ビスケット 1/2〈2〉
1
話は四時間前に
八月最後の土曜日。エメラルドの入り口には閉店の札が下がっていた。
「じゃあ、あとは任せるよ」
客席に立つ真紘はダークスーツにシルバーのネクタイを締めている。友人の結婚式へ出席するためだ。ワックスで動きをつけた髪型が手伝ってか、いつもより華やかできりりとした印象がある。
真紘が悠貴からその隣に立つ美久に視線を向けた。
「小野寺さんもお休みなのにごめん」
「気にしないでください。結婚式、楽しんできてくださいね」
美久が微笑むと、真紘も笑顔になった。
「ありがとう。そうそう、新しい食器だけど、帰ったら俺が洗うから、流しに置いておいて。それからシュガーポットだけど」
「場所も種類もちゃんと覚えてるよ」
横から悠貴が言うと、真紘はほっとした顔つきになった。
「よかった、どこにしまったか自信がなかったんだ。やっぱり悠貴は頼りになる。あ、そうだ、夕方に本が届くんだ。代金は払ってあるから──」
「わかってるから行け。走らないと電車に乗り遅れるぞ」
腕時計を覗き込んだ真紘は「本当だ」とのんびり言って、顔を上げた。
「それじゃ二人とも、あとをよろしくお願いします」
真紘が出かけると、悠貴は扉に臨時休業の張り紙を出した。セールスや張り紙を読まない客が入ってこないように
「よし、さっさと片付けるか」
エメラルドでは年に数回、季節やイベントに合わせて
美久は
「悠貴君、これはどこに持っていけばいい?」
食器棚を整理している悠貴に声をかけると、悠貴は手を止めずに答えた。
「バックヤードを入ってすぐ左に棚があるだろ。空いている段にしまってくれ」
「左の棚ね」
バックヤードは
美久は両腕にダンボールを抱え、背中でドアを押し広げてバックヤードに入った。いったん箱を下ろして戸口の横を手探りする。照明の配線に指が触れると、それを
古い
美久は視線を入り口横の棚に向けた。
「ええと、空いてるところは……」
棚はステンレス製のラックを二つ重ねたもので、高さは天井すれすれだ。どの段もラベルのついたボックスや箱で埋まっているが、上の方にスペースが残っていた。少し位置が高いが、手は届く。
美久はダンボールを抱え直すと、せーの、と声を上げて箱を頭の上に掲げた。軽い物であればそれで棚に収められただろう。ところがダンボールの重量に腕が震えてうまくいかない。ほとんど届いているのに、あと少しのところで棚板に載らなかった。
箱の重さで腕がしびれてきた。しかし今手を下ろしたら、もう一度上げるのにずっと苦労する。
「あとちょっと……!」
頭上にダンボールを掲げたまま
「あれ?」
美久が腕を下ろそうとすると、背後から声が響いた。
「ちゃんと支えてろ」
いつの間にか、すぐ後ろに悠貴がいた。美久の後ろから左手を伸ばし、ダンボールを支えている。
「上げるぞ」
「あ、うん」
美久が前に向き直ると、悠貴はダンボールを軽々と押し上げて棚板に載せた。片手だというのに危なげなところはまったくない。
こういうところはさすが男の子だな、と感心していると、急に背中に感じる体温が近くなった。ダンボールを押し込もうと悠貴が身を乗り出したのだ。
すぐ横に端整な横顔が現れ、美久は慌てて視線をダンボールに戻した。戻すと、もう目を動かせなかった。
背中が密着して
いや、ダンボールしまってるだけだから……!
意識しないようにと思うのに、背中に伝わるぬくもりがそうさせてくれない。悠貴から良い香りがした。甘く爽やかな香りと、ほんのりとコーヒーの匂いもする。
「手、放していいぞ」
その声にはっとすると、ダンボールが棚の奥に収まっていた。背後で悠貴が動くのを感じ、美久は振り返った。
「ありが──」
言いかけて、目を瞬いた。思わず
悠貴君って、こんなに背が高かったっけ?
以前から悠貴の方が頭半分ほど高かったが、いつの間にか軽く顎をそらさないと目線が合わなくなっていた。
「何だ?」
「ううん、なんでもない。手伝ってくれてありがとう」
「礼はいいから、替えのカーテンを探せ。ラベルがついてるからすぐわかるはずだ」
「春に使ってたコットンの?」
ああ、と悠貴は短く言って、部屋の奥にある戸棚へ向かった。
美久は棚に視線を戻し、ラベルを頼りにカーテンを探した。目当てのクリアボックスはすぐに見つかった。
しかし少し問題がある。ボックスがあるのは上から二段目だ。つま先立ちで手を伸ばしてみるが、指先はかすりもしなかった。
また悠貴の手を借りるのも悪い。美久はあたりを見回してから訊いた。
「悠貴君、
「脚立? 踏み台があるだろ、ラックの一番下だ」
言われた場所を覗き込むと、木製の台があった。高さは十五センチほどか。
これで届くのかな、と美久は不安に思った。
エメラルドの作業スペースは総じて背の高い人向けだ。レジカウンターも調理台も一般的なものより高さがある。この踏み台にしても真紘や悠貴なら問題なく使えるだろうが、美久ではそうはいかない。
もっとも、荷を下ろすだけだ。棚板から少し引き出せればボックスが傾いて、あとは楽に掴めるはずだ。ガラスや
美久はそう考え、台の上につま先立ちになって手を伸ばした。数回失敗したが、勢いをつけて跳ねると、ついに爪がボックスの角を
「あっ、届いた!」
思わず歓声を上げると、奥で作業していた悠貴が呆れたように美久を見た。
「騒ぐほどのことか」
「けっこう嬉しいよ」
笑いながらボックスを引き出した時だった。
突然、バキッと音がして足元が抜けた。
「わっ!?」
「あ、バカ!」
踏み台の
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