第3話 自己紹介では妻だけど僕をパパと呼びたいって?

「明朝、荷物が入るから管理人さんに伝えておこう。それから久恵ちゃんの紹介もしておこう。それからこれが部屋の鍵だから持っていて、玄関で使い方を教えてあげる」


ここへ着いた時は管理人さんが不在だった。5時にはいなくなるので、今度はいるだろうと二人で階段を下りて、玄関脇の管理人室へ挨拶に行った。


年配のとっても親切な管理人さんだ。会社を定年退職してここが第2の職場だと言う。草花が好きみたいでいつも手入れをしてくれているから、マンションの花壇は花が途切れたことがない。


「管理人さん、新しい家族を紹介します」


「私、妻の久恵です。よろしくお願いします」


管理人さんがキョトンとしている。


「ええ! いやその……」


言いかけてやめた。まあいいかと思ったのか、嘘でも嬉しかったのか、自分でも分からない。それから、慌てて明日荷物が搬入される時間を伝えて帰ってきた。


「なぜ、妻といったの。義理の姪じゃないか。管理人さんは驚いていたぞ」


「でも、おじちゃんも訂正しなかったでしょ。なぜ?」


「うーん」


「名前が川田康輔と川田久恵だから、妻の方が自然でしょ。義理の姪でもよかったけど、義理の姪と独身男性が一緒に住むのはおかしいし、娘ならなおさらおかしいでしょう。突然、独り身の男に顔の似てない娘ができたら。やっぱり妻が一番自然だと思ったから」


ドキッとすることを平然と言ってのけるところが久恵ちゃんの性格か? 知らなかった。歳の離れた義理の叔父さんとしては本心が図りかねる。あまりこちらを刺激するようなことは言わないでほしい。それでなくてもドギマギしているのに。


「どうかな、歳の差からかなり無理があると思うけどね」


冷静を装ってやんわり否定してみる。


「それから、呼ぶときだけど、おじちゃんは寅さんみたいでやめたいの。パパと呼んでいい?」


「パパ?」


「呼びやすいから。だって父親代わりなんでしょ。そう言いました!」


「まあ、そうは言ったけど、パパか」


パパというと同じ地方出身の同期の友人を思い出す。研究所の行事に東京出身の美人の奥さんが来ていて「パパ」と呼ぶので、思わず顔を見て吹きだしそうになった。ええッ、パパ?


とてもパパという洗練された顔付きではなかった。それからはどこかで「パパ」と呼んでいる声を聞くと思わず呼ばれたパパの顔を見てしまう。


「ねえ、二人だけのときは、パパでいいでしょう?」


「他人の前では絶対にだめだ。顔も似てないから親子というより愛人関係と思われてしまうよ」


「気にするほどのことではないと思うけど」


「まあ、二人だけの時なら良しとしようか」


本当は名前で呼んでもらった方がいいと思うけど、それも何か不自然だ。まあ、パパと呼ばれると親しみも感じられるし、確かにおじちゃんよりよっぽどいい。それで良いことにした。


「疲れてない? ひと休みしたら、まず駅の回りを案内しよう。東京の私鉄沿線の典型的な駅前商店街があって、レストランもあるし、スーパーもある。夕食を食べて買い物をしてこよう」


「いいところだなあ。私、東京に住んでみたかったので嬉しい」


「東京に住むって大変だよ」


「おじさんも上京してきた時は慣れるのに髄分時間がかかった。今は地方にもほとんどのものあるけど、東京にしかないものが結構ある。来週末には東京を案内してあげよう」


「慣れるのに時間がかかるかもしれないけど、おじちゃん、いえ、パパがいるから安心しています」


「月曜日は休暇を取ってあるから学校へ行ってみよう。専攻はフランス料理にしたけど、よかったのかな? フランス料理は料理の王道だから、物事やるなら王道をいくべし」


「仰せのとおりに! 習ったら家で試してみるね」


「ああ楽しみだ」


◆ ◆ ◆

外へ出るともう薄暗くなっていた。駅までは裏口を出て裏道を歩いて行った。久恵ちゃんが手を繋いでくる。小さな柔らかな手だ。


女の子と手を繋ぐのは初めてだったように思う。手を繋いだ親子といった感じには見えるかもしれない。残念ながら恋人同士にはみえないだろう。


この裏道は車も自転車もほとんど通らないので落ち着いて歩ける。大通りの歩道は自転車が通るのでぶつかりそうになることがある。でも帰りは安全のため必ず大通りの歩道を歩くように言っておいた。


商店街をざっと歩いて様子を教えてから駅前のファミレスで夕食を食べた。それからスーパーで朝食用の牛乳やパンやフルーツ、それに冷凍食品などを買って帰ってきた。


◆ ◆ ◆

帰宅後、早めのお風呂の準備をした。浴槽の栓を閉じてスイッチを入れるだけだ。それから、久恵ちゃんの部屋にシーツを換えた僕の布団や枕を運んだ。


明日の午前中には久恵ちゃんの荷物が到着する。1日だけ僕の布団を使ってもらうことにした。そのことについて久恵ちゃんは何も言わなかった。僕はリビングのソファーで寝ることにしている。


すぐにお風呂の準備ができた。久恵ちゃんの部屋をノックする。


「お風呂の準備ができたから、先に入って」


「私はパパの後でいいから先に入って下さい」


「僕の後じゃ汚れていて悪いから先に入って」


「かまいませんから先に入って下さい」


どうしてもそう言うから、先に入ることにした。僕が覗くかもしれないと思って警戒した? そんな訳はないはずだ。こちらの考え過ぎだ。遠慮しているだけだろう。


昨晩は母の部屋に泊まったので、お風呂に入れなかった。ここのお風呂は足が伸ばせて入れるから気に入っている。久恵ちゃんも気に入ってくれるだろう。次に久恵ちゃんが入るから、早く上がろう。


身体を拭いて新しい下着とパジャマを着るとすっきりした。すぐに久恵ちゃんに声をかける。


「どうぞ、上がったよ」


久恵ちゃんがパジャマやら着替えを抱えて部屋から出てきた。


「浴室には鍵が付いているから中からかけておいてね」


「パパを信頼していますから鍵はかけません」


「いや、かけといて、間違って開けるかもしれないから」


「ええ、そんなにパパは自分自身が信用できないんですか?」


「念のため、そうすれば安心して入っていられるだろう」


「そこまで言うのならそうしますが、でも万が一、私がお風呂で気を失ったりしたら入ってこられませんけど大丈夫かしら」


「大丈夫、もしそんなことがあったら開けられるようになっている」


「ええ!」


「こっちへ来て、ノブの下にネジの頭のようなものがあるだろう」


「ありますが」


「鍵がかかっていても10円玉で回せば鍵が開くようになっている。おそらく子供が誤って内から鍵をかけても開けられるようになっているのだと思う。久恵ちゃんの部屋の内鍵も同じだけど」


「それなら、鍵をかける意味がないじゃないですか」


「うっかり開けるのを防げる」


「誰かが入っているのにドアをうっかり開けることはないと思いますが」


「そうだね。分かった。考えすぎだったかな。好きなようにして」


不毛の議論だった。なんで鍵にこんなにこだわってしまったのだろう。彼女が言うように自分自身に自信のない現れかもしれない。


久恵ちゃんが入ってから随分時間が経っている。もう小一時間になる。気になって廊下から声をかける。


「お風呂長いけど、大丈夫?」


「大丈夫です。すぐに上がります」


久恵ちゃんは可愛い小さな花柄のパジャマを着て出てきた。僕はソファーに座ってそれを見ている。湯上りの女の子は上気していて可愛い。


「よかった。返事がなかったら、鍵を開けて中を覗くところだった」


「覗くきっかけを作って上げられなくてごめんなさい。今度は返事しないで鍵を開けて入ってくるのを待ってみようかしら」


「ええ、でも返事がないとそうするよ」


「へへ、どんな顔をして覗くのか楽しみ」


また、僕をからかって喜んでいる。


「冗談はこれくらいにして早く寝よう。今日は疲れた」


「私も少し疲れました。おやすみなさい」


僕の過剰反応もあるけど、久恵ちゃんの挑発的な言動にも困ったものだ。こちらがドキドキするのをまるで楽しんでいるみたいだ。


あの年頃の娘は僕のようなおじさんをからかうのが楽しくてしょうがないみたいだ。まあ、こちらも刺激があって楽しいけどね。


どう言う訳か、会社では扶養家族の「姪」と届けて、マンションの管理人さんへは「妻」と紹介して、家の中では父親代わりの「パパ」になった。明日からの年頃の可愛い娘との同居生活はどうなるか、楽しみでもある。


同居生活1日目が無事に終わった。おやすみ!

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