ビスケット 1/2〈7〉

 ──何があったの。


 言葉は喉まで出かかっていた。悠貴の肩についた血に気づかなければ、そのまま声にしていただろう。


「ちょっ、悠貴君、血……!」


 美久は青くなって悠貴の肩を指差した。悠貴はシャツに点々とついた血痕をいちべつすると、驚いた様子もなく言った。


「ああ、これなら頭の血だ。もう止まってる」

「頭!?」


 頭を怪我するとしたらラックが落ちた時しかない。

 私をかばったせいだ……!


「見せて!」


 美久が腰を浮かせると、悠貴はわずらわしそうに手を振った。


「大した怪我じゃない。のうしんとうも起こさなかっただろ」

「傷口も見てないのに何言ってるの!?」

「打っただけだ。血が乾いているなら問題ない」

「そういう問題じゃないよ、お願いだから見せて!」


 ずっと痛かったはずなのにどうして言ってくれないの。

 なんの言葉が口をついて出そうになり、美久は唇を噛みしめた。

 違う、そうじゃない、私が気づけなかったんだ。

 悠貴の性格上、強がることくらい予想がついたはずだ。薄暗くてもケンカしてても、ちゃんと注意していれば気づけたはずだ。それを何時間も気づかないなんて。

 情けないやら悔しいやらで声に詰まった。何も言えないまま悠貴を見つめていると、悠貴がこんけしたように携帯電話を差し出した。


「勝手にしろ」

「ありがとう!」


 美久は携帯を受け取ると、膝立ちになって悠貴の頭に触れた。髪をき分けて傷口を探す。血が右肩についていたので傷は頭の右側だろうと思ったが、なかなか見つからなかった。身を乗り出して後頭部を探ると、ざらりと乾いた血のかんしよくがあった。

 携帯電話のライトを向けると、血が筋になっているのが見えた。それを辿っていくと、何かで打ったような細長い傷が見つかった。大きさからして棚板だろう。傷口の周囲はこぶになっていて、血はすっかり固まっている。悠貴の言う通り、深い傷ではなかった。

 美久はほっとして肩の力を抜いた。


「よかった……大丈夫そう」

「だからそう言っただろ。吐き気も頭痛もない、ただの打ち身に大げさなんだよ」


 悠貴が顔を上げて面倒そうに言った。その顔を見て、美久は小さく吹き出した。

 美久がめちゃくちゃに触ったせいで悠貴の髪はすっかり乱れていた。これを見たら悠貴君怒るだろうな、と思うと、またおかしさがこみ上げてくる。


「何だよ」

「ううん」


 美久は不審そうな顔つきの悠貴に微笑みかけ、その髪を優しく指でいた。

 とたんに悠貴がめんらった様子で目を逸らした。


「おい、触るな、自分でやる」

「いいよ、ついでだからやってあげる」

「いいって言ってるだろ!」


 悠貴が美久の手を掴まえた時だった。ギイ……、とドアのきしむ音が響いた。

 驚いて戸口を振り返ると、開かずの扉と化したはずのドアが開き、室内に光が差し込んだ。その光の中に、見慣れた人影がある。


「あれ、二人とも何してるの?」


 ドアを開けた真紘は、驚いた顔で美久と悠貴を見た。

 美久は正面に目を戻して、息を呑んだ。

 額が触れるほどの距離で悠貴と目が合った。頭の傷を探るうちに悠貴を胸元に抱き寄せる格好になっていたのだ。それも二人で手に手を取って──


「うわあああ!?」


 美久は飛びすさって真紘に弁明した。


「ちっ、違いますかいです真紘さん、押し倒してません!」

「はあ!? 何言ってるんだ余計誤解される! ていうかそれは男の台詞だ!」


 悠貴も焦っておかしなことを口走ったが美久は気づかなかった。


「だけど悠貴君今のはちょっと……! だって、何て言うか、その……!」

「照れるなバカ! そんな顔でしやべったらますます何かしてたみたいだろ!」

「そう言われたって!」


 真紘はぎゃあぎゃあ言い合う美久と悠貴を交互に見て、にこりと微笑んだ。


「出直した方が良さそうだね」

「何でそうなるんだよ!」


 悠貴は叫ぶと、驚くべき速さで真紘に駆け寄り、ネクタイを掴んで揺さぶった。


「あれは頭の傷を見てもらってただけだ、深い意味はない!」

「そうだね、わかってるよ」

「絶対わかってないだろ!? この状況をよく見ろ、そんな楽しそうな状態に見えるか!? お前が想像するようなことは何もない、そんなに疑わしい目をするなら何でも訊け、ろんてきかつ正確に答えてやる!」

「それなら訊くけど、悠貴は俺が何を想像したと思ったの?」

「っ! 真紘、さま……!」


 言葉に詰まる悠貴に真紘が朗らかに笑う。ケンカにならない兄弟ゲンカを眺めながら、美久は話を聞きそびれたことに気づいた。

 悠貴君、さっき何を言おうとしたんだろう?

 何かを打ち明けようとしたのか。それとも、その場の雰囲気で何となく話しただけだったのか──


「おい、早く出ろ。また閉じ込められるぞ」


 悠貴に声をかけられ、美久は我に返った。

 真紘の横に立つ悠貴は不機嫌な顔をしている。会話が終わったというより、言い返すのが面倒になって話を打ち切った様子だ。


「着替えるなら客席の化粧室を使え。ここだとガラスが落ちてて危ないから」

「あっ、そっか」


 美久が鞄と着替えを引き上げるまで、悠貴はドアが閉まらないように押さえて待ってくれていた。


「まったく、散々な一日だったな」


 そうだね、と美久は悠貴に言いながら思った。

 でも、あと少し。もう少しだけ、悠貴君の話を聞けていたら。


「……もうちょっと、閉じ込められててもよかったかも」


 美久が呟くと、悠貴が呆れたように笑った。


「変な奴」


 その笑顔はいつもと変わりない。けれどその奥に、まったく違う一面があるのを美久は知っている。

 トゲトゲした言葉の奥に見え隠れするもの。時々行動でみせる不思議な一面。

 いつか、ちゃんとわかるかな。

 悠貴のことや、過去のこと。お店や探偵業についても、まだ知らないことばかりだ。知れば知るほど謎は深まるばかりだが、いつかわかる日が来ると思いたい。




 望むと望まざるとにかかわらず、変化の足音がすぐそこに迫っていることを、美久はまだ知らない。

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