1:婚約者の条件
嫌な夢を見た。
目覚めてすぐ、四年前の人生最大の汚点である日を夢で見たシェリルは、大きくため息を吐き出した。
寝起きでくしゃくしゃになった金茶の髪をかきあげる。あの日のことを夢に見た日は、たいてい良いことがないのだ。
「……最悪の目覚めだわ……」
口が悪くて意地悪なところがあっても、時折見せる不器用なクライヴのやさしさがシェリルはとても好きだった。
あの日以来、シェリルとクライヴの仲はすっかり冷え切ってしまった。それまでは仔犬たちがじゃれあうようにいつも一緒だったくせに、クライヴはぱったりとシェリルに会いに来なくなった。
それがなおさら、あの時の言葉は嘘でも冗談でもなかったのだと裏付けるようで、シェリルは悲しかった。
ロートン家とは親戚だからまったく顔を合わせないということはなかったけれど、会ったとしても向こうから話しかけてくるのは挨拶くらいなものだった。
ベッドからおりて、シェリルは机の引き出しを開ける。
そこにはクローバーの栞があった。あの時、クライヴに投げつけた栞とおそろいの、シェリルが手作りした栞だ。
(いまさら、あの時のことを思い出しても泣きたくなんてならないけど)
だって子どものように泣いても、昔のようにシェリルを探し出して慰めてくれる人はいない。
コンコン、というノックの音にシェリルは「どうぞ」と答える。
「あらお嬢様、お目覚めでしたか。朝食の前に旦那様がお話があるそうですよ」
「お父様が?」
シェリルを起こしに来たメイドのコニーはまだ寝間着姿のままとはいえ、ベッドから出ているシェリルに驚いているようだ。古参のメイドであるコニーは朝の弱いシェリルをよく知っているのだから当然だろう。
シェリルはコニーの言葉に首を傾げた。
一人娘を溺愛する父、ブライス子爵は朝と夕は必ず家族三人で食事をとると決めている。何か話があるなら朝食の席でいいはずだ。
それをわざわざ改まってシェリルを呼び出すなんて、何かあると言っているようなものだ。
急いで着替え、髪を整える。ふわふわの金茶の髪は寝起きは広がってしまって大変なのだが、コニーは慣れたようにささっと櫛で梳いてリボンをつけてくれる。
十六歳になっても背は伸びず、小柄なシェリルはせめて髪型や服装で大人っぽくしたいのだが、どうにも似合わないのだ。鏡に写る少女は正直十四歳くらいに見えた。
「お父様、おはようございます」
ワンピースの裾をちょんと持ち上げてシェリルは挨拶をする。
父の綺麗な金髪は、ところどころくすんできている。年齢のせいもあるのだろう。シェリルは子爵が結婚後、遅くにようやく生まれた子どもだった。
「おはよう、シェリル。今日も我が家の小さなお
「もう子どもではないんだから、それはやめて」
たった一人の娘だからか、両親の溺愛は誰の目にも明らかだった。父は未だにシェリルを幼い女の子扱いをする。
「そうだね、君も来週にはラウントリー学園に入学するんだから。……もう子どもとも言えなくなる」
王立ラウントリー学園とは、首都ハートフィールドにある貴族や名家の子女が通う古い名門学園のことだ。小さな社交界ともいえる学園内では、生徒は一人前の紳士淑女として扱われる。
「ええ、そうよ。それでお父様、お話って?」
早くしなければ朝食の席で二人を待っているであろう母がかわいそうだ。もちろんシェリルのお腹の虫もそろそろ悲鳴をあげそうで、それはレディとしては避けたいところである。
そうだね、と父は微笑み、本題を口にした。
「シェリル。クライヴ・ロートンと婚約する気はあるかい?」
「ぜっっっったいに嫌です!」
反射的に即答する。
やはりあの夢は良くないことを引き寄せるのだろう。まさかここでクライヴの名前を聞くなんて!
クライヴ・ロートンの名を聞いたシェリルはまるで小動物が毛を逆立てて威嚇しているような様子で父を睨んでいる。
そんな娘を見て、ブライス子爵はため息を吐き出した。
「数年前からよそよそしくなったとは思っていたけど、てっきり思春期が原因だと思ったのに。小さな頃はあんなにべったりだったじゃないか」
「小さな頃の話です。もうわたしも彼も子どもじゃないもの」
当然、父もここ数年シェリルとクライヴの仲がよそよそしく、冷え切っていることに気づいていたらしい。
「可愛い娘に無理強いはしたくないけれどね、シェリル。君も子どもじゃないというのならわかっているよね」
苦笑まじりに父は続けた。
シェリルはその声に、自然と背筋を伸ばした。
娘を溺愛する父だけれど、その前にこの家の当主でもある。当主として甘い判断をするような人ではないことをシェリルは知っていた。
「君は、このブライス子爵家のたった一人の子どもだ。しかし娘である君は正式な跡継ぎにはなれない。婿を迎えてもらわなくては」
「……わかってます、お父様」
シェリルはようやく生まれた、ブライス家待望の子どもだった。
跡継ぎとなれる息子ではなく、娘が生まれてしまったけれど、両親はそれを嘆くことはなくシェリルにたっぷりと愛情を注いでくれた。母も年齢的に次の子は望めない、とわかっていたのに。
(わかっている、わたしはこの家を継いでくれる男性と結婚しなくちゃ)
それはシェリルに唯一課せられた使命だった。
「婿となれば次男か三男から選ばなければならないし、親としては金や爵位目当てではないしっかりとした男性と結婚してほしい。……その点クライヴ君はぴったりだったんだんだが」
父の言いたいことはシェリルにもわかる。
ロートン伯爵家は由緒正しい貴族だし、親戚だし、クライヴは次男でシェリルとも幼い頃から面識があって気心も知れている。条件だけを考えればぴったりだし、両家ももともとそのつもりで幼い頃から二人を会わせていたのだろう。
「嫌です」
「どうしてそこまで嫌なんだい?」
「……それは」
(わたしより、向こうのほうが嫌がるじゃない……)
ゆくゆくはこの家に婿に来てくれる男性と結婚しなければならない。そのことに不満はないし、シェリルも当然そのつもりで結婚相手を探すつもりでいる。
だからといって、愛のない結婚でいいと思っているわけではないのだ。
いいや、愛がなくても、せめて互いに尊重し合える夫婦でありたい。そのためには、クライヴではダメなのだ。
(……わたしなんて『絶対にごめん』だものね)
言葉を濁らせ目を伏せるシェリルに、父はまたため息を吐き出す。
「彼が嫌だというのなら、それでもかまわない。だが条件がある」
「……条件?」
それはシェリルにとっては予想外の言葉だった。
十六歳になったばかりのシェリルはようやく結婚適齢期に入ったといえる。しかしこのリーヴス王国において、一般的には学園を卒業した十八歳から二十二歳くらいまでが女性にとって最も結婚に適した年齢といえるだろう。
つまり父がシェリルを急かすにしても、いささか早すぎるのだ。
「家を継がせるともなれば、教育や引き継ぎも必要だからね。私も歳だ。あれこれと早めに教え込まなければいけない」
シェリルの疑問を察したのか、そう説明する父になるほどと頷いた。自分の息子であればそれこそ幼い頃から教育できるが、婿となるとそうはいかない。
「君は来週には栄えあるラウントリー学園の一員になるわけだけど、かの学園は学年末にパーティがあるんだ。厳かな勉学の場における唯一の華やかな行事といえるね」
何を隠そう、父もラウントリー学園の卒業生だ。懐かしむような表情を浮かべている父をシェリルは見つめた。
だからね、シェリル。
父はにこやかに、冷酷にその期限を告げる。
「クライヴ・ロートンとの婚約が嫌だというのなら、そのパーティまでに自分で婚約者を見つけなさい」
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