ビスケット 1/2〈5〉

    2


 バックヤードに月明かりが射し、青白い影を落としていた。室内は暗く、静まり返っている。

 予想が外れても涼しい顔をしていた悠貴だが、予告時刻から三十分を過ぎたあたりから表情が険しくなり、一時間経つと深刻な顔つきになった。


「考えたくはないが、最悪のケースに嵌まった」


 ぽつりと言った声は強張っていて、それだけで状況の悪さが伝わってくるようだった。悠貴は続けて言った。


「真紘は夕飯を家で食べると言ったんだ。この時間で戻って来ないとなると、今日は帰って来ないかもしれない。誰かにいつぷく盛られたな」

「えっ、盛られたって」


 美久が聞き返すと、悠貴がぼそりと呟いた。


「あいつ、酒を飲むとふにゃふにゃになるんだ」

「ふにゃふにゃ……」

「酒を飲むと陽気になったり泣きじようになるっていうだろ。真紘の場合は幸せになるらしくて、絡み方が面倒臭いんだよ。家以外で飲むなと言っておいたが、祝いの席で飲まされたんだろうな。完全に時間の感覚が飛んで、終電を逃すコースだ」


 つまり、朝まで助けは来ないのだ。美久は壁に体を預けてうなだれた。

 閉じ込められてすでに八時間半。空腹もそれなりだがトイレの方が深刻だ。

 一人暮らしの美久には、帰りが遅くなっても気をつけてくれる人がいない。店の周囲は森で夜になるとめったに人が通らない。大声を出したところで気づいてもらえないだろう。──もし気づいてくれる人がいるとすれば。

 美久は少し迷い、思い切って訊いた。


「悠貴君、真紘さん以外のおうちの人は?」

「いない」

「……違うところに住んでるの?」

「俺の家族は真紘だけだ」


 まるでここにいない誰かに聞かせるような、かたくなな声だった。

 その声に、美久の胸はちくりと痛んだ。

 薄々わかっていた。真紘と悠貴は店の二階に暮らしているが、彼らの両親に会ったことはない。二十七歳と十七歳の兄弟の二人暮らしだ、何か事情があるのだろう──そう思うと、悠貴や真紘にきようほんの質問をぶつけることなどできなかった。非常事態とはいえ、こんなふうに訊くべきではなかったのだ。


「ごめん」

「謝るなら俺だろ。さっきの配送業者を呼び止めれば良かったんだ。……悪い」


 美久は驚いて悠貴を見た。

 悠貴君があやまった……!

 出会ってこの方、悠貴が謝るところを見たことがない。失礼なことを言って美久をからかい、謝るどころか嬉々として追い打ちをかけるのが悠貴だ。口が悪くて、わるで、ひねくれていて、偉そうで、いつもなまで。

 でも、まだ高校生だ。

 月明かりに照らされる端整な横顔が、ふと寂しげに美久の目に映った。

 本当は不安定で未熟で、たくさんじゆんを抱えている。全然かんぺきじゃないのに、頭が良いばかりにそういう部分を上手じようずに隠せてしまう。だけど本当は……。


「──なんか私、ワクワクしてきた」


 美久が呟くと、悠貴は眉根を寄せて美久を見た。


「お前はまた何を言っているんだ?」


 美久は明るく言った。


「だって今はつぽうふさがりだよね。密室だし、真紘さん帰ってこないし、たぶんこのままじゃ明日の朝まで出られない。こんな難しい状況ってそうないよ。それって、すごいなんだいに挑んでるってことじゃない? これが解決できたらきっと楽しいよ、たつせいかんもすごいと思うな! たとえば、窓から出るってどうかな? 窓に届けば私なら出られるかも。非常事態だし蝶番壊すのもアリだよね。いっそドアに穴開けちゃうとか! バックヤードだから使える物があるよ、道具を組み合わせて作ってもいいし」


 だからね、と美久は微笑んだ。


「だめだって決めつけなければ、もっといろんなことができるよ。なんたって悠貴君が一緒なんだから」


 悠貴は驚いたように美久を見つめ、ふと優しい眼差しになった。


「お前──」


 言いかけた悠貴の声に重なって、美久の腹の虫がぐうーと鳴った。

 あたりが水を打ったように静まり返った。

 次の瞬間、堪えかねたように悠貴が吹き出した。


「お前、緊張感なさすぎ」

「そっ、そんなことは……!」


 はんばくするが、同じことを思ったのでそれ以上言い返せない。美久は恥ずかしさのあまり顔が熱くなるのを感じた。

 なんでこのタイミングで鳴るかな! 前にも最悪なタイミングで鳴ったし!


「顔、赤いぞ」


 悠貴が笑いながら指摘した。薄暗いのに目ざといところが憎らしい。


「気のせいでしょ……!」

「そうか? 耳も真っ赤だ」

「気のせいだったら! あっ、そうだ、お菓子! 私ビスケット持ってるよ! 試作品を真紘さんに食べてもらおうと思って、持ってきたの忘れてた!」


 強引に違う話を持ち出すと、話題変えるの下手すぎ、とまた笑われた。美久は無視して立ち上がった。これ以上からかわれてはたまらない。


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