梅屋こうぶん目録

うめ屋

いまの世ごと:梅屋こうぶん目録

〈桃園〉


 セーラー服のスカートをなびかせて、みちはその通りを歩いていた。祖父の使いとして、注文の品をとある店主の元へ届けるところなのである。

 通りの先はなぜか茫漠とかすんで、ときおり脂の滲むようにじわりと歪む。左右には、憂鬱に沈む日本家屋がえんえんと建ち並んでいた。いっさい生活の気配を感じさせない街並みが、無言で岐子を圧迫する。たまらず空を見上げてみれば、そちらはそちらでみっしりとにび色の雲に埋め尽くされており、なんとも息のつまる景色だった。

 だらだらと変わらない風景ばかりが続くため、歩いているとしだいに奇妙な感覚に陥ってくる。白黒の活動写真の中に紛れ込んだかのような、曖昧で心もとない感覚。足をどれほど進めても、現れる景色は無限のくり返しのように単調で、戻っているのか進んでいるのかさえもあやふやになりそうだった。

 妙に彩りのない通りを見つけたら、そのまままっすぐ進めばよい。祖父はそう云った。進んでいるうちに、店の方から迎えを寄越してくるはずだから、と。しかし、そのような人物はいっかな現れる気配がない。それどころか、通りには人の気配というものがまるでなかった。

 どこかで道を間違えたのかもしれない。この通りこそ恐ろしいくらいに綺麗な一本道だが、ここに来るまでの道のりは角を曲がったり裏路地を抜けたりと、めまいがするほど複雑だった。もし間違っているのだとすれば、このまま道を進んでも徒労に終わるだけである。

 岐子はいったん立ち止まると、どうしたものかと考えを巡らせた。祖父に渡された手描きの地図を取り出して、もう一度よく眺めてみる。しかし通ってきた道を指でなぞりつつひとつひとつ反芻してみても、間違ったと思われるところは特になかった。

 進むべきか戻るべきか。地図をにらみながら岐子が迷っていると、出し抜けにふわりと甘い香りが鼻腔をかすめた。思わず顔を上げ、通りの向こうに目をこらす。

 かわり映えのしない景色のほかは何も見えない。しかし確かに、道の先からは甘い香気がゆらゆらとただよう。かすかだが、はなやかではっきりとした存在感を主張する香りである。

 岐子の脳裏に、ふと満開の桃の花の舞い散る光景が浮かんだ。

 しづ心なく散るのは、なにも桜ばかりではない。気がつけば視界はもう、やわらかな淡桃の雨である。花びらは留まるべきところを知らず、はらはらとこぼれ落ちるかと思えば、風にさらわれて駆けるように散り急ぐ。あたかもたはぶれのように舞い、幾ひらかは軽やかに岐子の頬を撫ぜた。やがて花は地になずみ、豪奢な衣を描きだしてゆく。

 まさに桃源郷か極楽か。岐子は思わずため息をついた。微風に導かれ、そっと一歩を踏み出す。しかしその瞬間、風が耳元でごうと鳴り、渦を巻いて視界を覆った。

 どうやら幻であったらしい。あるいは白昼夢にでも惑わされたか。気がつくと岐子は一歩を踏み出した姿勢のまま、白黒の通りにたたずんでいた。だが、流れてくる甘い香気は変わらない。道の先から、いざなうようにしきりと絡みついてくる。

 岐子は顎に手をあて、しばしの間逡巡した。それから半ば投げやり気味にため息をつくと、香りのする方へと足を向けた。



*



 どれほど歩き続けただろうか。進むにつれて、香りはますます強まっていった。肺の奥までまとわりついてくるかのような、むせかえるほどに濃い甘さである。だが不思議と、不快感は覚えなかった。

 おや、と気づいたのは、それから少し経ってからのことである。左のはるか前方に、明らかに周囲の民家とは造りの異なる家屋が見えた。まだ遠くてはっきりしないが、その外見からして商家であろう。どうやらあの甘い香りも、そこからただよってきているらしい。

 あれが目的の店だろうか。そう思いながら歩いてゆくと、そのうちに、誰かがその前に立っているらしい様子が見えてきた。

 少し離れた場所から立ち止まって眺めてみたところ、さほど岐子と年の違わない少年のようである。黒い詰襟の上から同色の二重回しを羽織り、なにかを手の内に包み込むようにして立っている。周囲と同化しきったいでたちの中で、学生帽の下からのぞく栗色の猫っ毛だけがぽつりと色彩を滲ませていた。

 そのうちに岐子の視線を感じたものか、ふっと少年がこちらを向いた。少年は一瞬目を丸くしたあと、にっこりと人好きのする笑みを浮かべて頭を下げる。そしてそれから、どうぞこちらへ、とでも云うかのように店を指した。

 その少年の容貌は、祖父に聞いていたとおりである。岐子は小さく会釈して、再びそちらへ足を進めた。



 *



 少年は店の軒先に立って岐子を出迎えた。やはりおだやかな笑みを浮かべたまま、幽かに首を傾げてみせる。


行木ゆきみちさんですね? 《シロガネ堂》の」

「……はい。祖父の使いで参りました」

「ご無事で何よりでした。ぼくはこの《うめ屋》の店主をつとめている、番頭ばんとうと申します」


 心底ほっとした顔でそう云って、番頭は慇懃に頭を下げる。その様子を不思議に思いつつも、岐子は案内されるままに店へ入った。

 外のはっきりしない天気とも相まって、店の中は薄暗い。ただ、随所に置かれた行灯のやわらかな光だけが、人肌のようなぬくもりを感じさせる。どれも梅の花の透かし模様が入った、繊細な意匠だった。


「散らかっていますが、とりあえずお寛ぎください。お茶をお持ちしましょう」

「……いえ、どうぞお構いなく」


 番頭は帳場に上がって座布団を勧めると、静かに一礼して店の奥へと去っていった。残された岐子は座布団に腰を下ろし、店内をぐるりと見回した。

 確かに、店の中は雑然としている。年月を経た骨董がひしめき合い、ただでさえ暗い店内に無数の陰影を生み出していた。とはいえ外の通りとは違い、その闇はどこか人を安らがせるたぐいのものだ。混沌とはしていても、すべてが在るべき場所にきちんと落ち着きを得ている。そんな大らかなおだやかさが、この店を包んでいた。


「お待たせをいたしました」


 店の静寂を崩さぬ程度の声とともに、番頭が戻ってきた。茶器のひとそろいを手にしている。番頭は軽く会釈して、岐子と向かいあう位置に座った。脇にこぢんまりとした行灯を置くと、慣れた所作で茶菓の支度をはじめる。

 ふわりと清々しい茶の香りが辺りを満たす。岐子はそこではじめて、店の中に茶とは異質の、もっと甘やかな匂いが染みていたことに気づいた。甘くあでやかで、それでいてどこか心もとなげな、楚々としたゆかしさも持っている。それは刹那的な香りではなく、長年店の中に融け込んで、すでにその場の一部として深く根ざしている匂いであった。

 似ている、と思った。先刻、通りで岐子をいざなったあの香りと、店に馴染んでいるこの匂い。あちらの方がもっと濃密ではなやいだ香りだったが、おそらく核となるものは同じなのではないか。


「どうぞ、お召し上がりください」


 す、と茶菓が差し出され、岐子は香りの記憶を中断させた。礼を述べて、茶をいただく。馥郁たる香りが、ゆるりと体の芯を解きほぐしてゆく心もちがした。

 茶菓は梅鉢をかたどった練りきりである。行灯の明かりに照らされて、雪白の肌にほんのりと淡く紅を刷いてあるのが見えた。そのふっくらとした菓子の形を目にしたとき、ふっと岐子の脳裏に浮かんでくるものがあった。


「……梅」

「え?」

「通りでずっと、甘い香りがしていました。それから、この店でも」


 通りで見た幻は桃だった。しかしあの濃密な香りは、桃の蜜のみによるものではない。その奥でひっそりとゆかしげに香っていたのは、間違いなく梅である。そして、この店に馴染んでいる匂いの気配もまた、梅のそれだと岐子は感じた。

 そう述べると、番頭は栗色の目をみはった。


「よくおわかりになりましたね。〈桃園〉には、梅花香はほんのわずかしか混ぜていないんですが」

「……〈桃園〉」

「はい。……こちらです」


 番頭は骨董に埋もれていた文机からなにかを持ってくると、岐子の前に置いた。見れば、それは銀製の香炉である。鶯宿梅の模様を、繊細な手で彫りあげてあった。全体に派手すぎず地味すぎず、感じよく洗練された風合いだ。長いときを経てきた代物らしく、その肌はいぶしたようになめらかな銀色をたたえていた。


「……これは、祖父の手ですね」

「さすがお孫さんだ。おっしゃるとおりです、これは岐助みちすけさん、……行木さんのお祖父じいさまに作って頂いたものなんですよ」


 番頭は和やかな目をして微笑みながら、香炉の蓋を取った。抑えられていた濃厚な香の気配が、ふわりと周囲へ広がる。まぎれもなく、あの通りにただよっていた香りだった。


「これが、……〈桃園〉」

「はい。桃花香に、微量の梅花香を混ぜたものです。ですから香りとしては桃の方がだんぜん強い。梅花香にはお気づきにならない方も多いんですよ」

「わたしがこちらへ伺ったとき、これをいていらしたのですね」

「そうです。……今日は、申し訳ありませんでした。本来ならば、使いの者がこれを薫きながらお迎えにあがるはずだったんです。ただ、その者が折悪しく床に伏せってしまいまして」

「……いえ、お気になさらず。でも、なぜわざわざ香を」


 その問いに、番頭は一瞬ちらりと店の外へ目を遣ったあと、真剣な顔つきで尋ね返してきた。


「行木さんはここへおいでになる途中、ご気分が優れなくなるなどはなさいませんでしたか?」

「……いいえ。特には」

「そうですか。よかった、ちゃんと〈桃園〉が効いたようですね」


 番頭はほっと息をついて、顔をゆるめた。それからつ、と通りの方へ目を向ける。岐子もつられるようにその先を追ったが、特にめぼしいものはない。白い通りと、その向こうにひとけのない日本家屋が見えるきりである。


「この通りには、ときおり影が蠢くんです」


 ぽつりと呟かれた言葉は、実に掴みどころのないものだった。岐子はしんと静まった通りから、番頭に視線を戻した。番頭の方は、店の外へ目を向けたままである。まるで、見えない影をそこに見出そうとしているかのようであった。


「さしあたり影、と呼んではいますが、実際何者であるのかはわかりません。彼らはまるで薄墨を刷いたように正体のない、曖昧な存在です。そして、影が現れるこの通りをおとなうと、……てられてしまうとでも云うのでしょうか。体調を崩される方が多いんです。彼らが通りをさまよっているときは、特に」


 影が直接、危害を加えるというわけではない。しかしその存在がそこにあるだけで、あるいはその残滓の気配を嗅ぎとるだけで、普通の人間の体には歪みが生じる。その影響を弱めるために、番頭は〈桃園〉を用いているのだと云った。

 高く尊き仙果の香りは、邪を払う。それは影に対しても同様らしく、よって常ならば、番頭は使いの者に〈桃園〉をもたせて、客を出迎えに遣っていたはずだった。


「ただ、今日は使いの者が寝込んでしまいましたので。やむを得ずぼくが店先で〈桃園〉を薫きながら、お待ち申し上げていたということなんです。店先からだけでは効かないのではないかと心配していたのですが、うまくいったようで何よりでした」

「……そういうことでしたか」


 その説明を聞いて得心がいった。店を訪ねたとき、番頭がやけに安堵した様子であったのは、岐子がその影とやらに中てられるのを気遣ってのことであったのだ。よほど腑に落ちたさまが見てとれたのか、番頭は意外そうに岐子を見つめた。


「どうやら、影については何もご存じなかったのですね。岐助さん、いえ、お祖父さまは何かおっしゃっていませんでしたか?」

「祖父は、口下手な人ですから」


 岐子を玄関先まで送り出したとき、祖父は何かを云いあぐねている風に何度か顔をしかめていた。しかし結局は複雑な道のりについての注意と地図、そして常日頃持たされている身守りを手渡されたのみでしまったのである。

 そのときはその逡巡をいぶかしく思ったのだったが、影について聞かされた今ならば納得がいく。口の不調法な祖父が、かようなの者のことを巧く伝えられるはずがない。

 祖父の人となりについては、おそらく目の前の少年もよく承知しているのだろう。その名をのぼせている様子は、ごく自然な口ぶりである。岐子はそれを慮って、祖父のことはどうぞよいようにお呼びくださいと告げた。ではお言葉に甘えてと前置きしつつ、番頭は苦笑しながら祖父の名を口にする。


「岐助さんときたら、相変わらずでおいでのようだ。昔から訥弁とつべんな方でしたが……」


 揶揄するような調子だったが、そこに祖父をあげつらう気色はない。むしろその言葉には、古き友人を懐かしむがごとき親しさがあった。

 どうやら、彼らは随分以前からの知己であるらしい。そう判じつつ、岐子は祖父の話が出たのを潮に、かたわらへ放置されていた注文の品に手を伸ばした。


「……そうですね。わたしは若い頃の祖父を存じませんが、番頭さんのお話を伺う限りでは、さほど変わっていないのだろうと思います。……それで、これがその祖父からの使いものになりますが」

「ああ、そうでした。ありがとうございます」

「いえ」


 岐子はかぶりを振り、小ぶりな利休色の風呂敷包みを示して結び目をほどいた。表に唐棣はねずとの銘が貼られた、細長い桐箱が現れる。それを、番頭の方へ差し出す。


「中を、お確かめください」

「……では、失礼いたします」


 番頭は会釈して、細やかな手つきで蓋に手を滑らせた。中にはあざやかな濃藍の絹座が敷かれ、そこに一本の簪が横たわっている。すっきりとした銀製の平打で、梅花の型に透かし彫りをしたところへ七宝を嵌めこんだ趣向のものだ。七宝は移ろいやすき唐棣の色にて、あわれにも散りゆく紅梅を思わせる。

 番頭はほう、と小さく嘆息したあと、顔を上げて岐子に微笑みかけた。


「こちらの希望以上の出来栄えで驚きました。岐助さんは、本当にいつもよい仕事をしてくださいますね。彼のおかげで、また手放せない蒐集品が増えてしまいましたよ」

「……ありがとうございます。祖父にも、伝えておきます」

「ええ、よろしくお願いします。……それでは、だいをお持ちしなくてはいけませんね」


 番頭は失礼をと云って立ち上がり、再び店の奥へ消えた。少しして、何がしかの包みを手に戻ってくる。確かに受け取り、その旨を一筆したためた。


 それからしばらくとりとめのない話を交わしたのち、岐子は程のよいところでいとまを乞うた。引き留められたが、型どおり固辞して座を立つ。行きと同じく番頭に案内され、軒先まで出た。しかし、それではと別れを告げようとしたところで、番頭に止められる。


「ああ、行木さん。こちらをお持ちください」


 番頭が差し出したのは、すっぽりと掌に収まってしまうほどの小さな香炉であった。とろりとした光沢がうるわしい白磁の品で、携帯用らしく持ち手がある。中に置かれた香からは、幽かに〈桃園〉の香りがした。やはり客の帰る折にも、これを薫いて見送るものであるらしい。

 香炉は次に店を訪ねたときにでも返してくれればよいと云われ、岐子は礼を述べてそれを手にした。そして今度こそ暇を告げると、番頭はにこりと笑んでねんごろに腰を折った。

 

「今日はありがとうございました。ぜひまた、遊びにおいでください」

「……はい。よろしければ、今度は番頭さんの方も弊店に」


 岐子としては、番頭と祖父が知己であるらしいことを慮ってそう述べたのである。しかし、番頭はその言葉を聞くと困ったような微笑を浮かべ、思わぬことを口にしたのだった。



 *



 セーラー服のスカートをなびかせて、岐子はその通りを歩いている。通りは相変わらず単調で、陰鬱な風景とかぎろひのごとき彼方の歪みが続くばかりだ。はかばかしくない空もようも同様に、空気は停滞という淵に淀んだまま動かない。

 唯一、手にした香炉からだけはひと足ごとに濃密な香りがたゆたい、滞った空気をわずかばかり揺らがせた。その香気を身に染みて感じつつ、岐子は足元を見るともなしに眺めながら歩いている。

 そして淡々と足を進めるかたわらで、最前の言葉を思っていた。

 ぼくは、この店から出ることの叶わない身なんです。ですから、と。別れぎわ、番頭は岐子にそう云ったのである。だから、《シロガネ堂》に赴くことはできないのだと。

 その意味を、岐子はつらつらと考える。それは怪我や病弱によるものなのか、あるいは願掛けやまじないのたぐいでもやっているゆえなのか。そも、出られないと云うは自らの意志か誰かに強いられてのことか。

出ることの叶わない身という云い方は、どうとも取れるものだ。番頭の口ぶりからも、なんらかの感情の発露は覚えなかった。ただ、岐子の社交辞令に対してまことに申し訳なさそうな様子を見せただけである。

 思えば、なんとも不可思議な店主であった。商人であるせいもあろうが、行く雲か流れる水のごとく捉えどころのない人だったと思う。あるいは、表向きだけ方円の器に従う水といったところか。

 ともすれば彼こそが、厄介な怪の者であったのかもしれない。

 とりとめもない考えを巡らせながら歩むうち、岐子はふと空気が変わったことに気づいた。顔を上げれば、知らぬ間に前方の歪みが晴れている。ようやく、通りの終わりが近づいてきたらしい。岐子はいくぶん肩の力を抜いて、さらに足を進めようとした。

 しかしそのとき、思いがけず何かのざわめきが岐子の耳を震わせた。空耳かと歩みを止める。だが、気のせいではない。さざなみか風のく声のようにひそやかなざわめきが、いつのまにかこの通りに満ちている。

 それは遠くはかない音の混在で、意識を凝らしてもしかと聴きとれはしない。だが間違いなく、人の発する喧騒ではあると確信できた。さらに云えば、それは雑踏のざわめきに似ている。足音と人々の交わす声が混じりあう、都市の音だ。

 しかし、この通りにひとけはない。左右に軒をつらねる家々からも、営みの様子は微塵も感じられなかったはずだった。であるならば、なぜ雑踏のざわめきが聞こえるのか。

 岐子がそう考えたとき、背後で不意に何者かのおもかげが立ちのぼった。ゆらりと煙の立つように現れたそれは、唐突な変化であったにもかかわらずごく自然に岐子の後ろに存在している。

 だが、驚いているほどの暇もなかった。はじめは一滴の天水に過ぎなかったそれは、やがてほつほつと数を増やして篠突く雨のごとくになる。今や辺りには、濃厚な何者かの気配がはっきりと満ち満ちていた。

 振り返らずともわかる。これまで岐子が歩いてきた道のりのはるか向こうまで、おそらく今、この通りは坩堝と化しているはずだ。突然現れた雑踏の、人の気配。これが、番頭の云っていた不詳の存在であるのだろうか。

 岐子は一呼吸をおき、それからつと首を巡らせた。所作にあわせて、手にした香炉から〈桃園〉が香る。

 予想にたがわず、そこには不詳の者たちが混交していた。番頭の言葉どおり薄墨を刷いたかのような、あるいは靄か霞のごとき正体のない存在が、通りをあてもなく往来している。見たところ人の形をなしているようにも思えるが、いざ見極めようとするとその姿はふっとほどけていってしまい、どうにも収拾がつかない。ただ、なんらかの気配が凝っていることだけは確かであった。

 その曖昧な姿は、まさに影とでも呼ぶよりほかはないものである。そうでなければ、わからぬものが蠢いているとしか云いようがない。

 けれど、これこそが怪の者なのだ。怪の者は、わからぬからこそ怪なのである。

 岐子は知らぬ間につめていた息を吐き、力を抜いた。わずかな揺らぎ。しかし、影たちがそれに反応することはない。瀬におく岩をどうとも思わぬ魚のように、それらにとって岐子は何者でもないらしかった。

彼らはただひそめいて通りを行き交い、ますますその数を増やしてゆく。混沌はここに極まり、喧騒もまた、大きなうねりとなって通りを包んだ。そのうねりは通りのあちこちに反響して、しだいにさざなみか雨音か判然のつかないものとなる。

 それは、岐子にとってどこか快さをもたらすものだった。知らずのうちに、たたずんで耳を傾ける姿勢になる。ふっと目を閉じれば、音はいよいよ水の記憶をともなって岐子の中に流れてきた。

 まるで寄せ返す波に足を洗われているような、あるいはさあさあとそぼ降る雨に濡れているような心もちがした。



 *



 どれほどそのざわめきを聴いていたのか。岐子がゆっくりとまぶたを開くと、そこにもう影たちの姿はなかった。確かめるように何度か目をまじろぐが、すべてはかりそめの夢とばかりに失せている。ただ、幽かな雑踏のなごりが耳に響くのみだった。

 そしてふと思いいたれば、手にした〈桃園〉の香りが薄まっている。どうやら、随分と長居をしてしまったらしい。岐子はゆるく首を振って、通りの終わりへと踵 を返した。この向こうには、現実の雑踏が待っている。

 ひとけの絶えた通りに和らいだ香りがたなびき、やがて溶けるように大気の中へ霧散していった。



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