第一話 ホットミルク〈5〉

    3


「ちょっと君、君もだいぶ意味不明だよ!」


 悠貴を追いかけて廊下に出た美久は声を潜めて言った。


「どこが意味不明だ?」

「だって幽霊を捜しに来たんだよね? だったら橋爪さんからもっと話を訊いたり、こう、ゴーストバスターみたいな、赤外線カメラとか無人カメラ的なものを設置して、って聞いてる!?」


 悠貴の背中はすでに廊下の右側のドアへ消えようとしていた。

 慌てて追いかけていくと、洗面所だった。入口の左側に洗面台、奥に洗濯機、右手のガラス戸の向こうは場のようだ。悠貴はといえば、洗濯機の前に立ち、洗濯機上部の備え付けの棚をあさっていた。これにはさすがに美久も面食らった。


「ねえ、ちょっと何してるの!」

「うるさいな。それより洗面台に何がある? 物の名前を全部挙げろ」


 問いただしたかったが、ヘタな事を言うと百倍返しでばかにされるに違いない。

 美久は渋々と洗面台に目を向けた。


「真ん中に鏡がついてるよ。棚には歯ブラシが二本と、コップ、化粧落とし、洗顔料……こっちは男性用の洗顔料かな?」


 身だしなみを整える場所なので、こうこうケア製品から整髪料まで様々だ。女性用の物は結の持ち物だろう。こちらもいつでも使える状態で置いてある。


「台の周りと下の棚はどうなってる?」

「ええっ、そんなところまで勝手に見るの?」


 非難の声を上げると、悠貴がきつい眼差しで睨んできた。

 私、そんな変なこと言いました……?

 そう思ったが、喫茶店を出て早々に受けたあくらつな分析がおくに生々しすぎて美久はそれ以上反論できなかった。

 仕方なく洗面台の下の戸を開けて中を確認した。


「洗剤置き場みたいだよ。柔軟材と洗濯用洗剤と、赤ちゃん用の洗濯用洗剤と、じゆうそうでしょ、それからお洒落着用の洗剤と──」


 視線を上げると、洗面台の横にプッシュ式のハンドソープと業務用のように大きな固形石鹸があった。


「あと液体石鹸と石鹸も」


 美久が言ったとたん、悠貴が弾かれたように振り返った。

 悠貴は美久の隣に来ると、げんそうに戸棚を覗き込んだ。何が気に入らないのか、洗濯洗剤のボトルを手に取ってラベルを確かめていく。と、その手が不意に止まった。


「なるほどな、そういう事か」

「えっ、それどういう……あ、ちょっと!」


 悠貴は立ち上がると、洗面所から出て行ってしまった。


「何考えてるのよ、もー!」


 美久は棚を元通りに整え、急いで悠貴を追った。

 悠貴は廊下を挟んだ向かいの六じようにいた。フローリングの床には電気カーペットが敷かれている。寝室に使っている部屋かな、と美久が考えている内に、悠貴は美久の横をすり抜けて廊下に出た。


「ねえ、さっきから何してるの? 幽霊捜さなくていいの?」


 美久は尋ねたが、悠貴は完全無視の体でキッチンへ入っていった。パタン、と閉まったキッチンのドアを見て、美久は頬を膨らませた。

 いくら何でも失礼すぎる。


「あのね、悠貴君! 返事くらいちゃんと──」


 美久はキッチンのドアを開けて怒鳴り、次にあっけに取られた。

 悠貴が半ば頭を突っ込むようにしてシンクの中を覗き込んでいた。かと思うと、今度は冷蔵庫を開けて物色を始めた。

 なんで冷蔵庫……?

 これじゃあ幽霊捜しというより家捜しだ。幽霊が冷蔵庫や配水管に詰まってるわけがない。……たぶん。

 冷めた目で様子を眺めていると、不意に悠貴が美久を見た。


「おい、手伝え」

「手伝うわけないでしょ!」

「話は最後まで聞け。橋爪さんが昨日奥さんの形見の結婚指輪を落としたそうだ。家の中だろうと言っていた。小さな物だからどこかに紛れたんだろ」

「え? ……あっ! それでさっきから家捜しみたいなことしてたの?」

「ゴミ箱を調べてくれるか?」

「う、うん!」


 美久はパステルカラーのボックスからゴミ袋を引っ張り出した。ゴミを散らかすのは忍びないので、袖をまくって直接中に手を突っ込んだ。ほとんどがそうざいや弁当のプラスチック容器で、なかなか下まで手がつかない。


「何かあったか?」

「ううん……空のコンビニのお弁当ばっかりで」

「ああ、だろうと思った」


 当然とばかりに返って来た言葉に美久は動きを止めた。


「は……? えっ……、ええええ、ちょっ、どういうこと、指輪は!? あれ、そういえば悠貴君いつのまに橋爪さんとそんな話を??」


 冷蔵庫の方を見るが、しかし悠貴の姿がない。首をめぐらすと、悠貴はリビングのドアを開けて橋爪に声をかけていた。


「橋爪さん、家計簿はありますか?」

「いえ、私はつけてないですが……妻がつけていた物ならパソコンに」

「拝見します」


 悠貴は歩き出し、思い出したように肩越しに美久を見た。


「ゴミ、もういいから」

「…………」


 ────だまされたあああ!


 何をさせたいのか知らないが指輪の話は嘘だ。

 何これ、嫌がらせ!?

 信じられない、何考えてるの、何なのよもう!

 美久は内心に叫び狂い、乱暴にプラスチックゴミを袋に押し込んだ。今度という今度は許せない。

 美久はゴミ箱を片付けると、目を吊り上げてリビングへ飛び込んだ。


「どういう事ですか?」


 ところがリビングへ入ったところで、悠貴の困惑したような声が聞こえた。眉を顰めた顔は本気で困惑しているようだった。

 初めて見る悠貴の様子に、美久は怒っていた事も忘れて二人のやりとりに耳を傾けた。


「つまり、コードは一つも電源タップに繋いでいないんですね?」

「ええ。結が近くに来ると誤作動するので。奈緒を驚かせたり朝までつけっぱなしになるのも心配ですしね」

「結さんの霊が現れた時に電化製品の誤作動を防ぐため……そういう事ですか?」


 そうです、と橋爪は答え、パソコンのコードをたぐり出した。

 その動作で美久ははじめてパソコンがコンセントに繋がっていない事を知った。いや、パソコンだけではない。オーディオやテレビ、部屋中の電化製品のコードが抜いてある。

 確かにこれなら幽霊が出ても勝手に電源が入らないだろう。

 しかし美久は不思議だった。


「テレビがついたり消えたりするのは近くに結さんがいるからですよね? でも結さんの霊が失踪してるなら、家電の誤作動もなくなったんですよね?」


 橋爪は答えず、微笑んだだけだった。

 微笑んだというより奇妙に顔を歪めたと言うべきかもしれない。その表情に美久は何となく落ち着かない気持ちになった。

 橋爪がデスクトップ型パソコンのメインスイッチを入れると、モーターが目を覚ましたように動き出し、お馴染みの起動音が上がった。冷却ファンが掃除機のようなうなりを上げて画面にOSのロゴが表示される。


「このパソコンは奥様の物ですか?」


 悠貴がパソコンの前に座りながら橋爪に訊いた。


「いえ、そういうわけでは」

「ですが橋爪さんはタブレット端末で仕事をされてますよね」


 ああ、と橋爪はローテーブルに目をやった。


「あれの方が速いんです。前はこのパソコンを使っていましたが、最近はほとんどタブレットですね。電車でもどこでも書類に目を通せるし、試しに外付けのキーボード買ってみたら案外良くて。簡単な文書作成くらいならタブレットの方が手間が少ないんですよ。このパソコン、遅いでしょう?」


 橋爪の言うようにモニターにはまだローディングの文字が明滅していた。起動までしばらく時間がかかりそうだ。今時本体とモニターが一体型ではない事からして、かなりの年代物だろう。


「タブレットを購入されたのはいつ頃ですか?」


 悠貴が尋ねると、橋爪は記憶を辿たどるようにして答えた。


「新年度に入った頃だったので、今月になってからですね」

「では、このパソコンを起動させるのは久しぶりなんですね」


 ようやく青い画面がユーザー設定の壁紙に切り替わった。フォルダが表示され、ローディングを示していたカーソルが矢印マークに変化する。


「……確かに結の方がこのパソコンを使っていたかもしれません。結はセレクトショップ持っていたので。あ、その右上のフォルダです」


 橋爪が悠貴にアイコンをダブルクリックするよう促した。下層にはさらにフォルダが収納されており、年度別に分けてある。その中に〈ショップ用〉というフォルダを見つけて、美久は橋爪に訊いた。


「結さんってセレクトショップのオーナーさんだったんですか?」

「ええ。でも店舗があるわけじゃないんです。管理や維持が大変だからネット上に開設した店で、海外向けに日本の雑貨を輸出してました」

「海外にですか!」


 美久が目を丸めると、橋爪は自分の事を誉められたようにそうごうを崩した。


「結は学生の時に交換留学でフランスにいたんです。親に迷惑はかけられないって、高校の時からずっと貯金をしてて。そのホームステイ先の家族が日本贔屓びいきで、その人たちに日本のしつを紹介したのがきっかけなんです」


 橋爪はモニターを見つめ、何かをなつかしむように微笑んだ。


「趣味の延長だったけど、軌道に乗っていました。せっかくだし新しいパソコンに買い替えようかって結に訊いたんです。そしたら、いらないって」

「えっ、新しい方が便利なんじゃないんですか? このパソコン古そうだし……」

「ええ、処理速度とか容量とか圧倒的に。でもこのパソコンは奈緒のお気に入りだからダメだって。おかしいですよね、まだ首もすわってない奈緒が使うわけないのに。妙に遠慮深いっていうか、頑張り屋な分甘えるのがヘタっていうか」


 橋爪は苦笑いして、寂しそうに囁いた。


「他に欲しい物があるなら、そう言えば良かった」


 その答えは二度と聞けない。

 欲しい物を尋ねる事はおろか、たわいのない会話を楽しむ事さえも。

 その機会は永遠に失われてしまった。

 美久は何と言葉をかけていいかわからず、押し黙った。沈黙を埋めるようにパソコンの終了音が響く。悠貴がファイルのチェックを終えたようだ。


「何かわかった?」


 美久が訊くと、悠貴は、ああ、と生返事したきり黙り込んでしまった。

 パソコンが完全に停止すると、沈黙がしかかるようだった。気にもしていなかったパソコンのモーター音が静寂を埋めていたのだと知る。沈黙に耐えかねて美久が口を開こうとした時だった。


「結さんの霊がどこに消えたのか、わかりました」


 突然、悠貴が言った。

 美久はぎょっとして悠貴を見た。

 人の家を勝手に漁って、家計簿を見ただけ。一度もまじめに幽霊を捜してもないくせに適当を言うにもほどがある。


「本当ですか」


 しかし悠貴が何をしていたか知らない橋爪は目をらんらんと輝かせた。今にも飛び上がって喜びたいのを理性で抑えている──青ざめた顔と握りしめたこぶしから心の動きが手に取るようにわかり、美久はいたたまれなくなった。

 期待させておいて結の幽霊が現れなかったら、橋爪はどんなに傷つくだろう。その姿を想像するだけで胸が痛む。


「お任せください。明日、必ず結さんに会わせてあげますよ」


 それなのに悠貴は悪びれもせず、端正な顔を綻ばせたのだった。




「どういうつもりなの!」


 マンションを出たところで美久は悠貴に詰め寄った。本当はその場で問いただしたかったが、橋爪の手前、水を差すような事は言えなかった。

 外はすっかり夕暮れ時になっていた。申し訳程度にガードレールがある歩道のすぐ横を、大型車両が地響きを立てて通り過ぎていく。

 悠貴は答えず、すたすたと歩いて行ってしまった。


「ねえ、聞いてるの! 橋爪さん信じきってた! なんであんなこと言ったの、嘘だってわかったら橋爪さんすごく傷つくんだよ!」

「嘘をついてどうなるんだ」


 あっさり言い返され、美久ははなじろんだ。ばくぜんとしていた疑惑が確信へと傾く。

 嘘を吐いていないなら、悠貴はすでに失踪した幽霊の居場所を知っている事になる。調査もせず、家の中をふらふらしただけ。それで幽霊を見つけたというなら、考えられる可能性は一つしかない。


「……じゃあ、やっぱりそうなんだ」


 悠貴が怪訝そうに美久を振り返った。

 夕陽の射す歩道に二人以外の人影はない。車道の信号が赤になり、車が緩やかに停止していく。騒音が止むのを待って、美久は静かに切り出した。


「悠貴君、幽霊が見えるんだね?」


 悠貴の目が大きく見開かれた。その表情に美久は確信した。


「変だと思った、橋爪さんから話を訊かないで部屋ばっかり見て。結さんの霊が見えてるんだよね? 私の性格を当てたのだって、あんな少しの手がかりからわかっちゃうなんて変だよ。推理力ってより見えないお友だちから聞いたって方が筋が通るよ」


 そう、依頼を受けた時点でその可能性を疑うべきだったのだ。

 そもそも調査なんて必要ない。

 悠貴君には最初から結さんが見えていたんだから──!

 悠貴は肩の力を抜くと、観念したように目を伏せた。


「もう、お前をバカなんて呼ばない」

「じゃあやっぱり……!」

「ああ、バカのはんちゆうを大幅に超えている。バカという単語じゃカバーしきれない、お前をバカと呼んだら世の中のバカに失礼すぎる」

「え……? ええええ!?」


 遅れて美久が理解すると、悠貴の表情がふんに一転した。


「このド馬鹿が! お前の脳味噌は単身にん中か!? どこへ行った、海外か、ブラジルかエベレスト山頂か! 今すぐ取りに行って来い!」


「ちょっ、ひどいっ! 君が紛らわしいのがいけないんだよ!? 調査もしてないのに幽霊を呼べるっていうから!」

「幽霊じゃない、結の霊と会わせてやると言ったんだ!」

「同じことじゃない!」

「全然違う!」


 悠貴はえ、心底ばかにしたように鼻を鳴らした。


「幽霊なんてこの世にいるか。少なくとも今回の案件には関係ないね。だいたいこんな簡単なケースも珍しいくらいだっていうのに、お前の知能が疑わしいよ」


 美久は混乱した。幽霊はいない。いないけど、幽霊を呼び寄せられる??


「じゃあ一体……? 君は何をする気なの?」

「そんなに知りたいなら明日一緒に来い。お前にも〈幽霊〉の正体を見せてやる」


 端正な顔を綻ばせ、悠貴が細く笑った。


【次回更新は、2019年7月12日(金)予定!】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る