3:君と過ごした幼い日々(2)
十一歳になるとシェリルのじゃじゃ馬っぷりには拍車がかかっていた。
クライヴは我が家同然にすっかり慣れた顔でブライス子爵家へとやってきて、ふと庭を見た瞬間に自分の目を疑った。
シェリルが、窓から垂れ下がる縄のようなものにぷらぷらとぶら下がっていたのである。
「シェリル!?」
慌ててその下まで駆け寄ると、シェリルはクライヴを見下ろした。
「あら、ごきげんよう。クライヴ」
けろっと挨拶されたが、その光景は異常だった。シェリルがぶら下がっている先の窓は彼女の部屋だ。近づいてわかったが、シェリルが握っている縄みたいなものはおそらくシーツ。しかもただ細く丸めただけの。
シェリルの部屋は二階だからそこまで高くないものの、何をどうやったらそんな状況になるのかわからない。
「おまえ、何して――」
「あ、落ちそう」
クライヴが問おうと口を開いたが、シェリルが握っていたシーツがべりべりっと嫌な音をたてた。
これにはクライヴも真っ青になって、落ちてくるシェリルを受け止めようとした。小柄な少年だった彼も、最近は背が伸び始めて少しずつ男らしくなってきている。
シーツが思いのほかゆっくりともったいぶるように破けたことと、シェリル自身が木登りが得意で高いところに耐性があったこと、そしてクライヴが咄嗟に上着を脱いで両腕に広げクッションの代わりにしたこと。
そのどれかが良かったのか、あるいはすべてが効果があったのか。
見事クライヴを下敷きにしたシェリルには怪我ひとつなかった。下敷きにされたクライヴもしたたかに腰と背中を打った程度ですんだのは不幸中の幸いだっただろう。
「おっまえ……! バカだろ!? 何してんだよ!? さすがに死ぬぞ!?」
草だらけになったクライヴは未だに自分の上に乗ったままのシェリルに向かって怒鳴った。その剣幕はごく普通の女の子なら泣き出してもおかしくないほどだが、シェリルは慣れっこだった。
「昨日読んだ本にね、囚われのお姫様がシーツを使って脱出するシーンがあったの。でも普通、お部屋にはシーツは一枚しかないじゃない? それにね、シーツを割くのってけっこう大変そうなの。より実現可能な状態で本当にできるか試してみたんだけど、やっぱり地上まで足はつかなかったわ」
「物語は物語だろ、現実とは違うんだよバカ!」
「物語でも嘘を書くのはダメよ。それならやっぱりそっちの木に飛び移ったほうが安全に逃げられるわよね」
「そんなに運動神経のあるお姫様がいるわけないだろ……」
シェリルなら可能かもしれないけど。念入りに釘を刺しておかないとそちらも試しにやってみるなんて言い出しかねない。
はぁ、とため息を吐きながらクライヴはシェリルの腕等に触れる。
「痛いとこは? ないよな?」
「ないわ。クライヴが受け止めてくれたおかげね!」
ありがとう! と素直にお礼を言うシェリルにクライヴはまたため息を吐き出す。肺の中の空気は全部ため息となって消えてしまいそうだ。
「俺がいなかったらどうするつもりだったんだよ……」
「足の骨くらいは折れていたかも。骨折はしたことないからそれはそれでいい経験かもしれないけど、クライヴと遊べなくなるのは嫌だわ」
どうして遊ぶ内容が動くこと前提なのだろう。シェリルと同じ年頃の少女なら家の中でゆったりと過ごすことも覚えているはずだ。
「動き回る以外の遊びだってあるだろ」
「そうだけど、パールとも遊んであげられなくなっちゃう」
「パールは賢いからおまえが相手しなくても平気だよ」
むしろシェリルが少し大人しくなってくれる方が愛犬のパールも穏やかに昼寝できるというものだ。
クライヴは自分の上からシェリルを下ろすと先に立ち上がり、手を差し出す。シェリルが立ち上がるとその紺色のワンピースについた芝生を払い落とした。
「お嬢様!? さっきの音は――」
落ちた時の物音を聞きつけてメイドのコニーが駆けつけてきた。
「シェリルが二階から落ちてきた」
「クライヴが受け止めてくれたの」
ぶら下がったままのシーツの残骸を見上げて、コニーは「ああ……」と天を仰ぐ。きっとシェリルから目を離したことを嘆いているに違いない。
窓からの脱出を試しにやってみたりといろいろと規格外なシェリルだったが、この頃から彼女もみっちりと令嬢としての教育を受けていた。
いくら奔放に自由気ままにシェリルを育てていたとはいえ、最低限の知識は身につけさせておかねばと両親も必死だ。もともと八歳になったあたりから始めようとしていたのだが、シェリルが逃げ回り隠れてずるずると引き伸ばしになっていたのである。
礼儀作法やマナーの勉強というのはシェリルにとっては苦痛でしかない。女性の社会進出も増えてきたというのに、こういった教育は百年くらい前から何一つ変わっていないのだ。
食事の作法や挨拶はシェリルもごく普通の令嬢と同じく見事にこなしてみせた。これらは幼い頃から母に教わってきたのでなんら問題ない。
食事は作ってくれた人に感謝して食べなければいけない。会った人には挨拶をしなければいけない。それは幼いシェリルにもわかる理由だったから、すんなりと身についた。会う人によって態度を変えるのも、面倒な話だとは思ったが理解はできる。
しかし淑女の作法というのは、シェリルとは相容れない。走ってはいけません。大股で歩くのもいけません。大声で話してはいけません。男性と言い争うなんてはしたないことです。
窓から出入りなんてとんでもありません、と家庭教師にすら叱られてシェリルはすっかりご機嫌ななめだった。
しばらくは外で遊び回ることにさえ厳しい目がつくようになってしまって、シェリルは大人しく室内で読書をすることにした。
クライヴが意外にもけっこう読書家なので、雨の日などは一緒に本を読むことも多い。シェリルが文字を覚える前は絵本を読み聞かせてくれたりもした。
なのでシェリルも本を読むのは好きだ。図鑑などは眺めるだけで楽しいし、物語はその世界に没頭できる。
今日は植物の本を読んでいた。図鑑というよりは花言葉や花の神話などをまとめた本で読んでいて飽きない。
「四葉のクローバー?」
本来三葉のクローバーが、突然変異で四葉になっているものがあるのだという。とても珍しいから、それを見つけた人には幸運がもたらされるのだとか。
「うちの裏庭の隅にも、クローバーがたくさんあったよね」
表の広い庭はいつも庭師によって綺麗に整えられているが、裏庭は自然のままを楽しめるようにとあまり人の手を加えていない。おかげでクローバーはたくさん生えていたはずだ。
「あんなにあるんだから、四葉のクローバーもきっとあるんじゃないかしら!」
シェリルは目を輝かせて本を閉じる。
まだ昼下がりだ。さっそく四葉のクローバーを探しに行こうと外に出ることにした。
「お嬢様? どちらに行かれるんですか?」
「あのね、本を読んでいたら四葉のクローバーのことを知ったの。だから探しに行こうと思って」
またとんでもないことをするのでは、と警戒したメイドに声をかけられるがシェリルはやましいことなどない。それにクローバーを探すのなら走り回るわけではないし、見逃してくれないだろうか。
「四葉のクローバーですか……裏庭から出ないのならいいと思いますよ。奥様に私から伝えておきます」
「ありがとう!」
走り出したくなるのをどうにか堪えて、シェリルはにっこりとお礼を言うとゆっくりとお嬢様らしく外へと出る。
裏庭には誰もいない。今日はクライヴも来ていないのでシェリル一人だ。
「よし! 見つけるぞー!」
気合いを入れてクローバーが繁っているところにしゃがみこむ。シェリルは真剣な顔で一枚一枚確認しながら四葉がないかと探し始めた。
根気強いほうではないが、シェリルは頑張った。頑張ったが、その日は無情にも日が暮れてしまって四葉のクローバーを見つけることはできなかった。
翌日は午前中から探してみたが、やはり四葉は見つからない。手の空いたメイドも手伝ってくれたりしたが、どのクローバーも三葉だった。
「珍しいっていうのは本当なのね……!」
裏庭のクローバーはほとんど探し尽くしてしまった。昨日なかった四葉が突然生えてくるわけでもあるまいし、ブライス家の庭には四葉のクローバーはないのかもしれない。
しかしなかなか見つからないと、欲しいという気持ちはむくむくと大きくなっていくもので。
シェリルはすっかり意地になっていた。
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