第一話 ホットミルク〈6〉


    4


「────で、なんでこうなるの!?」


 翌日。美久はぞうきんで床を磨きながら悠貴を睨み上げた。

 時刻は午後五時半。夕陽の射す橋爪家のリビングは大掃除の真っ最中だった。

 話は一時間半前にさかのぼる。悠貴の学校が終わるのを待って、美久は再び橋爪の家を訪れた。

 橋爪は出勤しているので自宅には鍵がかかっていたが、「霊と会うには準備がいる」と悠貴がうそぶいて昨日のうちに合鍵を預かっていたのだ。

 主不在の家に上がり込んで何をするのかと思えば、始まったのがこの大掃除である。橋爪もあと一時間もすれば帰ってくるので、掃除は急ピッチで進められた。

 ……美久一人の手によって。

 エプロンにゴム手袋、ポケットには化学雑巾とスプレータイプの住宅用洗剤という完全装備の美久に対し、悠貴は制服のブレザーのまま優雅にソファに腰かけ、紅茶を片手にくつろいだ様子でファイルを読んでいる。


「手伝うよとか言おうね! 女の子にこういうことさせるなんてカンジ悪いよ!」

「失敬だな。俺も仕事中だ」


 どこが!

 怒鳴り返そうとした時、洗面所の方からピー、ピー、ピー、と電子音が響いた。本日三回目の脱水完了の合図だ。

 悠貴はファイルから視線も上げずに、ひらひらと手を振った。


「次の洗ってこい。必ず石鹸で手洗い、洗濯機は脱水専用だ。早くしないと橋爪が帰ってくるぞ。準備が整ってないと〈幽霊〉は出てこないからな。お前の不手際で結の霊と会えなかったら、橋爪はへこむだろうな」

「~~~! わかってます!」


 美久は雑巾をバケツに突っ込んで、ふんぜんとしてリビングを後にした。

 洗面所に入ると、洗濯機のふたを開けて脱水の終わった衣類をかごに移した。それから床に積んだ衣類の山から小さな服を数枚取る。置いてあるのは全て奈緒の物だ。洋服、よだれけ、夏掛けからシーツまで何でもありだ。


「手洗いはまだいいけど、汚れてない物まで洗わせるなんてどういうつもりなの」


 美久はぷりぷりしながら洗面台の石鹸を取った。


「もー意味わかんない! 絶っ対幽霊関係ない、嫌がらせだよあのじゆうと高校生!」


 怒りに任せて衣類を洗い、よくすすいでから洗濯機に投げ込んだ。ある程度溜まったところで洗濯機の脱水ボタンを押して、かごを抱えてリビングへ戻った。

 西日の射すリビングは陽だまりと石鹸の香りが混じった優しい匂いに満ちていた。ベランダにはもう干す場所がないので、カーテンレールと棚のでっぱりに荷造りひもを渡して仮の物干台にしている。


「ねえ、こんなことして何の意味があるの? そろそろ教えてよ」


 美久は洋服のしわを伸ばしながら悠貴に訊いたが、返事はなかった。

 また聞いてないし……!

 本当ヤなヤツ!


「幽霊って何だ?」


 そう思った時、不意に悠貴が言った。話しかけてくるとは思わなかったので、美久は少なからず驚いた。


「おい、答えろ」

「ええと……、亡くなった人の魂とかご先祖様とか、フクザツな事情でじようぶつできなくなっちゃった人がウロウロと」

「そういう意味じゃない。幽霊っていうのは目に見えないんだろ? 触れられないし、話せない、言ってしまえば認識できない存在だ。そんな『ない』存在を、どうして『いる』と認識できるんだ?」

「だから誰もいない部屋から音がしたり、テレビがついたり消えたり」

「そんなの家鳴りと電化製品の故障だ」

「じゃあ人の気配がするとか」

「気配って何だ?」

「えっ?」

「気配だよ。人の気配、誰かいる気がする。すごく漠然としてないか? 仮に気配というのがあるとして、そんなものをどう感じ取る? 気配って何なんだ」


 美久は答えにきゆうした。気配。日常的に使う言葉だが、それで何を感じているのかと改めて問われると、『何か』としか言い様がない。

 最初から答えを期待していなかったのだろう、悠貴は美久の返事を待たずに答えた。


「目に見えないもので感じられるもの。裏を返せば、それが気配の正体だ」

「……よくわからないけど、それとコレがどう関係あるの?」


 美久がぴんと伸ばした小さな肌着をかざすと、悠貴はつまらなそうに言った。


「現象を読み解けば幽霊の正体はわかる」

「洗濯物と関係がある現象って……あっ! もしかして奈緒ちゃんの発疹のこと? 悠貴君は洋服の汚れが原因で発疹が出たと思ってるの?」

「半分正解だな」


 美久はあんぐりと口を開けた。


「そういうことは先に言ってよ! 赤ちゃん用の洗濯洗剤あったのに! だいたい橋爪さんは洗剤変えてないって言ってたよ!」

「うるさいな。それより洗濯が終わったんなら、この中から何か作れ」


 言うが早いか、悠貴がファイルを投げてよこした。ファイルは結のレシピブックのようで、雑誌の切り抜きの横に癖のある丸字でちゆうしやくが入っている。

 美久はファイルから顔を上げ、じろりと悠貴を見た。


「作るのはいいけど、そろそろちゃんと説明してよ。ホント君って感じ悪──」


 その時、着信メロディが響いた。悠貴はポケットから黒のスマートフォンを出すと耳にあてた。


「はい、上倉です。──ああ、橋爪さん」


 ころりと声音を変えて悠貴は愛想良く応じた。


「そうですか、では僕たちが代わりに伺います。証明する物は必要ですか──はい、わかりました。では後程」

「橋爪さん?」


 電話を切るのを見計らって尋ねると、悠貴が立ち上がりながら言った。


「ああ、帰りは八時頃になるそうだ。保育所へ迎えを頼まれた。行くぞ」

「それなら一人で行っていいよ。もうちょっとで脱水終わるから」


 美久が答えると、廊下に向かおうとしていた悠貴の足がぴたりと止まった。


「……俺が残る。お前一人で行ってこい」

「なんで?」


 悠貴は仏頂面で黙り込んだ。

 赤ちゃんを迎えに行くだけなのに何が不満なんだろう?

 そこまで考えて、美久はぽんっと手を打った。


「そっか、赤ちゃんとどう接していいかわかんないんだ!」

「うるさい!」


 すかさず言い返すところが意外とかわいい。

 こういうところは普通の高校生なんだ。

 歳相応の反応が妙に新鮮で、美久は声を立てて笑った。



【次回更新は、2019年7月16日(火)予定!】

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