第12話

◇◇◇

 しばらくの間、薫の足首は正座した後のようにしびれていた。よろめきながらもベランダを見上げる。執一が、自分を見下ろしていた。

 当然彼も自分に続いて降りてくるものだと思っていた。だが――

 執一は、背後を振り返り、部屋の中に引き返していった。

 そして、そのまま彼はベランダに出てこなかった。

 薫はその場で執一のいた場所を見つめる。

「……執一くん?」

――そのときだった。玄関の重い扉が大きな音を立てて開け放たれた。中から出てきたのは――江能だった。

 目を見開き、薫を食い入らんばかりに見てくる。

「また妙なのが出てきたなぁ」薫がつぶやく。

 肩で息をしながら江能はゆっくりとこちらに近づいてくる。手には何も握られていないが、背中やポケットになにか隠し持っていないとも限らない。

 だが、薫はそのまま棒立ちのまま彼女の接近を許した。

 江能が飛び込んでくる。

 彼女は、薫にすがりついた。

「薫さぁん」江能さんは薫のおなかに頬をすりつけてくる。

「離れてくれる?キモいよ」

「はいっ!わかりました!離れます!」江能は返事をすると、その場にしゃがみ込み、薫を見上げる。

「で?何しに来たの?」

「あの、ビックがダメになっちゃって。だからその――」

「簡単に言って」

「薫さんに、私の飼い主になってもらいたいんです!」

「ああ――」薫がつぶやく。「要するに『決めて』もらいたいのか」

「はいっ!私を薫さんのペットにしていください!」

「……」

「お願いします!何でもしますから!」

「……」薫の目はベランダを向いている。

「薫さん!薫さぁん!」

「うるさいな」

「ごめんなさい!静かにしてます!」

「……」薫は顔を下に向ける。「なにしてるの?」

 江能は口を両手でおさえていた。「薫さんが静かにしてろって言ったので、静かにしてました!」

「そうなんだ。で、なんでいるんだっけ?」

「私を薫さんのペットにしてください!何でもしますから!」

「あっそ。じゃ、3べん回って、ワンって言ってみて」

しゃがみ込んだ江能は言われたとおりその場で三回跳ねるように回って、

「ワン!」

「『ちんちん』」

「はい!」江能は、仰向けになって、股間を薫に見せつける。

「はは、すごいね」

「ありがとうございます!」

 江能は「はっはっはっ」と犬のような呼吸しながら、兎跳びのように跳ねて喜びを表現する。

「とりあえず立ちなよ」

「わかりました!立ちます」

 江能が、勢いよく立ち上がり、敬礼する。

「私、負けませんっ」

「なんの話?」

「だから、私、負けません!」

「なんのこと?って訊いてるんだけど」

「同じ薫さんのペットとして、執一さんには負けませんっ、私、すっごく献身的に尽くしますから。忠誠心の低い執一さんなんてすぐに追い抜いて見せますよ。だってあの人、薫さんのこと『目障り』だって言ってました」

「そう」

「だけど私は薫さんの悪口なんて絶対に言いません!」

「ふーん」

 薫は江能の出てきたドアを見やる。

「誰かに会った?」

「いいえ、薫さん以外の人には誰にも会いませんでした」

「あなたはどこにいたの?」

「一階の、管理人室にいました!」

 管理人室は食堂の反対側の奥にある部屋だった。ということは階段の前も通っただろう。

「犬は?」

「あれは『ダメ』になりました!目を怪我しちゃって」

 薫は江能を見る。一心に見つめてくる彼女の目から、彼女の心の奥底にあるものを読み取る。

 依存。

 より強い存在への。

 それが『ダメ』になるということは、彼女にとっては『裏切り』になるのだ。


 犬は、江能によって処分されたのだろう。

――めんどくさいなあ。

 薫は心の中でつぶやいた。

 薫はホテルから離れることにした。江能が、ホテルの中では彼女の父である藤山の制作した殺人罠が暴れ回っていることを得意げに報告してきたためだ。

 彼女は江能とならんで、港や砂浜のある方向へ、坂を下りていく。途中、江能は自分の父である藤山のことを薫に報告してきた。

「お父さんはここにわたしとお母さんを呼びよせたんです。仲直りしたいからって」江能は薫の隣を歩きながら語り始める。「それで、記念にビデオを撮ることになったんです」

「そう」

「私はお父さんのことが大好きなので、もちろんお父さんのお手伝いをしていました!お母さんを椅子に縛り付けろって言われたから、その通りにしました!」笑顔。「それでビデオ撮影が始まって、お父さん、いきなりお母さんをバラバラにし始めちゃったんです!ナイフで!わたし、もう、びっくりしちゃって……でも!あれはきっとお父さんなりの愛情表現だったんですね。だってお父さん笑ってましたから!お父さんが楽しそうだったので、わたしも笑ってました!」

「へえ」

「だけどお父さんは死んだんですよね?ずっと人を殺してたのに、自分が殺されるなんて、おっかしいですよね!」

「……」

「薫さん?どうしたんですか?薫さん」

「もうすぐ、夜だ」

「そうですね!でも私、夜の方が視力が良くなるんです」

「じゃあ、後ろ見てみて」

「はい!見ます!――薫さん、二人います!」

 港の桟橋の前で、薫は立ち止まり、背後を振り返る。

 たった今自分たちが下りてきた坂を、二人の人間が歩いてきていた。

一人は、マスオ、もう一人は、美紀の顔をしていた。

「……なるほど。だから、こんなに時間かかったんだ」

「どういうことですか?薫さん」

「考えなくても良いよ、あなたは」

「わかりました!考えませんっ」

 二人は並んでこちらにくる。歩き方もシンクロさせながら、無表情にやってくる。

 互いの表情がわかるほどの距離で、二人は立ち止まる。

「もう隠れるのはやめたんだ?」薫は言う。

「屋敷にいてもらわないと困る」とマスオ。「藤山の作った装置が使えないからな」

「あーあ……話の通じない人ばっかり」

「薫さん、どうしましょうっ?薫さん!」

「これあげる」薫はポケットにさしていた果物ナイフを江能に渡す。

「わあっ、ありがとうございます!宝物にします!」

「それじゃあ、あの二人、殺してきてくれる?」

「はい!わかりました!」

「お父さんの仇だよ」

「うわあああああああ!」

 江能が雄叫びを上げながら、二人に向かって走っていく

 火花。破裂音。

「う」

 江能は膝をつき、

「――っ!」ナイフを放り投げる。

「あっ!」二人組の片割れが声を上げる。

 銃弾が、何発も江能に浴びせかけられる。

——ゴト、と江能は、うつぶせに倒れた。

「破れちゃった!」『美紀』が頬をおさえて声を上げる。

「だから、やめておけと言ったんだ」と銃を構えた『マスオ』が言う。

「だって、せっかく手に入れたんだもん!試着するに決まってるじゃない!」

「大切なら、しまっておけ」

「正論ばっかり!あなたって」

「俺は、正しいからな」

 薫は倒れ込んだ江能に視線を送ったが、もちろん、江能が再び立ち上がることはなかった。

「も~どうしよ~」

「いいから、脱いでおけ。後で『修繕』すれば良い」

「『それ』みたいに跡が残るじゃない!」

「直さなかったら、破れたままだ」

「そういう問題じゃないの!わかってよ!」

「わからない」

 薫は口を斜めにして、自分の眉間を見上げた。人間というのは、誰も彼も、好き勝手に生きてるものだとわかる。

「わかったわよ!脱げば良いんでしょ!」『美紀』が、美紀の顔の皮を、脱いだ。下から現れたのは、白い頭。眼球が剥き出しのまま頭蓋に収まっていて、眼球が小刻みに動くのが薫にも見えた。どうやら、皮を剥いた顔を、シリコン状のカバーの中に、収めているようだった。よくよく見ると、まぶたらしきものも閉じたり空いたりしている。蛇のもの似た、透明な膜だ。

「へえ……、なかなかよくできてるね」薫は言う。

「じゃあ、あなたもなってみる?この不細工顔に」皮を脱いだ『女』の方が言う。

「理科室なら美人の部類じゃない?そうなるのはごめんだけど、絶対に」

 『女』の口の肉がめくれる。赤い肉と、白い歯が押し出される。怒りの表現だろう。頬の複雑な筋繊維が収縮するのが見える。

「口元だけ見れば、歯茎を剥き出しにしたチンパンジーにそっくりだね」

「お前の顔を彼女にプレゼントする」『マスオ』が言う。「そしたらお前も同じようになれる」

「ふーん……じゃあ武広さんの顔とその顔は、彼女からのプレゼント?」

「そうだ」無表情のまま、『マスオ』がうなずく。

「……ああ、そういうことか。それで、いろいろちぐはぐだったんだ。単独犯が二人。だから自分から姿を現したり」

「彼女が、一刻も早く全部欲しいというからな」

「私たちにビデオを見せたのは、私たちの顔が気に入ってたから?」

「そうだ。藤山に傷つけられては困る。『保険』を掛けておかなければならない」

「 、光栄だなあ」

 『マスオ』が薫に銃口を向ける。

「……逃げもしないか」

「めんどくさくて」薫は肩をすくめる。

「頭の良い奴は、諦めが早い」

「あ、そうだ。一つだけいい?」薫は二人の、さらに向こうを見やる。「もしかして二人とも、耳悪いの?」

「なにを――」

 カ カ カ カ カ 

 『女』は聞いたことのない音を聞いた。

 『マスオ』が膝から崩れ落ちる。

 『女』が振り向く。剥き出しの眼球が、その原因に向ける。

 執一が、いた。

 自分の脇腹を見下ろす。黒い四角いものが押し当てられていた。それには見覚えがあった。藤山の仕掛けた罠の一つの部品——解除するにはリスクが高いからと放置していた、スタンガン。

 青光り。脇腹が引きつり収縮する。『女』の意識は、闇に吸い込まれ、途切れた。


***

「……なんだ、死んでなかったのか」ぼくは言う。

「おかげさまで」薫は肩をすくめる。

「まあ良いさ……死人相手じゃ、『勝ち』も『負け』もなくなるしな」

「私が生きてて嬉しい?」

 ぼくは薫に、持ってきた荷造り用のロープとはさみを差し出す。

「ぼくは手がこんなだから。縛ってくれ」

 薫は口を斜めにしてそれを奪い取る。

「なんだよ」

「別にい?」

「早く縛ってくれないか?」

「えー、復活したらやだな」

 ぼくはかがみ込んで、倒れた2人に一発、さらにもう一発、スタンガンを使用する。活魚のように、倒れた身体が跳ねあがる。

「……ん?」スイッチを押してみる。反応しない。「電池切れか」捨てる。

 ぼくは、しゃがみ込んで、『マスオさん』のあごの下に手を伸ばす。押してみると、うっすらと切れ目のような物が確認できる。首には、ファンデーションだろうか、粉っぽいものが塗られているのがわかった。これで首と顔の色を揃えていたのだろう。

「改めて見ても、信じられない」

「まばたきまでしてたもんねちゃんと――腐ったら次って感じだったのかな?それとも、得体の知れない超技術で腐らないようにしてたのかな?」

「知るもんか」

「このマスクの技術はどこにあるんだろ?この二人が編み出したなら、すごいよね」

「そうとは思えないな」

「だよねー」

……こんなの、個人で作れる代物ではない。組織的な研究の結果生まれたものに違いない。それがどんな組織なのかは、もちろんぼくには見当もつかないが——

 立ち上がる。

「……そういえば、秀二さんと悦子さんも殺されたよ」ぼくはいう。「おかげでスタンガンを回収できたけど。めちゃくちゃにされてた」

「あの二人の顔には、興味が無かったんだろうね」

「ぼくら以外、全員死んだ」

「だから?」

「……さあな」ぼくは江能さんに目をやる。江能さんはうつぶせに倒れていて、周囲には血だまりができている。

「どんな感じ?それ」

 ぼくは並んで倒れた『二人』を迂回して、江能さんの側に行き、つま先で彼女を裏返してみる。

「死んでるよ」

「じゃ、良いや」

 薫は鼻歌を歌いながら、『二人』の手足を厳重に縛り上げていく。

「……どうして江能さんと一緒にいたんだ?」

「『飼い主』になってくれ、って言われたの」

「……相変わらず、そういうのに人気だな」

「どーもね」

 海の方を見やる。遠方では、夕日が今にも濃紫の海の下に消えかけている。

「せっかく、ちゃんと正しい推理を教えてあげたのにね」薫が言う。

 美紀が殺される前のことだろう。

「……信じてもらえなきゃ、意味がない」そのせいで、美紀は死んだのだ。

「執一くんは優しいね。でも、気にしても無駄だよ。弱い人の弱さはどうしようもない」

「きみは……気にならないっていうのか」

「わたしは他人になにを求められても応える気はないから」薫は微笑む。「飼い主も神様も興味がないの。わたしは、自分だけ」

 薫の微笑みには一点の曇りもない。ぼくの及ばない強い『個』が、目の前に存る。

「……君は、黙ってそこにいれば良い」

「ん?」

「いずれ、わからせてやるさ」

「楽しみだなあ」

 二人を拘束し終えた薫が立ち上がり、こちらにやってくる。

 薫は、ぼくの胸に耳をつけて、背中に手を回す。捕まえた、というように。

「心臓が聞こえるね」

「それがどうした」

「指を三本も失って、助けられたかもしれない人も死なせた」

「……」

「それでもまたがんばる?」

「あたりまえだ」薫の頭に言う。「もう……、何度もそうしてきた」

 薫は、

「私に、そこにいろって言ったよね?」

「言った」

「執一君こそ、逃げちゃダメだよ?ちゃんとそこにいてね?

「ああ……」うなずく。「必ず君を——ひれ伏させてみせる」

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