自分が結婚するとしたらクライヴなんじゃないかと思っていたりもした。ブライス子爵家の現状を理解すればするほど、クライヴはぴったりな相手なのだと知った。

 恋を自覚して、そんなこともすっかり頭から吹き飛んでいたけれど。

(このままいけば、もしかしてクライヴのお嫁さんに……)

 この瞬間まで、世界の何もかもがシェリルに味方していると感じた。

「バ、バカ言うなよ!」

 その声が庭に響き渡るまでは。


「あんなじゃじゃ馬と結婚なんて絶対にごめんだよ!」


 ――じゃじゃ馬。

 クライヴがシェリルのことをそんなふうに言うことは何度もあった。お転婆、じゃじゃ馬、およそ貴族の令嬢にとってはうれしくない呼び名だったけれど、シェリルはあまり気にしたことがなかった。

 だって、クライヴはそれでもいいって思ってくれているのだと思った。シェリルがどんなことをしても、怒って、呆れて、でも最後には笑ってくれていたから。

 そうではなかったのだ、と理解すると胸に氷の矢が刺さったように冷えていく。

 胸の奥は冷え切っているのに、頭は太陽に熱せられたくらいに熱かった。先ほどまでの浮かれていた気持ちなんてどこか遠くに吹き飛んでしまった。

(ああ、そう! そうね! 誰だってわたしみたいな子は嫌でしょうね!)

 さくりと一歩踏み出すと、クライヴとオズワルドは驚いたような顔でシェリルを見た。やはり二人ともシェリルに気づいていなかったらしい。

 キッとシェリルはクライヴを睨みつける。


「わたしだってあんたなんかお断りよ!」


 泣きたくなるのを堪えるには、悲しみを怒りに変えるしかなかった。胸に刺さった氷の矢は、怒りの炎で溶かしてしまえばいい。

 持ってきた栞を乱暴に投げつける。投げられるものならなんでも良かった。大事な四葉のクローバーが、大事な栞が、今はとてもそうは思えない。

 涙で滲みかけたシェリルの瞳に、慌てたような、困ったようなクライヴの顔がうつる。ほんの少し悲しげに見えたのはシェリルの恋心が見せる幻想だろう。

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