第一話 ホットミルク〈8〉
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「あの……、橋爪さん?」
美久は粉ミルクの缶と計量スプーンを手にしたまま、恐る恐る訊いた。調理中のフライパンからパチパチと油の跳ねる音が陽気に響く。
橋爪は彫像にでもなったように動かなかった。
唖然とした表情で瞬きもせず美久を見つめている。動いたら何かが壊れてしまいそうで美久は微動だにできなかった。
「お仕事お疲れ様でした」
橋爪の硬直を解いたのは悠貴の声だった。橋爪ははっとした顔で悠貴を振り返った。
「結は、妻はどこですか」
「ああ、気づかれましたか」
「ええわかります! 感じます! どこです、結は今どこに立ってるんですか!?」
「いませんよ、そんなもの」
悠貴は端正な顔にぞっとするほど美しい微笑を浮かべて言った。
「僕は超能力者じゃない。貴方を
「嘘だっ……、確かに感じる、結はここにいるはずだ!」
突然、リビングの方から大勢の笑い声が沸き上がった。消えていたはずのテレビがつき、バラエティ番組が映し出されていた。
まるで応えるように電源の入ったテレビに、橋爪の顔に奇妙な笑みが広がった。
「やっぱりそうだ……」
「偶然です」
「偶然でテレビはつかない!」
「ええ。テレビがついた理由はちゃんとあります。僕は、タイミングが重なっただけだと言っているんです」
悠貴はリビングに向かうと窓を開けた。ベランダに続く大きな窓が開かれると、外の騒音がなだれ込んできた。
エンジンをふかす音、モーター音、積荷の重さに低く唸るタイヤの音……耳障りな騒音が少しずつ音を変えて流れていく。
「誤作動がテレビだけではないと伺った時から、ただの電化製品の故障ではないのは明らかでした。電圧の問題か誤作動を引き起こす要因がすぐ近くにある……そう思っていましたが、こちらに来てすぐにわかりましたよ」
困惑する橋爪に悠貴は言った。
「昨日玄関にいた時、大型トラックが通りましたね。ああいうトラックには互いに連絡を取るためによく無線機が設置されているんですが、中には無線機を不正に改造したり、無線局の免許や無線従事者の資格もなく利用する人がいます。いわゆる不法無線局です」
「ちょっ、ちょっと待って!」美久は遮った。「トラックとか無線とか何の話? テレビがつくことと全然関係ないよ!」
「関係あるから説明してるんだ」
「えっ?」
「ラジオを聴いていたら人の声が飛び込んできた。車道の近くで携帯電話を使っていたら突然電波が悪くなった。そういう経験はないか? 勝手に無線を使う事が問題なんじゃない、勝手に電波を使う事で引き起こされる電波障害が問題なんだ」
電波障害? 美久が頭にクエッションマークを浮かべていると、悠貴は続けた。
「以前、国道沿いの民家で、しまっておいた石油ストーブが突然出火して火事になった事故がある。ストーブはスイッチで点火するタイプだったんだが、その後の調査で極めて強力な電波を受けるとストーブの電子回路が誤作動する事が判明したんだ」
悠貴は騒音を締め出すように窓を閉めた。
「事故原因とも言える強力な電波の出所は、ダンプカーやトラックなどの車両に設置された高出力の違法無線機だと推測されている。改造やブースターで出力が大きくなっていると、車両が近くを通過しただけで様々な
後の言葉は橋爪に向けられたものだった。
橋爪は頬を引き
「根拠は二つ。まず電化製品の誤作動が夜間に頻発していた事。これは輸送車などが交通量の少ない夜に集中するためです。そして誤作動が始まった時期。貴方は二月に入って幹線道路の工事が始まったと言いましたね。以来、マンションの前が抜け道に使われている、と。これは電化製品の誤作動が出始めた時期とぴたりと一致します」
「そんなのは、偶然です……、根拠にならない……」
「では結さんが亡くなって十日も過ぎてから最初の変化があったのはなぜですか? 霊が被害をもたらしているなら、電化製品の誤作動は結さんが亡くなってすぐに」
「ばか言わないでくれ!」
橋爪が鋭く叫んだ。
怒鳴り声に驚いたのか、ベビーベッドの方から細い声が上がる。それはすぐに泣き声に変わり、
橋爪は顔を歪め、深く息を吐いた。
「すみません……」
「待ってください」
奈緒のもとへ向かおうとした橋爪を悠貴が制した。
「ちょうどいい。貴方が〈幽霊〉と呼んでいるものの正体を今お見せしましょう」
挑発的な言い方に橋爪の表情が険しくなった。しかし悠貴は涼しい顔でキッチンとリビングの間のドアを開け、パソコンに電源を入れると、洗いたてのタオルを奈緒の横に置いた。
たった、それだけだった。
「……もういいですか」
橋爪はぶっきらぼうに言い、ベビーベッドの方へ歩き出した。
だがその時、奈緒の泣き声が止まった。
ぐずぐずと鼻を鳴らす音が小さくなり、やがて健やかな呼吸に変わる。
橋爪は唖然とした様子でベビーベッドを見つめた。
「どうして……」
「わかりませんか?」
悠貴は薄く笑むと、ゆっくりと眼鏡を外した。
「答えはここにあります」
橋爪は何が起こったのかまったく理解できず、棒立ちになっていた。
奈緒は抱き上げないと泣き止まない。不安を感じている場合は特にそうで、安心できないかぎり決して泣き止まなかった。それは結を亡くして以来一人で面倒を看ていた橋爪が誰よりも知っている。
それを、悠貴は奈緒を抱き上げもせずに泣き止ませてしまった。
しかしあんな風に泣き止ませる事ができるのは結だけだ。
結にしかあんな事はできない──
「奈緒ちゃんは結さんを感じている。おそらくそれは正しい」
橋爪の考えを肯定するように悠貴が言った。
「じゃあ、やっぱり結はここに!」
「いいえ、結さんは存在しない」
悠貴は跳ねつけた。
わからないなら何度でも言う。そう言わんばかりに眼差しは冷たかった。
「この家にはあるべきものがない。奈緒ちゃんはそれに気づいているんです。結さんと共に失われてしまった、あるものの存在にね。貴方が変えてしまったんだ」
「変えるなんて……! そんな事しない、結の痕跡を消すようなまねが私にできるわけないでしょう!」
「変えてしまったんですよ。そうするしかなかった、と言うべきかもしれませんが」
そう言って悠貴はキッチンの方へ顔を向けた。
「橋爪さん、しばらく台所を使ってませんね。冷蔵庫に食材がないし、ゴミ箱は惣菜や弁当の容器だけ。掃除は定期的にしているようですが、少なくともお義母さんが出入りしなくなってから調理器具には一度も触れていない。違いますか?」
橋爪は黙り込んだ。悠貴の言う通りだった。
奈緒はまだミルクが中心だ。離乳食も始めているが、市販の物を温めて出している。自分の食事はもっと雑で、コンビニ弁当などですませる事がほとんどだった。だがそれが何だというのか。
「だから何ですか。道具も置き場所も全部結が使っているままです。全部ある、何もかもそのままじゃないですか。そんな状態で何が変わるっていうんですか!」
「匂いですよ」
悠貴はあっさりと言った。
「キッチンは調理道具も調味料も充実しています。あれだけの物を揃える人はかなりの料理好きでしょう。ですがキッチンに立って感じたのは古い油の匂いやカルキ、それに大量のプラスチック容器からする腐敗臭でした。事実、ゴミ箱は弁当の容器で一杯でした。視覚情報では家庭的で料理
「それが何だっていうんです……?」
「ええ。もちろんこれは一つの要因にすぎません。決定的なのはこれです」
悠貴が腰を屈め、ローテーブルの
何が出てくるのかと思えば、洗面台の下に置いてあった乳幼児専用の洗濯洗剤だった。見覚えのあるパッケージに橋爪は肩から力を抜いた。
「それは妻が買った物です」
「確かですか?」
「去年奈緒が肌荒れを起こしたんです。それからはずっとその洗剤です」
「間違いありませんか」
しつこく訊かれて橋爪は
「そうですよ、だからその洗剤がここにあるんでしょう!」
「では洗面台の固形石鹸の用途は何ですか?」
予想外の角度から飛んできた質問に橋爪は目を白黒させた。
「……は?」
「手を洗う時はボトルのハンドソープを使ってますよね? 洗顔も専用の物が二種類ありました。じゃあ、あの固形石鹸は何に使うんです? 奇麗好きな結さんの事です、使わない物をいつまでも出しておく性分ではなかったはずだ」
洗面台にある石鹸は橋爪も毎日目にしていた。しかしその用途など考えた事もなかった。あんな石鹸が何だというのか。そんな物の話はどうでもいい。
それなのに悠貴は大
「気になったのでお宅にある洗剤を調べてみました。洗剤には界面活性剤という成分が入っているのをご存知ですか? 汚れを分解して落とす成分ですが、皮膚の炎症を引き起こす原因物質としても知られています。アトピーや肌の薄い人はかぶれるし、乳幼児も例外ではありません。皮膚の厚さは成人の二分の一程度と言われているので、確実にかぶれるでしょうね」
「もういいでしょう! くだらない……、何の話をしたいか知りませんが、結はちゃんと奈緒の事を考えていました! だからその子ども用洗剤があるんです、危険な成分が入った物を結が選ぶはずがないんです、結はいつだって奈緒の安全を」
「界面活性剤ならこの洗剤にも入ってますよ」
さらりと返ってきた言葉に、橋爪は目を見張った。
「そう驚く事でもないと思いますよ。界面活性剤が入ってないと汚れ落ちが悪い。乳幼児向けだから安全だとか、化学物質は入ってないだろうと考えるのは消費者の勝手な思い込みです」
悠貴はボトルを小さく振った。
「結さんも途中で気づかれたようですね。家計簿を確認したところ、この洗剤の購入は去年が最後でした。以降は固形石鹸を購入されています。貴方はそうとも知らず、この洗剤を洗濯に使った。だから奈緒ちゃんに発疹が出たんです」
「そんな……」
「信じられないようでしたらお義母さんに伺ってください。発疹の出た時期を考えると、お義母さんは固形石鹸を使っていたはずです」
橋爪は目眩を覚え、ソファに手をついた。
結は、何の洗剤を使って洗濯をしていた……?
必死に記憶をたぐるが、思い出せなかった。ごく当たり前の日常風景なのに、見かけた事は何度もあったのに、わからない。
橋爪が子ども用洗剤を使ったのは家にあったからだ。乳幼児用と書いてあったから。でもあれが奈緒の発疹の原因で、結は使っていなかった……?
「洗剤を変えると衣類の匂いが変わります。固形石鹸の匂いなんて香料の入った化学洗剤の前ではほとんど無臭です。それに加えてキッチンの現状です、
悠貴の声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。
匂いが変わった……。
だから、家の空気が変わった?
だから結がいなくなったように感じた?
「自分の家がどんな匂いかわかる人なんてまずいませんよ。そんな
──結!
玄関でその名を叫んだのは他ならぬ橋爪だった。
あの瞬間、確かに結を感じた。彼女の気配を強く感じた。……でも、
「……だから、何だって言うんです」
橋爪は唸るように言い、固く拳を握りしめた。
認めない。認めたくない。そんな事を認めてしまったら、
「匂いならさっきからしていたでしょう。奈緒が泣き止んだのと無関係だ、あんなふうに泣き止ませられるのは結だけだ!」
頼むから、そうだと言ってくれ。
結の魂が存在すると、今も変わらず在り続けるのだと言ってくれ。
「簡単な事です。貴方が奈緒ちゃんを泣き止ませるスイッチを押したからです」
「私は何もしてない! 奈緒に触れずにどうしてそんな事ができるんだ!」
「なぜ泣き止むのが仕事中だけなのか考えた事はないんですか」
言葉が鋭く橋爪の胸に迫った。
悠貴は期待や空想を挟ませない。ただ事実のみを告げる。
だから鋭い。
だから、その言葉は容赦なく真実を明らかにしてしまう。
「ホワイトノイズというものがあります。全ての周波数が同じ強さになった音、わかりやすく言えば、放送終了後のテレビやラジオから聞こえる砂嵐のような音の事です。不思議な事にこの音には乳幼児を泣き止ませる効果があります。
言いながら悠貴がデスクトップに手を置いた。
「パソコンの冷却ファン。この音も近いと思いませんか?」
──このパソコンは奈緒のお気に入りだからダメよ。
脳裏に結の声が鮮やかに
買い替えようと言った時、結はそう言って笑った。
安い買物ではない、だから遠慮しているんだと思った。家計や将来を思ってそんな事を言ったのだと。
だけど、違うのか……?
結はこの事を言っていたのか?
「結さんのセレクトショップはフランス向けでしたね。インターネットを介した商売は顔が見えない分、誠実で
まるで見てきたように生前の結の習慣を言い当てられた。彼は、家の状況やわずかな情報から答えを見つけてしまう。
事実を見出してしまう。
「この音がする時、必ず近くに結さんがいた。だから奈緒ちゃんは安心できたんです。奈緒ちゃんにとってパソコンの音が子守唄代わりだったんでしょう。ですが、ある日を境にこの音は聞こえなくなります。橋爪さん、貴方がタブレット端末を利用するようになったからです。購入されたのは新年度になってからでしたね。奈緒ちゃんの夜泣きが再開した時期と一致しますし、先程奈緒ちゃんが泣き止んだ事からしてもこれは明らかです」
事実が、積み上げられていく。
妻の幽霊と、結だと信じていたものが、それを形作っていたものが
「
言葉を切ると、少年は真実を告げた。
「これが、貴方が〈幽霊〉と呼んでいたものの正体です」
橋爪はたまらない気持ちになった。
心が踏みにじられ、千々に引き千切られたように痛い。
「こんな……、こんなつまらないものが結の正体だと言うんですか……!」
橋爪は悠貴を睨んだ。
しかし悠貴は眉一つ動かさず、彫像のように美しく冷たい顔で橋爪を見下ろした。
「今なら貴方が〈幽霊〉と呼んでいた理由がよくわかりますよ。この部屋のラグマットは冬物ですね。六畳間には電気カーペットが敷きっぱなしで、洗面台に至っては結さんの物が手つかずに残っている」
冷ややかな眼差しが橋爪を射抜いた。
「貴方は怖いんだ。結さんがいた証拠が薄れるのも、何かが変わっていく事も許せない。だから変化を変化と認めず、自分の都合の良いように解釈した。〈幽霊〉はそんな気持ちが貴方に見せた幻影です。貴方が結さんの幽霊を呼んだんだ」
言葉が胸に突き刺さった。
心臓を
だが橋爪は悠貴の言葉に傷ついたのではなかった。橋爪を傷つけたのは、悠貴の言葉に驚かなかった自分自身だった。
心の奥底ではわかっていたのかもしれない。いや、本当は知っていたのだ。
結の霊など存在しない、と。
だが結がいない事を認めたくなかった。彼女の魂が今もあるのだと信じたかった。だから信じられた。結の霊がいると確信できた。
けれど、もう無理だ。
もう、夢は見られない。
夢を夢だと知ってしまったらあとは
────もう、認めるしかなかった。
「…………全部、私の
認めてしまうと胸が軽くなり、どっと疲れを感じた。悲しみが鉛のように全身に圧しかかり、一気に自分が老け込んだ気がした。
匂い。
音。
わかってしまえば何とくだらない。
「見たいと思うものを見ていただけなんですね……」
電波障害も冷静に考えれば予想がついたはずだ。それなのにそんなものに
何て
「ばかだな、全部ただの
「──幻なんかじゃない」
不意に硬い声が響いた。
橋爪が顔を上げると、美久が泣きそうな顔で橋爪を見つめていた。
今にも泣き出しそうなのに、その目は怒っていた。
「だって、ちゃんとここにある……っ、結さんが奈緒ちゃんを想う気持ちがちゃんとここにあるじゃないですか! 石鹸もパソコンも全部奈緒ちゃんのためですよね、奈緒ちゃんが大切だから、大好きだから……! 私、会ったことないけどわかりましたよ、結さんの気持ちがちゃんとわかりました! それなのになんで幻だなんて言うんですか。ちゃんと目を開けてください、結さんの残したものにちゃんと気づいてください!」
頬を張られたような
橋爪が唖然として見つめ返していると、美久は業を煮やしたようにベビーベッドから奈緒を抱き上げ、橋爪の胸に押しつけた。美久が手を離すのを見て橋爪は慌てて奈緒を抱き寄せた。
奈緒が迷惑そうに目を開けた。しかし橋爪の胸にいると気づくと、安心したようにシャツに頬をすり寄せて目を閉じた。やがて微笑むような顔で寝息を立て始める。
体温に溶けて、ほんのりと石鹸の匂いがした。
温かなミルクのように甘く、優しい香り。
奈緒の匂いだった。
久しぶりに感じるその匂いは、結の愛したものそのものだった。
唐突に頭の中を覆っていた
私は、何をしていた?
後ろばかり振り返り、あの時間から動こうとしなかった。影を追い、結を想う事で妻を引き止められる気がしていた。
ずっと一緒にいられると思った。
いると信じれば、そこにいると思えたから。
けれど、そうする事で結の本当の想いは失われ、消えようとしていた……。
「この子にとって石鹸の匂いはお母さんの匂いなんですね」
囁くように悠貴が言った。
「もしかしたらその子は、僕たち以上に人の気配を感じているのかもしれません。体温や声のトーン、わずかな事を大事に覚えているんです。だから他の事は貴方が覚えていればいい。いつかこの子が大きくなった時、たくさん話してあげてください。幽霊なんかじゃなく、貴方の言葉で結さんの思いを伝えてあげてください」
橋爪は腕の中で眠る奈緒を見た。
妻の愛したもの。その全てが腕の中にあった。
何も恐れる事はなかったのだ。
妻がそうしたように同じものを
結の想いはここにある。いつだって結は近くにいた。
──ああ、はじめから何も失ってなどいなかったのか。
理解した瞬間、橋爪の目から涙が滑り落ちた。
こぼれた水滴を追うように橋爪は背を丸め、奈緒を強く胸に抱いた。堪えきれない
【次回更新は、2019年7月22日(月)予定!】
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