第一話 ホットミルク〈7〉

    §


「──はい、八時には必ず──すみません、よろしくお願いします」


 悠貴との通話を切ると、橋爪はスマートフォンを眺めて深い溜息を吐いた。

 デスクに戻り仕事に打ち込もうとするが、意識はすぐに別の事に向いてしまう。


 ──結さんに会わせてあげますよ。


 昨日聞いた言葉が耳にこびりついて離れなかった。端正な顔立ちの少年の自信に溢れた声。揺るぎなく放たれた言葉はその瞬間から橋爪の心を捕らえて離さなかった。

 ふと内線が鳴り、橋爪を現実に引き戻した。

 橋爪は時計を見上げ、気持ちを切り替えて受話器に手を伸ばした。



 仕事を終えたのは七時を過ぎた頃だった。これから帰る事を悠貴に電話で伝え、急いで会社を出た。駅のホームに響く出発のベルに紛れて急行電車に飛び乗る。車内は混雑していて他の乗客に白い目で睨まれたが、橋爪はまったく気にならなかった。

 もうすぐ、結に会える。そう思うだけで胸が震えた。

 期待と不安。

 喜びと恐怖。

 様々な感情がほんりゆうのように渦巻いて全身があわつようだった。

 橋爪は震えを抑えるようにきつく吊革を握りしめ、目を閉じた。



 ────結が事故に遭った。

 その知らせを受けた瞬間を忘れる事は永遠にできないだろう。

 目の前が真っ暗になり、意識が巨大な穴に落ちていく。受話器の声は途中から意味を失い、同僚たちの気遣わしげな声もまったく耳に入らなかった。気づくと橋爪はコートも取らず会社を飛び出していた。

 よく晴れた、一月二十一日の出来事だった。

 空気はざんこくなほど冷たく澄んでいた。吐く息は瞬く間に濁り、千切れていく。強引にタクシーを止め、わめき散らすようにして行き先を叫んだ。車の流れは酷くかんまんで水の中を進んで行くようだった。スローモーションで明滅する信号。伸びてたわんだクラクション。遅い。何もかもが遅い。いや、遅すぎたのだ。

 病院のベッドに横たわる結の手は、氷のように冷たかった。



 その日から、全てが無意味になった。

 音は遠ざかり、明かりが消えるように風景もいろせた。物に触れても膜でもあるかのように感覚が薄く、食事は砂を噛むようだった。

 それでも生きていかなければならなかった。奈緒を育て、仕事をこなし、日常をまわしていかなければ……。

 忙しさは救いだった。義母に奈緒を預け、出社して与えられた仕事をこなす。定時に退社し、奈緒を迎えに行く。

 奈緒の夜泣きは酷かった。結がいた時は心配になるくらい泣かない子だったのに、まるで寂しさを訴えるようにぐずり、抱き上げるまで決して泣き止まなくなった。

 深夜。早朝。時間を選ばず奈緒は泣いた。

 苦ではなかった。かわいそうだと思っても胸は痛まない。ただ奈緒を抱き上げ寝かしつける。その繰り返しがあるだけだった。

 奇妙な事が起こったのは、結が亡くなって十日を過ぎた頃だ。

 深夜、ボソボソと話し声が聞こえて目が覚めた。リビングを覗くと闇の中でこうこうとテレビが光っていた。

 消し忘れたのだろう。そう思ってリモコンを手にした時、突如背後から音楽が流れ出した。ミニコンポの電源が入り、CDが再生されたのだ。

 ひやりとした。同時に、胸の底からまったく別の感情が沸き上がった。


「誰かいるのか」


 声はむなしく室内に染みただけだった。

 どうかしてる。

 そう思うのに、『何か』が答えてくれる気がして、橋爪は真っ暗なリビングにたたずんで何時間も待ち続けた。

 そして、それは初めて仕事を持ち帰った晩に起こった。



 仕事に取りかかろうとすると、狙いすましたように奈緒が泣き出した。

 仕方なく書類をテーブルに置き、起動の遅いパソコンの電源を入れてベビーベッドに向かった。

 おしめはれていなかった。服がきつくないか、毛布に熱がこもってないか、義母の教えを一つ一つ確認するがどれも違う。いつもの夜泣きだった。

 ぐずる奈緒を残してキッチンへ向かった。空腹では寝つきが悪い、ミルクをあげれば落ち着くだろう。そう思ってにゆうびんを用意していると、不意に辺りが静かになっている事に気づいた。

 奈緒が泣いていない。

 驚いてベッドに駆け寄ると、奈緒はすこやかな寝息を立てていた。

 唖然とした。

 奈緒は抱き上げないと泣き止まない。人の温もりを感じてはじめてあんしたように眠る。それなのに、どうしてこんなにも幸せそうな顔で眠っている?

 ありえない、と思った。結を亡くして向こう、こんな事は一度としてなかった。こんな事が起こるはずがない、こんな事ができるのは──


「……いるのか、結?」


 返事はなかった。

 胸を満たしていた高揚が一瞬で冷め、失望に変わる。橋爪はあまりにばかばかしい期待を抱いた自分に呆れ、さらにその期待が外れてらくたんしている自分に気づいて失笑した。それなのに一度描いた夢は消えてくれない。切望が胸を焦がし、心をに引き裂く。

 こんなのはただの偶然だ。偶然は、二度起こらない。

 橋爪は顔を歪め、きつく自分に言い聞かせた。

 ……そう、偶然は二度起こらない。

 不思議な現象は次の日も起きた。

 その次の日も、またその次の日も。

 橋爪が仕事にかかると、決まって奈緒は泣き止んだ。おむつやミルクが原因で泣く事はあっても、仕事中だけは寂しさに橋爪を呼びつけなくなった。

 不思議な体験だった。まるでその一時だけ結が生きているようだった。

 結が傍について奈緒を見守っている、仕事の邪魔にならないように手を貸してくれている。そう思えてならなかった。

 間もなく橋爪はスイッチ付きの電源タップを買った。深夜にひんぱつする電化製品の誤作動。今までそれを眺めては淡い期待を抱いてきたが、もうその必要はない。

 直接結の姿を見られなくとも奈緒の様子を見ればわかる。目を閉じれば橋爪にもその存在が感じられた。

 温かな空気。優しい匂い。

 結はここにいる。

 形こそ違っていても、それは以前と変わらない幸せな生活だった。


 だが、別れは唐突だった。

 三月中旬、義母が腰を痛めたのをきっかけに生活はぜん忙しさを増した。

 運良く保育所に空きが出て奈緒を預けられたが、それまで義母に任せきりにしていた家事が橋爪に圧しかかった。橋爪は寝る間を惜しんで働いた。移動時間もばかにならず、タブレットを常に携帯してわずかな時間も仕事にあてた。

 その夜も橋爪は仕事に追われていた。十時を過ぎた頃、ベビーベッドの方から頼りない声が上がり、奈緒がぐずり出した。

 いつものように体温や衣類を確かめるが問題はなかった。温めの麦茶を哺乳瓶で与えると奈緒は満足したように寝息を立て始めた。しかし数分と待たずにまた泣き出してしまった。

 結はどうしたんだろう?

 どうして奈緒を放っておくんだ。

 奈緒を抱き上げると、奈緒は安心したように目を閉じた。しかし、寝かしつけてしばらく経つと、また不安を叫ぶように泣き出した。

 胸の底が冷やりとした。


「結?」


 橋爪はぐずぐずと鼻を鳴らす奈緒を抱え、室内を見回した。

 なぜ結は出てきてくれない、どうして奈緒の傍にいてくれない?

 焦りが募った。見えないとわかっていてもその気配を探らずにはいられない。

 そうして、橋爪は恐ろしい事実に気づいた。

 改めて見る自分の家が、まるで他人の家のよう思えた。明確に『何』とは言い難い。家具もその配置も以前と同じだ。

 だが、違う。

 目に見えるものではない。この家を満たしていた空気のような、雰囲気のようなものががらりと変わっていた。


「結……?」


 空気は冷ややかで、よそよそしい。温もりを感じられない。すぐそこにあったはずの結の気配が消えている。

 彼女がいない。

 結が、いない。

 理解した瞬間、腹の底から恐怖が沸いた。体のしんが冷え、冷や汗が噴き出した。


「結……! どこだ、結!」


 橋爪は叫んだ。だが応えるものはない。

 ぐずる奈緒をベッドに寝かせ、電源タップに駆け寄った。電化製品の電源をオンの状態にしておけば、結が現れるかどうかすぐにわかる。

 ──でも、家電が誤作動しなかったら?

 スイッチに触れる直前で橋爪は凍りついた。

 もしテレビやオーディオがつかなかったらどうする。何事もなく夜が明けてしまったら。結がいないとわかったら。結が存在しないと知ってしまったら。


 結を失っていたら?


 背筋の凍るような恐怖に息ができなくなった。

 二度目のそうしつ感。それは事故で結を亡くした時よりも深く、ようしやなく、橋爪を打ちのめした。

 橋爪はテレビのコードを電源タップから引き抜いた。ミニコンポやエアコン、勝手に電源が入りそうな家電の電源は全て断った。

 知ってはいけない。

 結が戻ったとわかるまでこんな方法で確かめてはいけない。

 奈緒はそんな橋爪を責めるように泣いた。抱き上げれば泣き止むが、その度に結がいない事実を突きつけ、結のいない痛みを橋爪に思い知らせた。さらに奈緒に発疹が出るようになり、それが原因でぐずる回数が増えた。

 橋爪は途方に暮れた。誰を頼ればいいかわからなかった。誰にも相談できなかった。幽霊が消えたと言って誰が信じてくれる? 不安と疑問で窒息しそうになるのに、朝になれば仕事へ向かい、夜は奈緒のめんどうを見なければいけない。しかし発疹は一向に良くならず、夜泣きはますます酷くなっていく。

 もう、どうすれば良いのか、わからなかった。

 結がいればこんな事にはならなかった。

 結がいれば、結さえいてくれたら──



「……です。各駅停車は二番線に参ります。発車までしばらくお待ちください」


 空気の吐き出される音に続いてドアが開き、車中に外気が流れ込んできた。

 橋爪ははっと我に返り、慌ててホームへ降りた。

 芯があるように痛む頭に夜風が心地良かった。疲れた目元を指でほぐし、時計を確かめる。時刻は八時を回ろうとしていた。悠貴たちをだいぶ待たせている。

 橋爪は改札へ向かう人の流れに交ざり、家路を急いだ。通い慣れた道を足早に過ぎ、自宅のあるマンションへ。

 薄暗い階段を上って最上階の三階に出ると、玄関の明かりがついていた。たったそれだけの事なのに心が和んだ。こうして誰かが帰りを待ってくれているのはいつぶりだろう。

 橋爪は家の鍵を開け、玄関から呼びかけた。


「遅くなってすみま……」


 言いかけた言葉は、喉でついえた。

 目眩がした。タイムスリップしたような、奇妙な感覚。

 電球の暖かな光に照らされる玄関。靴箱の上に積まれた郵便物、厚手の玄関マット、木目の優しいフローリングの廊下。何もかも見慣れている。だが、違う。

 結……?

 一歩足を踏み入れた瞬間からわかった。

 温かで、優しい空気。懐かしい匂い。

 肌でわかる。感覚の全てがそうだと言っている。


「──結!」


 橋爪は叫び、廊下を駆けた。転げるようにドアノブを掴み、勢いよくドアを開く。キッチンに立つ結が振り返り、一瞬驚いたように目を丸め、微笑んだ──


「おかえりなさい、橋爪さん」


 振り返ったのは、まだそこそこの女子大生だった。

 橋爪は魔法が解けたように呆然と美久を見つめた。



【次回更新は、2019年7月19日(金)予定!】

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