ビスケット 1/2〈3〉


「痛たっ……!」


 痛みにうめきながら上体を起こしかけた時、ふと頭上からかんだかい金属音が響いた。

 美久が顔を上げると、壁に備え付けられていたはずのラックが傾いて、視界いっぱいに迫っていた。


「────!」


 悲鳴はほとんど音にならなかった。

 どん、と鈍いしようげきと共に、目の前が暗くなる。荷物がなだれ落ち、すさまじい音を立てて周囲の音を呑み込んだ。やがて、あたりは静かになった。

 美久は浅く息を吐いた。のしかかるものの重さで身動きが取れなかった。胸が圧迫されて苦しい。だが、痛くない。

 いぶかしく思った時、すぐそばでうめき声が上がった。

 ぎょっとして目を開けると、美久をかばうように悠貴がおおかぶさっていた。


「悠貴君!?」


 悠貴は顔をしかめ、背中でラックを押し上げた。荷物の載っていないラックはそれほど重量がないのか簡単に横に滑り落ちた。

 悠貴が細く息を吐いた。


「まったく、お前は何もないところからよくトラブルを起こせるな」


 私をかばってくれたんだ……。


「ごめん……」


 謝ってから美久ははっとした。


「けがしてない!? 痛いところは!」

「ない。俺はお前みたいにとろくない」


 即答されたが、本当なのか強がりなのかわからない。もう一度訊こうとした時、それより先に悠貴が言った。


「それにしても暗いな、薄暗くてよく見えない」


 言われて初めて蛍光灯が消えていることに気づいた。倒れたラックが照明のスイッチに接触したのだろう。明かりがつけば、悠貴の状態もわかるかもしれない。


「待ってて、今スイッチを」


 美久が体を起こしかけると、「動くな」と鋭く悠貴が言った。


「見えないって言っただろ。そっちはどうなってる?」

「こっちは──」


 言いかけた時、いきなり悠貴の手が美久の頬に触れた。美久がびっくりして体を震わせても、指先は構うことなくその耳や首筋をなぞった。


「ゆ、悠貴君……?」


 悠貴は答えなかった。無言のまま手が離れたかと思うと、おもむろに悠貴が美久の方へ身を乗り出した。これには美久はうろたえた。


「えっ、何!? ちょ、ちょっと待っ」


 しかし悠貴は止まらない。端整な顔立ちが通常では考えられないほど近くなる。吐息が触れるのを感じて美久は息を呑んだ。もう悠貴と距離がない──

 だ、だめ……っ!

 美久はぎゅっと目を閉じて身を縮こまらせた。そして。


「あった」


 ………………あった?


「良かった、無事だ。ヒビも入ってないな」


 美久が目を開けると、悠貴はすでに美久から離れていた。とした様子で拾ったそれ──眼鏡を装着した。

 美久はぽかんとして悠貴を見た。

 もしかして、見えないって……眼鏡? 確かめるって眼鏡探してたの? 動くなって、私の心配じゃなくて眼鏡を踏まれる心配?

 ていうか私って眼鏡以下!?

 理解した瞬間、全身から力が抜けた。

 びっくりした、急にあんなに近くにくるから……!

 まだしんぞうがドキドキしていた。頬がったように熱い。高校生あいに何をどぎまぎしているのだろうと思うのに、波だった気持ちはすぐに治まらない。


「どうした、頭でも打ったか?」


 不意に声をかけられ、口から心臓が飛び出しそうになった。


「なんでもない、大丈夫……! そうだ、電気つけなきゃ!」


 美久は勢いよく立ち上がった。変にきんちようしたせいで体がうまく動かない。ぎくしゃくと歩き出すと、まるでその様子が見えたかのように悠貴が溜息を吐いた。


「下手に動くな。食器の割れる音がしてただろ」

「靴だから平気!」


 そう返したものの、次の一歩は慎重になった。床を踏みしめて壁まで行くと、うすやみに白く浮かび上がる照明スイッチを押した。

 カチッとオンとオフが切り替わる音がするが、室内は暗いままだった。


「あれ? おかしいね」

「まさか、さっきので線が切れたか?」


 照明の配線は壁に留めてあるだけだ。ラックは壁に密接していたので、倒れた時に線を傷つけたのかもしれない。しかしこう暗くては確認もできなかった。


「カウンターに非常用のかいちゆう電灯があったよね。取ってくる」


 美久は悠貴に言った。ドアノブに手を伸ばしてドアを開ける──つもりが、手は宙を掴んだ。暗さで目測を誤ったらしい。今度はちゃんと掴もうと目を凝らし、美久は一瞬何を見ているのかわからなくなった。

 急に動きを止めた美久に、悠貴が怪訝そうに言った。


「どうした?」

「……ドアノブがない」

「は? 何バカなこと言ってるんだ」


 呆れたように言った悠貴だが、美久の隣に来ると凍りついたように動きを止めた。

 ドアノブのあるべき位置には、ぽっかりと穴が開いていた。部品の一部らしき金属片が折れて飛び出している。


「……おい、スマホ持ってるか?」

「ううん、たぶん客席……片付けのときに邪魔で」


 お前もか、と悠貴は溜息まじりに呟いて、ドアを調べ始めた。ドアノブの跡やラッチ、ちようつがいを調べるが、沈黙は深くなるばかりだ。隅々まで調べると、悠貴はいらったようにこぶしをドアに叩きつけた。


「くそ、だめだ」

「じゃあ、出られないの……?」

「無理だ。出入り口はここだけだし、窓は小さすぎる。完全に閉じ込められた」

「そんな……」


 美久が青くなって呟くと、悠貴に白い目で見られた。


「まったく、踏み台から落ちただけで、よくここまで事態を悪化させられるよな」

「えっ、私のせい!?」

「じゃあ何でこうなったんだよ! 出られないどころか、電気も通信手段もない完全な密室だ! 密室なんて日常生活でまずお目にかかれない状況を一瞬で作り出し、あまつさえ俺を閉じ込めるとは何事だ!?」

「それは──」

「だいたい密室と言えば殺人現場、せめて美術館やごうていで起きたとうなん現場だろ! 探偵が密室に閉じ込められるなんてあり得ない!」

「…………ごめんなさい」


 ぐうのも出ず平謝りすると、悠貴が鼻を鳴らした。


「もういい。真紘が帰るのを待つしかないだろ」

「真紘さん、いつ帰ってくるの?」

「さあな、七時頃じゃないか」


 最後に時計を見た時はしようにもなっていなかった。七時までまだ何時間もある。

 美久がうなだれると、悠貴が厳しい口調で言った。


「片付けるぞ。いつまでも立って待つつもりか」

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