第4話 トイレ覗き見事件―鍵がかかっていなかったのでごめん!
次の日、同居生活の2日目の早朝からもう事件は起こった。
6時に目が覚めた。今日は日曜日で休みだからもう少し眠っていたかった。ソファーで寝ていたので、いつもと違って、寝足りたという感じがしない。できれば早く自分の部屋で自分の布団でゆっくり眠りたい。
久恵ちゃんはまだ眠っているみたいだ。静かで物音ひとつしない。音をたてないようにトイレに行く。トイレの照明のスイッチがONになっていた。消し忘れだと思って気にしなかった。音のしないようにドアをそっと開く。
誰かが中に座っている。うつむいていた顔が上がる。あっ! 久恵ちゃんが座っている! 驚いて唖然とした顔、目が合った、しっかり目が合った。お互いに固まる!
その固まっていた時間がどれほどの間だったか分からない。きっとほんの一瞬だと思うけど、ずいぶん長い時間のように思えた。「あっ」という声が聞こえた。久恵ちゃんの声だと思う。「キャー」とは言われなくて良かった。
「ごめん!」
そういうと、すぐにドアを閉めた。
「ごめん。気が付かなかった。ごめんね。寝ているものとばかり思っていたから」
中から返事がない。内鍵をかける音がした。
「ごめん。本当にごめん。勘弁して。これからは絶対にないから」
返事がない。自分のしでかしたことの重大さに次第に気づいていく。久恵ちゃんが怒ってここを出て行ったらどうしよう。気持ちが沈んでくる。ここは謝り続けるしかもう方法はない。
でも謝ろうにも返事がないし、何せトイレから出てこない。困った。機嫌が直るようにと祈るような気持ちでいる。
あれから小一時間経っている。このまま出てこないかもしれない。どうしようと思っていると水を流す音がする。内鍵を開ける音がしてドアが開いた。パジャマ姿の久恵ちゃんが出てきた。
「ごめんなさい。驚かしてしまって、鍵をかけていませんでした」
「こちらこそごめん、入っているとは思わなかった。照明がONになっていたけど消し忘れと思って気にしなかった」
「朝、目が覚めて、すぐにトイレに入りました。パパはまだ寝ていたので音がしないように静かに入りました。だから気が付かなかったのは当たり前です」
「気分を害した? 随分出てきてくれないので心配した。ごめん。本当にごめん」
「出てこなかったのは気分を害したからではありません。あのー、便秘気味で時間がかかりました。それを中から言い出せなくて。だから気分を害したのではありません。気にしなくてもいいです」
「本当に?」
「本当です」
「よかった。返事をしてくれないし、出てきてくれないので、このままここを出て行ってしまうのではと心配した」
「ご心配をおかけしました。そんなことは絶対にありません。ここにおいて下さい」
「もちろん」
「私はこれまで緊張すると便秘気味になるんです。昨日は緊張していたんだと思います」
「久恵ちゃんを緊張させた僕の配慮が足りなかった。もっと気楽にいてもらえるようにするから、気の付いたことなら何でも言ってくれていいから、遠慮しないでいいから」
「それなら、トイレに入るときは必ずノックするようにしましょう。それと内鍵もかけるようにしましょう。私もそうします」
「分かった。そうしよう」
「崇夫パパも同じようなことがあったの。パパとママが結婚して一緒に住むようになった中学1年の時、今日と同じだった。パパは私と目が合って一瞬固まっていました。それからは必ずトイレに入るときはノックしていました。私とママが横にいる時でも」
「兄貴らしいな。これからは必ずそうするよ」
もうこんなことはこりごりだ。一時はどうなることかと心配したけど、何とか無事に収まった。でも、そのあと僕がトイレに入ろうとするとドアの前に立って入場を阻止された。
「しばらく待って下さい」
「どうして、出ちゃうよ」
「我慢して下さい」
どうしても入れてくれない。全部出ていないのかな? いや、においを気にしているのかもしれない。そうなるとますます興味がわいてくる。どんなにおいなんだろう? 考えること自体これは変態だ。
入れてくれないとますますおしっこがしたくなる。入りたいがドアに寄り掛かってその前を動かない。しょうがないのであきらめてソファーに戻った。
15分ほど経過したころ、ドアの前にいた久恵ちゃんがまたトイレに入った。においの確認のため? 水を流す音がして出てきた。「お騒がせしました」と言って部屋に戻っていった。やれやれ、漏らすところだった。
第1日目の初っ端からうら若き女子と同居する大変さが身に染みた。でもトイレにちょこんと座っている姿が可愛かった。驚いて固まっていたけどしっかり見ていた。あの姿が目に焼き付いている。
◆ ◆ ◆
午前10時に久恵ちゃんの荷物が2トントラックで届いた。ダンボールが20個程と小さなテーブル、プラスチックの衣装箱が4個、机、椅子、本棚、小型テレビ、布団だけだ。搬出の時に少ないと思っていたけど、部屋に運び込んでもやはり少ない。
久恵ちゃんが少し疲れている様子なので「手伝おうか」と聞くと「お願いします」の返事があった。
ああいやだ、年頃の娘の持ち物に興味があった。自分ののぞき見趣味に嫌悪を感じつつ、何気なく開封を手伝う。服は若いのにシンプルで地味なものばかりだった。
「服はママと共用にしていたの。体形がほとんど同じで、靴のサイズも同じだった。お金に余裕がないのが身についていたのね。でも便利だった。だから、これがママの遺品です。着ているとママに守られているような気がします」
「来週の休日、久恵ちゃんの服を買いに行こう。僕も買いたいから」
「はい」
久恵ちゃんが大事そうに、上半分が鮮やかな赤色の小さいグラスを本棚に飾っていた。
「とってもきれいなグラスだね」
「パパが『Little Lady』という名前をつけていたもので、私のイメージにそっくりだからと言って、渡してくれたものなの。アメリカ製の古いものだとかで、光が当たると緑がかってとても綺麗なの
「この小さな赤いグラスを見ていると、兄貴が久恵ちゃんを愛しく大切に思っていたのか分かるよ」
「それから、このグラスを使ってください。パパの遺品です。パパがウイスキーを入れて飲んでいたものだけど、これも光が当たるととても綺麗です」
「ありがとう大切にするよ」
それから食器や調理器具もあった。それを久恵ちゃんはキッチンの棚にしまった。
久恵ちゃんはそれからずっと一人で部屋の片づけをしていた。お昼になったけど、朝食用に買ってあったパンなどで昼食を簡単に済ませるとまた部屋に入って片付けをしていた。僕は冷凍食品をチンして食べた。
3時過ぎになってようやく部屋から出てきたと思ったら、リビングのソファーに腰かけて休んでいた。ちょっと目を放していたらそのまま眠ってしまっていた。
昨日から緊張していたし、今朝もひと悶着あったし、荷物の片付けで疲れているんだろう。そっとしておいてやろう。
部屋から毛布を持ってきてそっとかけてやる。寝顔は憂いもなく安らかだ。これだけは安心した。ここへ連れてきてやってよかった。地元に残っていれば悲しい事故をいつも思い出していることになるだろう。
そばに座ってその寝顔を見ている。いつまで見ていてもあきない可愛い寝顔だ。腕の中に抱いて寝たらどんなだろう。
僕もいつのまにか眠っていた。気配で目を開けたら久恵ちゃんが覗き込んでいて、目が合った。
「眠っていた?」
「私も眠っていました。目が覚めたらそばでパパが寝ているから、寝顔を見ていました。よい夢でも見ていたの? にやにやしていたけど」
「夢? 見ていたかもしれないけど覚えていない。そんなにニヤニヤしていた?」
「そう、その証拠によだれを垂らしている。ほら跡があるけど」
慌てて手をやると確かによだれが垂れていた。照れくさい。まずい姿を見られた思い、すぐに話題を変える。
「もう5時を過ぎているから夕食を食べに行こう。近くにおいしいカレー屋さんがあるから行ってみる?」
「カレーは大好きだから行ってみたい。それと調理器具や食器がそろったので、明日から食事を作り始めます。それで材料を仕入れてきたいです」
「それなら帰りにスーパーへ寄って食材を仕入れてこよう。でも無理をしなくてもいいからね、慣れてからでいいからね」
久恵ちゃんは明日から食事を作ってくれるという。そうは言ったものの楽しみだ。
食事を終えたあとスーパーで二人では持ちきれないほどの食材を買ってきた。久恵ちゃんはそれらを冷蔵庫と冷凍庫にきちんと片付けた。
お風呂に入る前に僕の布団と枕を久恵ちゃんの部屋から僕の部屋に運んだ。僕は久恵ちゃんがお風呂から上がるのを水割りを飲んでテレビを見ながら待っている。まだ2回目だからお風呂の使い方が分からない時に教えるためだ。
やっぱり長風呂だった。お風呂から出てきたのを確認すると自分の部屋に入った。これで自分の布団でゆっくり寝られる。
でも自分の布団ではないみたい。何か違う。匂いだ! 一晩これで寝ただけなのに久恵ちゃんのいい匂いが充満している。一晩ソファーで寝て寝足りなかったが、これで十分元が取れた。布団を抱くとぐっすり眠れる。おやすみ!
◆ ◆ ◆
休暇を取った月曜日は蒲田にある調理師学校を二人で訪ねた。久恵ちゃんが面接を受けておかなければならなかったからだ。入学手続きはすでに僕が済ませていて入学金や授業料の払い込みも済ませてあった。これで4月から通学ができる。
時間があったので蒲田の街を二人で見て歩いた。久恵ちゃんは街の大きさに驚いていた。久恵ちゃんの負担がないように、夕食はお弁当を買ってきて食べた。
明日火曜日から僕は出勤する。久恵ちゃんは3月中はマンションで家事の練習をすることになっている。お弁当を食べてから明日からの一日のスケジュールを相談した。
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