2:君と過ごした幼い日々(1)
シェリルだって、十二歳のあの日まではいずれクライヴと結婚するのだろうと思っていた。
シェリルの中にある彼との最も古い記憶は、五歳のときのことだ。
クライヴとはシェリルが歩き始める前から会っているらしいが、あまりにも小さい頃の記憶なんてあやふやではっきりとしていない。
もしかすると彼に手を引かれて庭を歩いた思い出が五歳の記憶より前のことかもしれないけれど、そんなことを言い出したらキリがなかった。
あれは、クライヴがシェリルの住むブライス家の屋敷へ遊びに来ていたときのことだ。
ブライス家に与えられた領地は山間の街を含めた小さなものだったが、領地の森は豊かで領民は穏やかな者が多かった。隣り合うタウンゼント領を治めるのがロートン伯爵――クライヴの父である。
五歳ともなると遊びたい好奇心旺盛な年頃だ。
本来貴族の令嬢ならはその頃からお淑やかにと育てられるのだろうが、シェリルを溺愛する両親は自由気ままに元気に育ってくれればとかなり子育ては奔放だった。
結果、シェリルは五歳でメイドを一人連れただけでお屋敷を出て散歩をしていたのだ。散歩といえば聞こえはいいが、実際はあちこちへ走り回るシェリルをメイドが必死に追いかけていたのである。
領民がやさしく穏やかで、悪事など思いつかない者ばかりだったのが幸いだった。そうでなければシェリルはおそらく片手で足りない数ほど誘拐されていたかもしれない。
その日は連れまわす人間がメイド一人だけではなく、クライヴも一緒だった。真っ当な貴族の息子として育てられた彼は、幼いシェリルがそんなに無防備に歩き回ることを心配してついて来たのだ。
「あらまぁシェリルお嬢様、今日もお散歩ですか?」
「そうなの! きょうはクライヴも一緒なの!」
「まぁまぁ、よかったですねぇ」
とたとたと危なっかしく歩き回るシェリルを大人はやさしく見守り、話しかけ、危険な場所へは近づけないようにやんわりと誘導していた。
「シェリル。あんまり遠くへ行ってはダメだぞ。慌てると転ぶぞ」
「じゃあクライヴがおててをつないでくれればいいのよ」
そう言ってシェリルが手を差し出せば、クライヴは文句を言いながらも手を繋いでやった。
なんだかんだと言いつつ、妹のような存在のシェリルがクライヴは可愛くてしかたないのだ、と大人たちはにこにことその微笑ましい光景を見つめている。
「シェリルお嬢様、仔犬を見てみたくありませんか。この間うちの犬が産んだんですよ」
「わんわん?」
「仔犬」
興味津々に目を輝かせるシェリルの幼い言葉をクライヴが言い直す。ただの子どもなら許されるが、シェリルはこれでも子爵令嬢なのだ。今のうちに教育しておかなければとこの頃のクライヴは親よりうるさかった。
宿屋の厩の隅には母犬と、その周りでじゃれあう仔犬たちがいた。この間と言っても生後二ヶ月ほどは経っているかもしれない。シェリルが近寄っても大丈夫なタイミングを伺っていたのだろう。
「かあいい!」
もこもこと動き回る毛玉にシェリルはすっかり夢中になった。抱っこしようとしても、仔犬の足はぷらーんと垂れ下がるような有様で、それでもシェリルは満足しているらしかった。
「この子ほしい」
「いや、ダメだろ」
「ほしい!」
シェリルはとりわけ一匹の真っ白な仔犬を気に入ったらしい。もう絶対にこの仔犬を離すまいと駄々をこね始めたシェリルにクライヴは天を仰いだ。メイドも同じような顔をしている。
なんといっても、シェリルは頑固者だった。こうと決めたら絶対に諦めないのだ。
「そろそろ里親を探そうかと思っていたところなんで、うちはかまわないんですけどねぇ」
言葉に困惑が滲んでいるのは、この場にはシェリルが仔犬を飼うということを決定できる人間がいないからだ。
結局真っ白な毛並の犬を連れて屋敷に戻った。許可をもらってから連れて行くべきだとクライヴは言ったのだが、シェリルは顔を真っ赤にして仔犬と離れるのを嫌がったのだ。
そのくせ、屋敷まで仔犬をずっと抱きかかえて歩けるはずもなく、メイドが仔犬を抱っこしてクライヴがシェリルと手を繋いで帰ることになった。
「おとうさま! シェリル、この子をかいたい!」
父を見つけるなりシェリルはきらきらとした笑顔でそう言った。シェリルにとっては精一杯のおねだりだった。
「シェリル。犬と言えども大事な命だ。それをおもちゃのように扱ってはいけないんだよ。犬を飼うにしても、君がもっと大きくなってからにしなさい」
しかし精一杯のおねだりは父の前には無力だった。
いや、シェリルのかわいい笑顔は十分に効果があったものの、ブライス子爵は子育ては奔放でも根は良識的な大人だった。
「この子じゃないといや!」
「シェリル、あまり我儘を言うものでは――」
「うちでこの子をかえないならシェリルがおばさんのいえの子になる!」
その発言が仔犬の運命を決めた。
シェリルの言うおばさんが宿屋の女性であることは明らかだった。ブライス家で飼えないのなら、シェリルが仔犬のいた家の子どもになるというなんとも子どもじみた脅しで、しかしその脅しはブライス子爵には効果覿面だった。
クライヴはもともと小柄な少年だった。二つ下のシェリルと並んでいてもさほど年齢差を感じさせるものはなく、だからこそシェリルはクライヴを対等な友人と思っていた。
「クライヴはもう乗馬の練習を始めたんでしょう? いいなぁ」
シェリルが八歳になった頃、クライヴは一人で馬に乗れるようにと練習をするようになった。
予想を裏切らず活発な子どもとなったシェリルは動物が好きだった。あの真っ白な仔犬も今は立派な成犬となっているし、シェリルはパールと名付けた雌犬を毎日可愛がっている。
そんなシェリルだから、馬も大好きだ。近づいては危ないからとあまり触らせてもらえる機会はないが、艶々とした毛並みはいくら撫でても飽きない。
そんな素敵な馬の背に乗って走るなんて! 絶対に楽しいに決まっている!
「おまえもやりたいなら頼んでみればいいだろ」
いいなぁ、いいなぁ、と何度もシェリルに羨ましがられたクライヴは鬱陶しそうにそう言った。シェリルにしてみれば早くクライヴが上達してシェリルを一緒に乗せてくれると約束してくれるだけでも満足するつもりだった。
「だって、お父様が女の子が乗馬なんてしなくていいって言うんだもの」
「男とか女とか関係なく、やりたいのかやりたくないのか、だろ。やってみなきゃできるかどうかなんてわからないんだから」
「それもそうね! お父様に言ってみる!」
しかしこればかりはブライス子爵は首を縦に振らなかった。
どんなにシェリルがお願いしても、どんなにシェリルが駄々をこねても、見かねた母が少しくらいならいいんじゃないのかと口添えしても父は乗馬の許可は出さなかった。
「シェリルみたいなお転婆が乗馬を覚えたら、どこまで飛び出して行くかわかったもんじゃない」
それもそうだ、とおそらく屋敷で働く者たちは誰もが思った。
ちょっとの好奇心もちょっとの冒頭も、可愛らしいお嬢様だと見守ってきたものの、シェリルが普通の令嬢よりいささか、いやかなり、活発なのはわかっている。そんなシェリルに遠出できる手段となる乗馬を教えるなんて、とてもじゃないがおすすめできない。
だがシェリルも諦めなかった。
というのも、諦めるということを知らなかったのである。
今までどんなことも最終的にはシェリルの望みが通っていた。溺愛する両親はシロップの中に砂糖やはちみつを溶かしこんでも足りないというほどシェリルに甘かったからだ。
いくら頼み込んでも父はダメだと言うばかり。
何度も何度もお願いしても良い返事はもらえなくて、シェリルはついに挫けてしまった。
「……まったく、おまえはまたそうやって木の上で泣く」
屋敷の庭にある、大きな木の上でシェリルは一人泣きじゃくっていた。
服にも髪にも葉っぱをつけて、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、シェリルを探してやって来たクライヴを見る。
シェリルは泣き顔を誰かに見られるのが大嫌いで、泣きたくなるとこうして木の上に登って泣く癖があった。だって、シェリルが子どもで、どうにもならないことが悔しくて泣いているところを見られるなんて屈辱的だ。
クライヴはシェリルと同じ高さの枝に腰掛ける。呆れたような顔をしながらも、その手のひらでやさしくシェリルの涙を拭ってくれる。
今頃大人たちはシェリルを探し回っているだろう。部屋のクローゼットの中だとか、厩の隅っこだとか、そんな見当違いなところを。
クライヴはまっすぐにここに来る。まるでシェリルのことならなんでもわかっているみたいな顔をして。
「おじさんはおまえに危ないことをさせたくないんだよ」
「……わかってるわ」
「乗馬はそこそこ危ないことだ」
「だから練習するんじゃない」
「おまえは特別無鉄砲だからよけい心配なんだろ」
無鉄砲になった原因のひとつはクライヴだと思う、とシェリルは頬を膨らませた。
親戚には他に歳の近い子どもはいなかったし、シェリルは一人っ子だ。もっぱら遊び相手はクライヴだったし、少しお兄さんだった彼は良いこと悪いこと、いろいろとシェリルに教えたわけである。
「……もしどうしてもダメなら、俺が乗せてやるから」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
満足するまで念入りに確認すると、シェリルはにんまりと笑った。
「うれしい!」
その後、シェリルは乗馬の練習をさせてもらえずに抗議するために白い犬パールを馬に見立ててその背に跨ったりしたわけだが、今ではいい笑い話だ。
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