第9話

***

 階段を下りると正面に玄関があり、隣に談話スペースがある。食堂とキッチンは左側に。藤山老人の部屋は、その反対側――右側の廊下の一番奥にあった。

 まず、ぼくは食堂を覗いてみる。薫と他の宿泊客たちが揃って食事を摂っている。藤山老人の姿はない。となると、行き先は二階の客室か、外か、自分の部屋しかない。

 藤山老人が、たとえ自分の部屋にいなかったとしてもかまわない。何かしら犯行を証明できるような証拠をつかめればそれで良いのである。もちろん、直接本人を捕まえて、問い詰められるならそれも良い。

「あの……、本当に、私たちだけで行くんですか?」彼女の頭には、先ほど見た、屋上のドアの仕掛けのことがあるのだろう。

「怖かったら、その辺で待っていてください」

「あの!でも、それって、襲われたらどうするんですか?

「ビック君が守ってくれるでしょう?」正直、江能さんがが煩わしかった。「ぼくは行きます」

「待って!行きます。私もっ」

「好きにしてください」

 壁にある廊下の灯りのスイッチは、何度押しても反応しない。

「……」

 しかたなく、ぼくらは暗闇の中に足を踏み入れる。

 一番奥には、緑色の非常口の表示が見える。昼間であるにもかかわらず、他に光源は存在しない。これも、あの老人の意図的なものだろうか?だとしたら、また罠に気をつけなければならない。

 ぼくらは足下に注意しながら、暗闇の中を進む。最奥で発光する緑色の灯りが、壁や、床の輪郭をわずかに浮かび上がらせている。

 緊張と恐怖のためだろうか、たった数十メートルの距離であるはずにもかかわらず、なかなか一番奥の目的地までたどり着くことができない。

「……」

「……」

 ぼくも江能さんも言葉を発することはなかった。二人と一匹の呼吸音を聞きながら、じりじり歩き進む。

 そしてついに、その部屋の前にたどり着く。ドアは、宿泊客用のドアと同じもののようだった。錠つきの普通のドアだ。しかし、この錠が普通の鍵で開けるタイプのものではなかった。ダイヤルを回し、四桁の数字を入力するタイプの物だ。

「番号、わかるんですか?」

「知りません」

「じゃあ、どうやって……」

「こじ開けるしかないでしょうね」

「ぴ、ピッキングですか?」

「いえ」ぼくは、シャツを引き出し、ベルトに挟んでおいた果物ナイフを取り出す。

「ひ――」

「護身用ですよ」ぼくは言う。

 このホテルのドアはすべて外開きになっているようだった。さらに、ドアの内部構造が、ぼくの部屋の物と同じであれば、ドアを固定している『ツメ』のパーツの真ん中に、プラスチックが組み込まれているはずであった。そのプラスチック部分にナイフの切っ先を爪に引っかけ、ツメを無理矢理外押し込めるだろう。完全に開けられなくても、少し浮けば、あとは力業で何とかなるだろう。

 ぼくがナイフを握って作業に取りかかろうとすると、

「やっぱりドアを壊すのはまずいんじゃ」江能さんが言い出す。「ひょっとすると、ぜんぜん犯人じゃないかも知れないんですよね?」

「その可能性もあるでしょうね」

「なら、やめておいた方が…」

「非常事態です。かまわないでしょう」

「そ、その前にちょっといじってみて良いですか?」江能さんが言い出す。

「……どうぞ?」ぼくはドアの前から離れる。

「こういうのはだいたい下一桁だけ変えてることが多いんです」と解説しながら、江能さんがダイヤル式の錠前をいじり始める。

カチ――ドアからではない音。

「伏せて!」

「え?」江能さんが頭を下げる。タンッ、と彼女の頭があった場所に、弓矢が刺さった。

「ひゃ!」江能さんは尻餅をつく。

角度的には――ぼくは自分の頭上を見上げる――あの非常灯の上に仕掛けが隠されてあったのだろう。緑色に照らされた江能さんを見下ろすと、目を見開いて震えている。とりあえず、無事なようだ。

「油断は、禁物ですね」

「は、ははは……」

 ナイフで非常口の灯りの上の仕掛けを破壊し、さらに周囲を調べてからドアの解錠に取りかかる。

 江能さんによって、ドアには電気などが通っていないことはわかったので、安心して作業に臨むことができる――が。

「……ん?」刺したりするまでもなく、ナイフの先で、ツメが動くのを感じる。

 ノブをひねってみると、なんと、開いていた。そうか。これを知らない人間が鍵に手を出すと、ああなると。なかなか考えられている。それを見て、江能さんはショックを受けたような顔をする。

 ノブをひねり、ドアを開け。壁に隠れ、慎重にドアを開ける。頭上から左右まで、安全を確認してから中に入る。

部屋は、四方を、背の高い棚に囲まれていた。本や、紙の資料などがぎっしりと詰まっている。生活の場というよりは、研究の場、といった様子だった。ベッドすらない。室内のプライオリティは、中央の机に集まっていた。机上には、紙や本がうずたかく積まれている。その中に、一つだけ毛色の違う、革表紙の本がおかれていた。見るからに使い込まれている。警戒しながら、ぼくはその本を手に取る。

 表紙をめくると、一ページ目には、ぼくや、薫……その他宿泊客のバストアップ写真。それぞれ名前が記されている。

 ページをめくる。二ページ目からは、藤山老人の日記帳になっていた。

『仕事をクビになった。妻と娘に逃げられた。私のすべきことは、なにも無くなった』

 次の見開きはボールペンでぐちゃぐちゃに黒く塗りつぶされている。

『本当に何もすべきことがない。誰も私に期待をしない。滑稽なことだが、私は、自分が、やりたいことがなにも無いことに気がついた』

『今日も誰も私に期待をしない。私は忘れ去られて死ぬだけなのだろうか?仕事も見つからない。誰も私に仕事を与えてくれない。この四十五年間、与えられたことをこなすだけの人生だった。会社にすべてを預け、家族にそれを与えてきた。私は食い終わった後の魚の骨だ。腰が痛む。嫌な寒気がする。病気のようだ』

『風邪を引いた。誰も私を気にする人間はいない。頭が呆とする』

『風邪が治った。骨と皮だけになったように痩せている。そういえば物を食べていない。食べる気にならない。誰も私に食べ物を与えてくれない。妻が居ないからだ』

『どうして妻は私と別れたのだろう』

 このページだけ荒々しい文字で書かれている。

『なにがいけなかった なに 』

 次ページ、白紙。

 次ページ、すっきりとした文字に戻る。

『やりたいことをやってみよう。そうすればわかるだろう。趣味無し。女は無理』

『私のような老いぼれでは、欲望が湧いてこないのは当然だった。だからやり残したと思うことをすることにする。人殺し。平和なこの世の中で、人を殺すことは難しい。普通の人間は人を殺さずに人生を終える。ただ一度の人生でそれを経験しないまま死ぬ。それはもったいないことではないのか。思えば、人生の中で殺したい人間は沢山居た。なのに殺してこなかった。そうしてはいけないと、言われ続けてきたからだ。周りに。

 もうすぐ私は死ぬ。どうせ周りの人間は私よりも長く存在する。なら、どちらでも変わらないだろう。すべて死ぬが善い』

『殺人をすると決めたときから、肌の張りが違う。生きる目的ができたと感じる』

『どうせだから殺す方法にはこだわりたい。できる限り多くの人間を殺したい』

『殺人ノート①』

「これは……」殺人装置の図が描かれている。電気椅子のような装置の設計図だ。次のページをめくる。

『殺人ノート⑮』

「……ん?」

 日付と番号が飛んでいる。確認すると、間にある幾つかのページがまとめて破られていた。破られたページには同じように殺人装置の設計図があったのだろう。……いったいどうしてこの②から⑭の間だけ破ったのだろうか?わからなかった。

『殺人ノート⑮』は、この部屋の前に仕掛けられていたあの、自動発射式のボウガンだった。

 ……次のページをめくる。記されていた内容は、『殺人ノート』ではなかった。

『大変嬉しいことがあった』

一言だけ、そう書いてあった。

「……なんだ?」

 だが、後をめくっても日記は白紙だった。日記はここで終わりのようだ。ぼくは日記を閉じる。ここに仕掛けられた殺人装置をすべて把握できなかったのは残念だが、これで、藤山老人がやってきたことを証明できる――

 顔を上げ、振り返ると、後ろ手で江能さんが部屋の鍵を閉めていた。

「お父さんの日記は、どうでした?」

「お父さ――っ?」なにか白い物がぼくに飛びかかって来る。ぼくは背中から床の上に倒れる。獣臭さがぼくの鼻をつく。ビックの顔がぼくの目の前にある。口が大きく開き、赤い舌と、鋭い犬歯があらわになりぼくの顔に迫ってくる

「く――!?」かばった右腕に噛みつかれる。

シャツを突き破って、腕の皮膚を貫く。痛み。だが、それ以上に、どんなに腕を動かそうとも完全に追従してくるそのあごの力が脅威だった。肉と筋が歯の先でブチブチと引きちぎられる感じがする。「あ、つ、ぐっ――」全身から冷や汗が吹き出す。

「ビックは強いね」言って、江能さんは、日記帳と、床に転がった果物ナイフを拾い上げる。

「お父さん、どこに行ったんだろう?ここで待ってるはずなのに」江能さんは言う。「私たちで、殺しちゃっても良いのかなあ?」

 右腕が熱い。痛い。

 犬の黒い鼻から臭い息がぼくの顔に吐きかけられる。

「ぐ——この……!」苛烈な痛みに震えながら、左手で、床に落ちた紙に触れる。

 ぼくは、それを指で挟むと、紙の角で、犬の眼球を、引き切る。

 高い悲鳴を上げて、犬が顔を上げる。あごの力が緩み、右手が解放される。

「ビック!」

 ぼくは立ち上がった勢いそのままに、江能さんに身体をぶつける。江能さんは、後の壁にぶつかり、崩れる。

 床に落ちた日記を拾う。

——これさえあれば……

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 ぼくは、必死にノブを回し、管理人室から転がり出る。

 立ち上がり、足を動かし、部屋から離れる。

 振り返る。すぐにでも、後から白い獣が追いかけてきて、飛びかかってくるのではないか。

「はぁ、はぁ、はぁ……」自分の呼吸がうるさい。

 自分の腕から血が垂れている。。

 早く。早く、他の人たちと合流しないと――

 二階に上っていく。

 二階には、皆が集まっていた。

「……ん?おい、どうしたんだ!」おじさんがぼくを見て声を上げる。

 そのほかの参加者もぼくの方を向き、ぼくの肉が剥き出しになった右腕の傷を見て、言葉を失う。

 ぼくはかまわず、彼らに近づいていく。ともかく皆に囲まれて、生命の安全を確保したかった。

「だ、大丈夫ですか?執一さん」美紀が言う。

「大丈夫……」

「……」美紀は困惑した顔でぼくを見、なにかを言いかけて、やめる。

「集まって、武広さんの監視ですか?」ぼくは尋ねる。

 しかし、誰も答えてくれない。様子がおかしいことに気がつく。

「……、どうしたんです?」

 答える代わりに、彼らは、円陣を解いて、身体で隠れていたそれを、ぼくに見せた。

 そこに横たえられていたのは、死体。

 頭部の上半分を砕かれ、天井を見上げる、藤山老人の死体だった――

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